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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第31話 塩湖の潜り方講座

 翌朝、詰所の戸を開けた瞬間、塩湖の方角から白い匂いが押し寄せた。冷たいのに、鼻の奥が乾く。空がまだ薄青く、湿地の水面に霧が寝そべっている。沢山咸の朝は、息を吐くたびに口の中がしょっぱくなる。


 瑛大は柵の前で立ち止まり、皆の顔を順番に見た。昨日は「怖い」を並べたが、今日は別のものを並べる顔だ。背負い袋の紐を締め直しながら、声を落とす。


 「今日、塩湖へ行って、潜り方を決める。……洞窟へ入るのは、その後だ」


 空虹が頷き、掲示板から剥がした紙を折りたたんで懐へ入れた。代わりに、短い言葉を口にする。


 「合図は三つ。『止まれ』『戻れ』『助けろ』。聞こえなかったふりは禁止」


 友樹也が肩をすくめた。

 「はいはい、聞こえなかったふりしたら、俺が先に沈むっすね」


 軽口のつもりで言ったのに、最後の「沈む」が自分の舌に引っかかって、友樹也の笑いが半分で止まった。光希がそれを見て、声を柔らかくする。


 「沈まないように、今日は浅い所で練習する。友樹也、匂いで霧の濃い所を教えて。あなたの鼻が頼り」


 友樹也は照れたのか、帽子のつばを指で弾いた。

 「……分かったっす。鼻だけは負けないっす」


 琉唯は黙って槍を担ぎ、足取りだけが妙に重い。瑛大が横へ並ぶと、琉唯は目を逸らしたまま、短く吐き捨てるように言った。


 「……俺、泳げねぇ」


 言ったあと、琉唯は自分の言葉に腹を立てたみたいに舌打ちしそうになって、こらえた。空虹が一瞬だけ目を細める。叱る形の言葉が口の端に乗りかけたところで、光希が前へ出た。


 「泳げないなら、浮けばいい」


 光希は倉庫から持ち出した古い水袋を二つ掲げた。革の匂いがして、縫い目に塩が白く噛んでいる。光希は水袋の口をきゅっと縛り、琉唯の腕に当てた。


 「これ、空気を入れて縛る。腕に付ける。左右。……落ちても沈みにくい」


 琉唯は水袋を睨みつけた。誰かに助けられる形が気に入らない顔だ。けれど、光希が縛り紐を結び終えるまで、腕を引かなかった。結び目が締まった瞬間、琉唯は小さく鼻を鳴らした。


 「……こんなんで、俺が浮くのかよ」


 光希が笑う。

 「浮くよ。革が水を吸う前に、短い時間なら。……その短い時間を、皆で増やす」


 瑛大が琉唯の肩に触れ、触れた手をすぐ引っ込めた。触れ方が「励ます」より「確認」に近い。


 「琉唯。泳げないって言ってくれて助かった。……言わないで落ちる方が、よっぽど危ない」


 琉唯は返事をしない。代わりに、槍の柄を握る手の力が少し緩む。空虹がその変化を見て、わざと淡々と続けた。


 「浮き具は全員分用意。泳げる者も、油断した瞬間に沈む」


 その言葉の途中で、詰所の裏手の道から足音がした。ゆっくり、一定の間隔。息切れの音がない。真由梨が、遅れて現れるいつもの形で、肩に長いロープを担いでいた。背中には木の滑車。さらに、板に挟んだ紙が一枚、風でぱたぱた揺れている。


 「おはよう。井戸の滑車、まだ回る。油も塗った。ロープは二本。結び方は、これ」


 真由梨は言いながら紙を差し出した。紙には、結び目の絵と順番が太い線で書いてある。読むより先に、手が動きそうな形だ。空虹が紙を受け取り、目で追う。真由梨が遅れても怒られないのは、こういう時に「必要な物」を連れてくるからだと、皆が知り始めていた。


 瑛大が紙を覗き込む。

 「真由梨、ありがとう。……これなら、潜る人の体を引き上げられる」


 真由梨は「そう」とだけ言って、ロープを地面に置いた。土に当たる音が、思ったより重い。光希がその重さを見て、顔を上げる。


 「今日は、泳げるかどうかより、手順が守れるかどうかを確かめる。……空虹、読む?」


 空虹が頷き、紙を胸の高さに持って読み上げた。

 「一、潜る者は必ず腰に結ぶ。二、引き上げ担当は二名。三、声が届かない場合は合図の紐。四、霧が濃い所へ入らない。五、疲れたと言った者を笑わない」


 四までは規律の口調だったのに、五だけが少しだけ柔らかい。空虹が読み終えると、友樹也が鼻で笑った。


 「五、良いっすね。『疲れた』って言ったら、琉唯さんに殴られるかと思ってた」


 琉唯が友樹也を睨む。けれど、殴らない。代わりに、浮き具の水袋を一度だけ叩いた。

 「……殴ったら沈むだろ」


 その場に、短い笑いが落ちた。笑いが落ちた場所だけ、霧が薄くなる気がして、友樹也が慌てて湖の方を指差す。


 「でも、あそこ。水面の匂い、昨日より濃い。怒哀、寝てるふりしてる。……指が冷たくなる」


 友樹也は湖へ近づき、手を伸ばした。霧の縁に触れると、指先がぴりっとした。怒りと哀しみが混じった冷たさが、皮膚から中へ染みようとする。友樹也が手を引くより先に、光希が水筒を渡した。


