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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第28話 怒哀の獣と琉唯の盾

 泥が跳ねるたび、足首に絡む草が引き留めようとした。沢山咸の塩湖から湿地へ回り込む抜け道は、昼間ならまだ歩ける。けれど今は、月が雲の裏で息を潜めている。二十七話の囮で盗賊の鍵束を奪い返し、皆が「戻った」と思った瞬間から、背後の笑い声は近づく一方だった。


 瑛大の腰の紐には、奪い返した鍵束がぶら下がっていた。走るたび、鉄が小さく鳴る。その音は、皆の命綱の音でもある。倉の扉だけじゃない。塩湖の取水口、医薬箱、そして“読めない本”を閉じていた戸の鍵。盗賊に渡ったままだと、明日の配給も、今夜の寝床も、全部が崩れる。だから今は、逃げるしかないのに、逃げてはいけない気分になる。瑛大はその矛盾を噛み砕けず、奥歯に力を入れた。

 空虹が振り返らずに指を立て、二本を横へ払った。右へ。瑛大は頷き、先頭の光希の肩を軽く叩く。光希は手提げ袋を抱えたまま、足の速い者を前へ、荷の重い者を真ん中へ、と言葉少なに並べ替える。真由梨は遅れて走り込んできたのに、息の乱れを見せず、腰の布をほどいて友樹也の手首へ巻きつけた。擦れた傷口が泥で沁みるのを、布が少しだけ和らげる。


 友樹也が鼻を鳴らした。

 「……来る。匂いが、変だ」

 塩と泥の匂いの下に、焦げた油と、濡れた鉄のような酸っぱさが混じった。人の怒りが汗になった匂いに、もう一つ、言葉にしづらい冷えが乗っている。


 背後で水が爆ぜた。盗賊が湿地を躊躇なく踏み荒らしてくる。提灯の光が草の間を切り裂き、瑛大たちの背中を追いかけた。

 「止まれぇ! 鍵、返せ!」

 怒鳴り声は喉を裂いていた。けれどその声の芯が、どこか空っぽだった。怒りそのものが、人の身体から抜けて、別の形へ移り始めている。


 水面の向こう、盗賊の一団の背後で、闇が盛り上がった。霧でも草でもない。黒い毛皮のようなものが、夜の端から引きずり出される。四つ脚の影が、泥を踏まずに浮いた。口の形が歪み、牙だけが白く見える。牙の白さは光を反射しているのではない。白いのは、そこだけが「誰かに見てほしい痛み」だからだ。


 「怒哀……」

 光希が小さく言った。布包みの中で、欠片が熱を持つ。誰かの悔しさ、誰かの泣き声、誰かの「わかってほしかった」が重なって、獣の影になってしまった。


 獣は盗賊へ跳んだ。提灯の光が揺れ、男の一人が尻もちをつく。牙が首を裂くと思った瞬間、影は身体を貫かず、胸元へ噛みつくように沈み込んだ。男の口から、言葉にならない声が漏れる。怒りと哀しみを、影が吸っている。


 瑛大は足を止めかけた。盗賊が倒れれば、追撃は弱まる。けれど、その影が次に誰へ向くか、決まっていない。怒哀は、誰かが誰かを責める匂いがすると、そこへ寄ってくる。逃げるだけでは、背中の中へ入ってくる。


 「前、行け」

 琉唯の声が、短く飛んだ。振り返ると、琉唯がいつの間にか最後尾へ回っていた。手には、拾った板切れ。盾にもならない薄さだが、琉唯はそれを胸の前へ立てた。空虹が手を振って「走れ」を続ける。真由梨が躓きかけた子ども役の継司の腕を引き、光希が「大丈夫、呼吸」と口の形で伝える。瑛大は足を進めながらも、琉唯の背中が視界から消えない。


 影の獣が、盗賊の背後からこちらへ首を向けた。人間の眼ではない。けれど、見られている感じがした。獣は泥を蹴らずに滑り、琉唯の前へ現れた。牙が開き、黒い息が夜へ漏れる。息は冷たくない。熱い。泣きたくなる熱さだ。


 琉唯が板を突き出した。

 「来い」

 ただそれだけ言った。難しい言葉は使わない。けれど声は揺れない。板の端が、獣の牙に当たって砕けた。木片が飛ぶ。次の瞬間、牙が板を越えて、琉唯の肩へ落ちた。


 瑛大の身体が勝手に戻った。足が泥へ沈み、胸が跳ねる。恐い、という言葉が喉の奥で詰まる。けれど、それを飲み込む前に、琉唯の肩に牙が食い込む音がした。音は「ぎり」と小さいのに、瑛大の頭の中では雷みたいに鳴った。


