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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第3話 遅刻が拾う命の芽

 沢山咸の夕方は、風が先に冷える。塩の匂いの奥から湿地の水の気配が上がってきて、息を吸うたびに胸の奥が少し重くなる。


 倉庫の片づけが終わると、空虹が掲示板から札を外し、指で順に押さえた。


 「日没前の見回り。木橋、苗床、柵の外周。二名以上。持ち物、縄、灯火、鈴」


 瑛大が背負い紐を締め、名を呼ぶ。


 「光希さん、友樹也、匂いの変化を見て。琉唯は柵の釘。継司は戸締まりを見てから合流。……真由梨」


 返事がない。


 空虹の視線が砂時計へ落ちる。


 「集合時刻を過ぎた。理由の申告が先」


 友樹也は鼻を動かし、塩湖のほうへ顎を向けた。


 「昼より鉄の匂いが濃いっす。白いのも、薄いのに引かない」


 戸が軋んで、真由梨が入ってきた。


 真由梨は息を乱さず、木の杭を一本と、縄を巻いた板を一枚抱えていた。袖口に泥が乾きかけている。


 「遅れた」


 「遅刻。理由を申告」


 空虹の声は短い。真由梨は板を床に置き、炭の字を指で示した。


 『木橋は右 苗床は踏むな』


 「標識が倒れてた。木橋の手前。矢印がひっくり返って、横道に流れる。そこ、土が沈む。だから直した。横道の入口は横木で塞いだ」


 空虹は言いかけて口を閉じ、縄の結び目を確かめた。


 「報告は良い。だが次は、集合前に一言。連絡があれば手順に入れられる」


 「うん。次は言う」


 瑛大が板を持ち上げた。


 「ありがとう。遅刻の扱いは規律通りにしていい。でも僕は助かった。危ないほうへ、誰も足を向けずに済む」


 光希が板を見て、字の太さを目で測った。


 「暗くなっても読めるね。矢印も大きくしたら、迷う人が減る」


 「できる」


 真由梨が頷き、炭を握り直した。


 戸がもう一度鳴り、継司が鍵束を指で鳴らしながら入ってきた。


 「……戸は全部、閉めた」


 瑛大はその言葉に頷き返し、空虹が鈴を一回鳴らして隊列を作らせた。


 詰所から東へ出ると、夕日が塩湖の縁を白く光らせていた。真由梨の板が木橋の手前に立っていて、矢印は右を指す。横道の入口には杭と横木が渡され、縄がきつく張られている。


 琉唯が横木を足で蹴り、揺れないのを確かめた。


 「よし。これなら、踏み込みたくても踏み込めない」


 友樹也は横道の土を見て、喉を鳴らした。


 「色が違う……黒い。こういうの、吸うんだよな」


 瑛大がしゃがんで、棒で軽く突く。棒の先が、ずぶりと沈んだ。


 「急いでたら、戻れない深さだ」


 空虹が横木の前に立ち、皆の顔を順に見た。


 「だから二名以上。声をかけ合う。黙って近道を選ばない」


 言い終えると、空虹は自分が先に木橋を渡った。足場の板を一枚ずつ確かめて踏む。後ろの者はその足跡に合わせ、列が乱れない。


 苗床に着くと、光希が膝を折って土の表面を覗いた。塩の粉の下で、緑が細く頭を出している。指で触れず、息だけで確かめる距離だ。


 「出てる。昨日より増えてる」


 瑛大が芽を踏まない位置で止まり、光希の視線の先を追った。


 「小さいな。……でも、ここまで来た」


 真由梨が足元を見て、「踏まれたら終わる」ともう一度だけ言った。空虹はその言葉を受け取り、同じ意味を言い換えて繰り返す。


 「守るために、線を引く。苗床の周りに縄を回す。明日の朝、二名で設置」


 光希が頷き、真由梨の板を指差した。


 「『踏むな』の下に、足の形を描いて×を付けたら、字が読めない人も止まれる」


 「できる」


 真由梨は炭を握ったまま、うなずいた。


 芽の列を確かめたあと、一行は柵の外周へ回った。柵の木はこの土の湿りで膨らむのか、継ぎ目が少し盛り上がっている。琉唯が節くれた板を指でなぞり、ハンマーを少し持ち上げた。


