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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第32話 レオパードジャスパーの心臓

 同じ朝でも、湖の端は別の匂いがした。薪の煙が届かないぶん、塩の冷たさがまっすぐ鼻へ入ってくる。湿地の泥が凍りかけ、足裏がきしむ。瑛大は湖面を見て、笑わずに深く息を吐いた。


 「じゃ、手。順番、昨日のまま」


 瑛大の左に、継司が立つ。右に、光希。光希の右に友樹也、真由梨、空虹、最後尾に琉唯。鎖みたいに並んだだけで、全員の息が少し揃う。


 空虹が短い声で確認する。

 「合図は二回。危険は三回。誰かが三回引いたら、理由は聞かない。戻る」


 真由梨がロープを見上げ、滑車の位置を指で確かめた。昨日書いた一枚の手順紙は、油紙で包まれて腰に入っている。紙を見せびらかすでもなく、黙って準備だけが進む。


 友樹也が、水袋を胸に抱えて言った。

 「ねえ、これ、ほんとに浮くっすよね。俺、浮かない話しか得意じゃないんすけど」

 「浮かない話って何」

 光希が笑うと、友樹也は肩をすくめて湖へ目を向けた。

 「……今、言ったら、さらに沈みそうなやつ」


 琉唯が槍を地面へ突き、短く言う。

 「口より先に足を入れろ」

 「それはそれで沈む率が上がるんすけど」

 友樹也の軽口は、途中で小さく途切れた。水面に薄い霧が張りついて、呼吸を吸うたび舌が痺れる。怒哀の冷え方だ。


 瑛大が言った。

 「怖いなら、怖いって言う。言ったら、手順が増える。増えた手順は、皆で守る」

 友樹也は一度だけ頷き、視線を落として水袋の紐を結び直した。結び目がきゅっと鳴る。


 光希が、皆の手首へ布紐を渡していく。

 「誰かの手が滑っても、手首が残るように。引っ張り合いじゃなくて、支え合い」


 空虹が頷き、琉唯の手首へ紐を結ぶ。琉唯は文句を言わない。ただ結び目を見て、もう一度自分の拳を握った。開かないように。


 瑛大が左手を差し出す。継司がその手を掴む。掴み方が固い。爪が少し食い込み、瑛大の皮膚が白くなる。瑛大は顔色を変えず、右手で光希の手を握った。光希の指は温かい。


 「入るよ」


 水が足首に触れた瞬間、全員が同じように息を吸った。冷たさが骨へ当たり、背中が反射で丸くなる。空虹が短く数える。

 「一、二、三」

 その合図で、鎖の列がいっせいに腰まで沈んだ。


 友樹也が「ひぃ」と声にならない音を漏らし、すぐ誤魔化す。

 「いや、今のは……魚の鳴き声っす」

 光希が笑って、手を強く握り返した。

 「魚、友樹也の声で逃げるよ」

 「じゃあ、見張りに向いてるかも」

 言い終える前に、友樹也の歯がかちかち鳴った。


 真由梨が水面に浮いた板へ滑車のロープを回し、合図を二回引く。空虹がそれを見て「よし」と言う。琉唯は槍の柄を抱え、目だけで前を追った。瑛大の背中を見失わないように。


 深く潜る手順は、昨日の紙の通りだった。息を吐いて、吐いて、身体の中の空気をわざと減らす。水袋の浮きは、沈む人の肩を支えるため。継司がロープを握り、瑛大の左手を離さない。右の鎖も離れない。


 水面が頭の上を閉じた瞬間、音が遠くなった。自分の鼓動だけが、耳の内側で大きい。胸が――ドキドキする。怖さで速くなるのか、石に呼ばれて速くなるのか、区別がつかない。


 湖底へ近づくほど、霧が変な形でまとわりついた。水の中なのに、煙みたいに白い。怒哀が薄い膜になって、頬に貼りつく。視界の端が滲み、誰かの後悔が自分の喉へ流れ込んでくる。


 友樹也の指が、光希の手の中で震えた。光希は指を絡め、親指で二回だけ圧をかけた。合図じゃない。「ここにいる」の合図だ。


 岩の割れ目が見えた。洞窟の口だ。黒い穴の縁に、斑の石が埋まっている。レオパードジャスパー。斑が、瞳みたいにこちらを見ている気がする。


 穴へ入った途端、胸の鼓動がさらに速くなった。石が震えている。太い心臓が、どこかで打っているみたいに。水が小刻みに揺れ、腕の毛が逆立つ。


 瑛大がロープを三回引きかけて、止めた。戻れば安全だ。でも、欠けた一節はここにある。皆の畑の芽も、井戸の水も、ここに繋がっている。瑛大は左手の継司をぎゅっと握り、右手の光希を握り返し、ゆっくり前へ進んだ。