 「飲んで。喉が渇くと、言葉が荒れる」


 友樹也は受け取って一口飲み、咳き込みそうになって堪えた。塩の味が濃い。けれど、胸の奥のざわつきが少し引く。


 湖岸の浅瀬で、真由梨が滑車を木杭に固定する。空虹が結び目を指で確かめ、瑛大はそれぞれの役を決めた。役割は「強い人」「早い人」ではなく、手が止まらない人、目が離れない人、声が届く人。光希がその基準を言葉にせず、指差しで示すと、皆が自然に位置へ散った。


 「じゃ、講座、始めるか」

 瑛大が言い、わざと肩を回した。大げさな動きに、友樹也が乗る。


 「先生、板に字は書くんすか? 『泳ぎ方 其ノ一』とか」


 瑛大が笑う。

 「書いたら、空虹さんに『紙が濡れる』って怒られる」


 空虹が即座に言い返す。

 「怒らない。濡れた紙は読めない。だから、書かない」


 真由梨が淡々と付け足す。

 「濡れても読めるように、油紙がある。……でも、今日は要らない」


 噛み合っているのか噛み合っていないのか分からない会話に、光希が小さく笑った。その笑いが、琉唯の胸の奥にあった固いものを一瞬だけ緩めたようで、琉唯が視線を落として言う。


 「……俺、浮くの、先に見せろ」


 光希は頷き、琉唯の腕の水袋をもう一度締め直した。結び目がきゅっと鳴る。琉唯は浅瀬へ一歩入る。水が靴の中へ入り、琉唯の顔が一瞬だけ歪んだ。冷たさに驚いたのか、怖さか、両方か。


 瑛大が声をかける。

 「息を止めない。吐く。吐くと浮く。……無理なら、言う」


 琉唯は返事の代わりに、短く息を吐いた。泡が小さく上がる。光希が後ろから支え、真由梨がロープの端を握る。空虹は合図の紐を琉唯の腰に結び、友樹也は霧の流れを見て「そこまで」と指で示す。


 琉唯が膝まで浸かったところで、足を滑らせた。水が腰まで跳ね上がり、琉唯の肩がびくっと跳ねる。だが、水袋がぷかっと浮き、琉唯の腕が水面へ出た。琉唯は慌てて槍を離しそうになったが、瑛大が槍の柄を掴んで岸へ投げた。


 「槍は後。まず、命」


 琉唯は水の中で歯を食いしばり、言った。

 「……浮いた」


 それは勝ち誇る声じゃない。驚いて、悔しくて、それでも助かったという声だ。光希が頷く。


 「浮いた。だから、次は合図。手を二回引く。二回」


 琉唯がロープを引く。二回。真由梨がすぐ引き上げ、空虹が「戻れ」と短く言った。琉唯が岸へ戻ると、水袋から水が滴り、足元に小さな塩の輪ができた。


 友樹也が拍手しそうになって、やめた。代わりに、照れ隠しみたいに言う。

 「ほら、琉唯さん、浮くじゃないっすか。……俺より浮けるかも」


 琉唯が睨む。

 「お前もやれ」


 その一言で、友樹也が固まった。怖いのは水じゃなく、霧の冷たさだ。それを自分で分かっているから、足が止まる。瑛大が友樹也の横へ来て、低い声で言った。


 「友樹也。君の鼻が必要だ。……だから、君が沈まない手順を、皆で作る」


 友樹也は唇を噛み、浅瀬へ一歩入った。光希が背中へ手を当てる。

 「今、足の裏の冷たさだけ見て。霧の言葉は聞かない」


 友樹也は頷き、息を吐いた。泡が上がる。琉唯が岸で腕を組んだまま、その泡をじっと見ている。殴らない。見張る形で立っている。


 練習が一通り終わる頃、空はようやく明るくなり、塩湖の水面が白く光った。霧はまだ薄く張り付いているが、皆の声がそれを押し返すように揃っていく。瑛大は最後に、皆を円に集めた。


 「最後に一つ。……洞窟へ入るとき、手を握る順番を決める。離れた瞬間、霧は言葉を割る」


 空虹が頷き、真由梨がロープを巻き直す。光希が水袋を追加で結び、友樹也が湖へ鼻を向ける。琉唯は槍を拾い、先端を泥で拭った。継司は少し離れた場所で、鍵束を掌の中で転がしている。誰にも見せるためではなく、自分の手の中に置くための動きだ。


 瑛大は、皆の名前を一つずつ呼んだ。

 「光希、俺の右」

 「うん」

 「友樹也、光希の右」

 「はいっす」

 「真由梨、その次」

 「了解」

 「空虹、真由梨の右」

 「うん」

 「琉唯、最後尾」

 「……ああ」


 最後に、瑛大は継司を見た。継司は目を逸らさない。瑛大は言葉を選ぶみたいに一拍置き、短く言った。


 「継司。……俺の左。離すな」


 継司は返事をしない。けれど、瑛大の左へ一歩だけ近づいた。その一歩が、湖岸の冷たい風の中で、妙に大きく見えた。皆がそれぞれの位置を確かめる。握る手はまだ握らない。けれど、握る順番が決まっただけで、霧の入り口がさらに狭くなる気がした。


 塩湖の水面が、ゆっくりと波打った。怒哀がその上で眠ったふりをしている。瑛大は笑わず、ただ頷いた。


 「行こう。潜り方は、今日、皆で覚えた」



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