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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第33話 欠けた一節が刺す痛み

 洞窟の奥の静けさは、水の底なのに乾いていた。耳に届くのは、仲間の呼吸と、石の鼓動が余韻として残した、ごく小さな揺れだけだ。

 レオパードジャスパーの心臓は、もう眠ったのか、それとも聞き耳を立てているのか。瑛大は笑ったまま目だけを細め、岩肌へ指先を当てて確かめる。ひやりとした感触が、掌の線に沿って上へ這った。


 「……ここ、さっきと違う」


 友樹也が水滴を払って言った。指が示した先は、壁の一部だけ、削られたように浅い溝が走っている。削り跡の周りは、石が乾いたまま白く、霧の湿りが寄りつけない。

 空虹が膝をつき、灯りを寄せた。規律を口にする時の硬さではなく、危ない段差を見つけた時の低い声で言う。


 「落とし物じゃない。意図して外されてる。手順、確認」


 真由梨は遅れ気味に近づき、ロープの端を岩の突起へかけ直した。濡れた袖を気にする様子もなく、淡々と結び目の向きを揃える。

 「引くなら、この角度。外すなら、まず楔を入れる。急ぐと欠ける」

 その言い方が、いつも台所で包丁を研いでいる人みたいで、友樹也は思わず口を尖らせた。

 「真由梨さん、洞窟でも料理してる顔だ」

 「料理はしない。段取りはする」

 真由梨はそれだけ言い、ロープを軽く引いて張りを確かめた。


 溝の端に、薄い石板の角が覗いていた。欠けていた一節――皆が何度も思い出そうとして、言葉が喉で引っかかったあの部分だ。

 継司が一歩前へ出た。いつもなら、少し遅れて周りを見渡し、逃げ道を確かめてから手を伸ばす。けれど今は、足が先に動いた。


 「……これだ」


 指先が石板の縁へ触れた瞬間、洞窟の匂いが消えた。

 湿った畳。寝台の足元に溜まる霧。母が桶を持って立つ影。弟の裸足が床を叩く音。父の声――「戸を閉めろ」。

 鍵を回す音が、普段より大きく聞こえる。自分の手の中の金属が、冷たく重い。回したら霧が入る気がして、回せない。回せないまま、ただ立つ。


 布が裂ける音。誰かの名前が途中で切れる音。


 継司の肩が小さく跳ね、指が石板から離れそうになった。水の底なのに、喉が乾く。目の前の石は、ただの石のはずなのに、痛みだけを正確に突き出してくる。


 「継司」


 瑛大が、継司の前へ出た。洞窟の灯りが、瑛大の頬の水滴を小さく光らせる。笑顔は崩れていない。けれど、軽くない。


 「その痛み、持ったままでいい。今の誰かを守れる」


 継司は、息を吸うのに時間がかかった。瑛大の言葉が、壁にぶつからず、胸の奥まで届く。怒哀の霧が寄ってきても、瑛大は目を逸らさない。


 光希が、継司の横へ回り込んだ。手首にそっと触れる。握り込んだ指の関節が白いのを見て、光希は声の高さを一段落とした。


 「今は、外す手順だけ見よう。石板の縁、ここ。息、ここで吐ける?」


 継司は頷いた。頷きながら、吐く息が震えるのが悔しい。けれど、光希の掌は離れない。支えるというより、手首が勝手に逃げないよう、そこに居続ける。


 空虹が小さく手を上げた。

 「合図は三つ。『いち』で楔、『に』で支え、『さん』で抜く。言葉を揃える」

 琉唯が槍の石突で床を軽く叩いた。

 「抜けるなら抜け。折るな」

 短いが、守るための言葉だ。


 真由梨が楔を渡した。濡れた木片は滑る。友樹也が自分の布で拭き、滑り止めに塩を少しだけ擦り込んだ。

 「塩、こういうときは役に立つっすね」

 「余計なこと言うと、手が滑る」

 空虹が睨むと、友樹也は口を結んで、指で自分の唇に鍵をかける真似をした。さっきの重さのままではなく、今はちゃんと皆を笑わせない程度に、そっと。


 「いち」