 洞窟の奥に、気泡が集まる場所があった。天井に空気が溜まり、そこで水面が揺れている。瑛大が指で上を示し、全員が順に浮上した。


 「……っ、はぁっ」


 空気は冷たいのに甘かった。喉の奥が焼ける。友樹也が肩で息をしながら言う。

 「ここ、魚いないっすね……俺の声、勝ち」

 琉唯が咳き込みながら睨む。

 「勝ち負け言うな。息を整えろ」

 「はいっす……っ、でも、今、胸が変っす。走ってもないのに……」


 その言葉の通り、胸が騒がしい。石の鼓動が、空気の溜まりにまで伝わっている。洞窟の壁の向こうで、巨大な何かが小さく震えている。音じゃない。身体の中の骨が、それを受け取っている。


 空虹が点検の声を出す。

 「指、動く。目、見える。寒さで判断が鈍ったら言う」

 真由梨が短く答える。

 「大丈夫。ロープ、張り直す」

 継司は返事をしないが、ロープの結び目を二つ作り直した。指先が濡れたままでも、手が止まらない。


 光希が、壁の向こうを見て呟いた。

 「……ここ、怒哀の匂いが薄い。代わりに……言葉の匂いがする」

 友樹也が鼻をひくつかせ、苦笑する。

 「言葉の匂いって、食べられないやつっすね」

 「食べられなくても、守れる」

 光希がそう言って、瑛大の顔を見た。


 瑛大はうなずき、壁の割れ目から奥へ手を伸ばした。指先が、硬い石へ触れる。レオパードジャスパーの斑が、近づいた瞬間、瞳の奥みたいに揺れた。


 ――見える。


 光希の胸の中に、誰かの声が差し込む。「お前は余計だ」。昔の言葉だ。思い出したくないのに、怒哀がそれを引っ張り出す。光希の喉がきゅっと締まる。


 瑛大が、光希の肩へ手を置いた。濡れた服越しでも、その手は確かだった。

 「光希。今の、息、吸えた。……それだけで、十分だ」

 光希は一度だけ目を閉じ、空気を吸い直した。自分の中の言葉を探す。誰かに向ける言葉。逃げるためじゃない言葉。


 「私は……人の得意を見つける。苦手を隠す言い方じゃなくて、役に立つ形にする」

 声が震えたままでも、言葉は途切れなかった。

 「今も。友樹也の鼻が、真由梨の紙が、空虹の合図が、琉唯の背中が、継司のロープが……ここまで連れてきた。瑛大の名前の呼び方が、手を離させない」


 言い終えた瞬間、洞窟の奥の震えが一拍だけ強くなった。石が返事をしたみたいに。斑の瞳が開き、光希の言葉が、空気の中で泡になって、壁の割れ目へ吸い込まれていく。


 瑛大は、息を吐いた。笑わないまま、けれど目だけは光希を見ている。

 「……受け取った。光希の言葉は、今、石に届いた」

 瑛大は自分の胸へ拳を当て、続けた。

 「俺は……衝突が起きたら、先に謝る。謝って、相手の言葉を戻す。……それで、皆の手を繋ぐ。今日も、繋いだ」


 瑛大の言葉も、吸い込まれていく。石の鼓動が、今度は穏やかに揺れた。怒哀の膜が、洞窟の天井から一筋だけ剥がれ落ち、水へ溶けた。


 友樹也が小さく笑ってしまい、すぐ口を押さえた。

 「……やべ。ここ、ほんとに物語みたいっす」

 空虹が咳払いを一つして、いつもなら叱る場面で、短く言った。

 「物語でも、手順は守る。……次、進むなら、合図」

 真由梨が頷き、ロープを張り直す音を響かせた。


 琉唯が槍の柄を握り直し、壁の割れ目を睨む。

 「心臓が鳴ってる。……その奥に、欠けたやつがある」

 継司がようやく口を開いた。

 「……行く。今は、戻らない」


 瑛大は左の手を握り直し、右の光希の手をもう一度確かめた。

 「行こう。ここで聞いた言葉は、外へ持ち帰る」


 洞窟の奥で、レオパードジャスパーの心臓が、もう一度だけ、静かに打った。



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