 空虹がすかさず言う。


 「打つ前に声。ひとこと、全員に聞こえるように」


 琉唯は面倒そうに鼻を鳴らしたが、それでも柵に近づき、しっかり音を通した。


 「打つぞ。下がるなよ」


 こっちが笑いをつくる間もなく、釘の頭が板へ沈んでいく。継司が無言で釘を二本差し出し、琉唯は受け取って打ち込む。


 瑠大は柵の下を見ながら、目を合わせて名前を呼んだ。


 「継司、超える釘の選び方、助かる。琉唯、今の一打ち、柵が落ち着いた」


 ほめられた琉唯は「当たり前だ」と言いながら、ハンマーの角度を少し変えた。空虹は「その手順、みんなに見せて」と追いかけ、自分が先に購いで回り込んでみせた。


 その所へ水汲み役の二人が通りかかる。一人が板の矢印を見て、簡単に笑った。


 「これ、ありがたい。さっき、危ないほうへ行きかけた」


 真由梨は「止まったならいい」だけ返し、先を急がなかった。光希が二人の背中へ声をかける。


 「迷わせない文字って、それだけで人を助けるんだね」


 芽の列を確かめたあと、一行は柵の外周へ回った。柵の木は湿りを吸って重くなり、触ると指先に冷たさが移る。


 琉唯が釘の頭を指で弾き、音の違う箇所を見つけると、腰の袋から釘抜きを出した。勢いよく引くのではなく、板を押さえてから、じわりと抜く。抜けた釘を受け取ったのは継司だった。継司は黙って土を払って揃え、必要な長さの釘だけを琉唯の手のひらへ戻す。


 空虹がその手元を見て、短く言った。


 「叩く前に声をかける。後ろが近いときは特に」


 琉唯が鼻で息を吐き、金槌を持った手を一瞬止めた。


 「打つ」


 「聞こえた」


 空虹が答える。瑛大はそのやり取りを見て、継司のほうへ顔を向けた。


 「釘、助かる。戻す順番が揃ってると、迷わない」


 継司は鍵束を握り直す代わりに、釘をもう一列揃えた。


 柵の角を回ると、水桶を運ぶ二人が戻ってきた。うち一人が横道へ入りかけ、真由梨の板で足が止まる。


 「……右か」


 「右」


 真由梨が一語だけ返す。桶を運ぶ者は頷き、木橋のほうへ回り直した。空虹は見送りながら、板の文字をもう一度指でなぞった。


 「連絡があれば、こうして止められる。遅刻の理由も、皆に届く」


 その直後、琉唯が金槌を振り下ろすと、柵の板がきい、と鳴った。琉唯は金槌を止め、空虹が先に「今、叩く」と短く言う。琉唯は一拍だけ間を置き、「打つ」と言ってから金槌を落とした。


 瑛大はその音に笑いをまじえて、「板が驚く前に声があると、安心するね」と言った。琉唯は答えず、だが金槌の振り幅だけは小さくなった。



 そのとき友樹也が立ち止まり、鼻先を上げた。笑いを作ろうとした口が、途中で止まる。


 「……湖の向こう。白いのが濃くなってる。匂いも、増えた」


 塩湖の水面を滑る白さが、夕日の色を薄くしていく。息を吸うと、胸の奥がざらつく。唇が乾く。喉が鳴る。


 空虹が鈴を二回、短く鳴らした。


 「戻る。柵の内側で周回に切り替え。二名以上は維持」


 瑛大は振り返り、全員の顔を見た。


 「足元、確認。光希さん、芽から離れて。真由梨、横木の追加は明るいときに二人で」


 「うん」


 真由梨が答え、継司が黙って鍵束を握り直した。琉唯は最後尾へ回り、誰かの背中に手を添えて押し出す。


 足音が揃い、詰所へ戻る。背中の向こうで、苗床の芽は風に揺れながら立っていた。


 詰所の灯が見えたところで、瑛大は胸のつかえをゆっくり吐いた。遅刻の言い訳で誰かを責める声は一つも出なかった。その静けさが、今夜の眠りを守ってくれる気がした。



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