 瑛大の頭の片隅で、昔の声が鳴った。子どもの頃、誰かが手を貸してくれたのに、照れ隠しで笑って「別に」と言った自分の声。あれは軽さじゃなく、怖さだったのだと今なら分かる。怖いから、感謝を言葉にできなかった。だからこそ今夜は、怖さを隠さないまま、言い切りたかった。


 瑛大は琉唯の横へ滑り込み、肩を掴んだ。琉唯の肩は硬い。噛まれているのに、拳を握り直す力が残っている。

 「琉唯!」

 呼ぶだけでは足りない気がした。呼ぶだけだと、怒哀に「置き去りにされた」と思わせる気がした。瑛大は自分の声を、いつもの笑い声より低くして、息を入れた。

 「守ってくれてる。俺の前に立ってる。……今、俺はそれが、ちゃんと分かる」


 言い終えた瞬間、肩を掴む指先が熱くなった。琉唯の肩の下、布包みに入っていた欠片が、何かに触れたように震える。怒哀の獣は、牙を少しだけ緩めた。牙が抜けたわけではない。ただ、「噛む理由」を探している顔になった。


 琉唯が横目で瑛大を見た。目が合って、すぐ逸れる。照れたのか、痛いのか、分からない。琉唯は短く息を吐き、唇を噛んでから言った。

 「……当たり前だろ」

 その言葉は荒い。けれど、荒さの下に、誰かに言ってほしかった「ありがとう」が隠れている。


 獣の影が、唸り声を落とした。唸り声は怒りではなく、泣き声に近かった。影の身体の中で、何人分もの悔しさが折り重なって、出口を探している。光希が遠くから振り返り、手を伸ばした。声は届かない距離なのに、口の形がはっきり見えた。

 「言葉、続けて!」


 瑛大は頷き、琉唯の肩を支えたまま、一歩前へ出た。

 「琉唯、痛いよな。だけど、ここで折れたら、皆が飲まれる。俺は、あんたの盾に甘えてた。今度は、俺も一緒に受ける」

 自分でも驚くくらい、言葉が出た。いつもなら笑いに逃げる場面だ。けれど、逃げたら怒哀は喜ぶ。誤魔化しは、怒哀の餌になる。


 影の獣の牙が、琉唯の肩からゆっくり離れた。抜けた歯形から血が滲む。真由梨が戻ってきて、迷いなく布を追加で当てた。真由梨の手は冷たい。冷たいのに、震えていない。空虹が皆の前方へ視線を戻し、指を二回折り曲げた。走り続けろ、止まるな、振り返るな。規律の形が、今は命の形になっている。


 獣は一歩退いた。泥の上を滑り、盗賊の方角へ顔を向ける。盗賊の男が呻きながらも立ち上がろうとしていた。怒哀はその男へ戻るのではなく、夜の霧へ溶けるように薄くなった。牙の白さだけが、最後まで残り、やがて闇へ消えた。


 遠くで、盗賊たちの足音がばらけた。追撃の声が、湿地の木々に引っかかって薄くなる。光希が息を切らしながら戻ってきて、瑛大の手元を見た。琉唯の肩の傷を見て、目の奥がきゅっと細くなる。泣くのではない。泣く前に、次の手当てを探す目だ。

 「ここ、詰所まで持つ。途中で休む場所、私、作る」


 瑛大は琉唯の肩を抱え直した。

 「戻ろう。皆で。……今夜の話は、明日、ちゃんと文字にする。怒哀に食われる前に」

 友樹也が苦笑いを作り、鼻を擦った。

 「この湿地、物語好きだな。いきなり獣は、心臓に悪い」

 軽口の最後が震えたのを、瑛大は見逃さない。見逃さずに、肩を寄せた。


 少し先、草の陰に古い杭が立っていた。目印として、掲示板に写した地図では「ここで左」と書かれている。空虹の手が一瞬だけ止まり、紙を握った。紙を捨てれば軽くなる。けれど紙は、皆が同じ道を思い出すためのものでもある。空虹は唇を結び、紙を胸に押し当てたまま、指で先へ促した。


 空虹が先頭へ戻り、指で「生きて帰る」を作った。瑛大はそれを見て、息を吸う。夜はまだ長い。けれど、今の一言は、欠片の中に沈んだ。沈んだ言葉は、いつか結界文になる。誰かを縛るためではなく、誰かが誰かを「守ってくれてる」と言える場所を作るために。



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