 空虹の合図で、光希が継司の手首を支えたまま、瑛大が楔を差し込む。岩に当たる音が、乾いて短い。

 継司は目を閉じそうになった。閉じたら、あの夜に戻る気がした。だから開ける。灯りを見る。瑛大の手を見る。光希の指が、ほんの少しだけ力を入れたのを感じる。


 「に」


 真由梨がロープを一段締め、琉唯が体で壁を支えた。乱暴に見えるが、重みの置き方が正確だ。空虹は呼吸の回数を数えるように、視線を動かさない。


 「さん」


 継司は、石板の縁を両手で掴んだ。掌の痛みが、鍵の冷たさを思い出させる。けれど今は、鍵ではない。石だ。手順だ。皆の声だ。


 ゆっくり引く。ひと息ぶんだけ。

 石板が、抵抗しながら動いた。


 「……動いた」


 友樹也が言いそうになって、唇を指で押さえた。その代わり、目だけで大げさに喜ぶ。光希の口元がわずかに上がる。


 もう一度、継司が引く。石板が外れた瞬間、洞窟の空気が少しだけ軽くなった気がした。霧が薄く引き、灯りが広がる。


 石板の裏には、欠けていた一節が刻まれていた。削られた溝にぴたりと合う形。読めないままだった言葉の続きを、やっと触れられる距離へ引き寄せた。


 継司は、石板を胸の高さで抱えた。震えは消えない。けれど、落とさない。

 瑛大が、笑ったまま深く息を吐いた。

 「よし。帰ろう。外で読む」

 光希は頷き、継司の手首から手を離す前に、最後に一度だけ軽く押した。

 「今の手、ちゃんと動いた」


 継司は、返事を言えなかった。代わりに、石板の縁へ親指を当て、しっかりと握り直した。


 石板の表面は、洞窟の水滴を吸って黒く艶めいていた。光希は指先で水を払うように撫で、刻みの深さを確かめた。溝の角は欠けていない。真由梨が頷く。

 「持ち上げて、揺らさない。滑るから、布で包む」

 そう言って、真由梨は自分の肩から外した布を差し出した。乾いていたはずの布が、ここではすぐに濡れる。それでも滑りは減る。


 友樹也が、包む手伝いをしながら小声で囁いた。

 「読んじゃだめっすか。今、ちょっとだけ」

 空虹が即座に首を振る。

 「ここで声を出すと、霧が寄る。外。風がある場所」

 琉唯が短く笑う。

 「読んで泣くなら、歩けるとこで泣け」

 乱暴な言い方なのに、背中が前を向かせる言葉だった。


 継司は石板を包んだまま、刻みの一文字目だけを目で追った。水滴が筋になり、字の凹みへ溜まる。そこに浮かぶ形は、胸の奥をくすぐるほど小さな「届」だった。

 自分の口が、勝手に動きそうになる。名前を呼びたくなる。途中で切れたあの夜の、続きが欲しくなる。

 継司は唇を噛み、視線を逸らした。


 瑛大が、継司の肩へ軽く拳を当てた。強くはない。合図みたいな触れ方。

 「外に出たら、皆で読む。ひとりで抱え込まない」

 継司は、返事の代わりに頷いた。


 その間にも、水は少しずつ冷たさを増していく。真由梨が指で天井を指し、時計代わりに光の濃さを見た。

 「今なら戻れる。引き上げ、始める」

 空虹が皆を順に見て、指示を重ねた。

 「石板は継司が持つ。前は琉唯、後ろは友樹也。光希は真由梨の横。瑛大は最後、全員の足元を見る」


 友樹也が小さく肩をすくめ、わざと明るく言った。

 「最後尾、人気っすね。転んだら、笑って誤魔化せない位置」

 瑛大は笑ったまま、親指を立てた。

 「笑うのは得意だけど、今日は足が先」

 その返しに、光希が吹き出しそうになって、口を押さえた。水の底で声を漏らすと危ない。けれど、目尻だけが柔らかくなる。


 継司は石板を抱えたまま、一歩踏み出した。足の裏の岩が、確かな硬さで受け止める。

 あの夜は、戸の前で立ち尽くした。今日は、動けた。

 胸の奥に刺さった痛みは残っている。それでも、手の中の重さは「守れなかったもの」だけではなく、「今、守れるもの」に変わりつつあった。



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