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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第27話 ドキドキする物語の囮

 塩湖の夜は、星が近い。けれど湿地の奥へ入ると、光の粒は木の枝に千切られて、足元の泥だけが黒く残った。瑛大は胸の奥で呼吸を整えながら、空虹の背中を見失わないように目を細めた。空虹は手のひらを下げ、指先で「止まる」を作る。全員がその形に合わせて、同じ場所で息を止めた。


 少し先に、焚き火の赤が揺れていた。盗賊の野営だ。火の周りに人数が集まり、笑い声と、鍋をかき混ぜる音が混じる。油の匂いが風に乗って、唾が勝手に湧いた。瑛大は喉の鳴るのを必死に飲み込み、友樹也の肩が小刻みに動くのを横目で見た。友樹也は「大丈夫」と言いたいのに言葉が出ない顔で、口をぎゅっと結んでいる。


 焚き火のそばでは、誰かが濡れた紙を火に近づけて乾かそうとしていた。「字が多すぎて腹が減るだけだ」と笑い、「売れるならいいが、こんな紙束、塩より軽い」と吐き捨てる。紙の端がひらりと揺れた。瑛大の胸がきゅっと縮む。あれは、誰かの言葉の家だ。燃やされれば、帰る場所が消える。


 盗賊は、詰所から奪った鍵束を持っている。鍵束が戻れば、倉の扉も、塩の保管箱も、そして“本の部屋”の錠前も開けられる。空虹は泥に指で小さな地図を描き、焚き火の位置と、見張りの影と、鍵束がぶら下がる荷の位置を示した。光希が頷き、友樹也が喉を鳴らして頷き、琉唯が「早く殴っていいのか」と目だけで言う。真由梨は琉唯の肩へ指を一本置き、静かに首を振った。まだだ、と。


 光希は泥の陰で膝を抱えたまま、息を吐いた。小さな吐息が白くなる。瑛大が顔を向けると、光希は口角だけを上げ、声を出さずに言った。


 「……わたしが、行く」


 瑛大は反射で首を振りかけた。危ない、という言葉が喉まで上がる。けれど空虹が先に頷いた。作戦は、今夜ここでしか使えない。盗賊が油断している「今」だけ、鍵束を奪い返せる。空虹は光希の手の甲を軽く叩き、指を二本立てた。二本は「二息」。出て、喋って、戻るまでの時間だ。


 光希は泥を払い、わざと足音を大きくして焚き火へ近づいた。枝が折れ、盗賊の会話が一瞬止まる。瑛大は自分の手のひらに汗が滲むのを感じた。光希が危ないのではなく、光希が「目立つ」ことそのものが怖かった。視線は刃だ。受けるのは、痛い。


 「ねえ、聞いてよ」


 光希の声が焚き火の輪へ落ちる。盗賊たちは驚いて顔を上げたが、光希が笑いながら近づくと、拍子抜けしたように肩を緩めた。女の子が一人、恋の愚痴を言いに来た――そんな顔をする。光希はその表情の変化を見逃さず、さらに一歩踏み込んだ。


 「好きって言われるとさ、困るんだよね。だって、あの人、いつも笑うから」


 焚き火がぱちんと爆ぜた。瑛大の心臓も、それに合わせて跳ねた。光希の言葉は囮だ。囮だと分かっているのに、胸の奥に熱いものが走った。泥の中に隠れているのに、耳だけが勝手に前へ出ていく。


 盗賊の一人が吹き出した。「笑う男? へえ、どんな顔だよ」別の男が「笑ってれば腹減らねえのか」と囃す。光希は肩をすくめて、焚き火の影へ頬を寄せる。わざと頬を赤く見せる位置。火の光は嘘まで本当にする。


 「笑い方がね、ずるいの。こっちが怒ってても、勝手に『大丈夫』って言われた気になる。……だから、言い返したくなる」


 盗賊が鍋を叩いて笑った。「言い返せ言い返せ、恋は喧嘩だ!」誰かが「塩よりしょっぱいのは恋だな」と勝手に言って、周りがどっと沸く。瑛大は胸の奥で呻いた。塩湖の湿った夜気の中で、その冗談だけが妙に鮮やかに刺さる。


 空気が緩んだ瞬間、友樹也が泥の陰から滑り出た。瑛大のすぐ横を、影が一つ通り過ぎる。友樹也は低く身を落とし、焚き火の後ろに積まれた荷物へ回り込んだ。鍵束は、濡れた麻袋の口にぶら下がっているはずだ。金具が鳴らないよう、友樹也は自分の手首の布を外し、鍵束へ先に巻きつけた。指先が震えている。けれど震えたまま、確実に結び、確実に引いた。


 琉唯は右手を握り、いつでも飛び出せるように膝に力を入れた。真由梨は視線だけで琉唯の肩を押さえ、動くな、と伝える。空虹は焚き火の輪の外側にいる見張りの影を見続け、瞬きの回数さえ惜しむ顔だ。


 光希は話を途切れさせない。盗賊の興味が薄れる前に、もっと大きな餌を放り込む。


 「それでさ、今日、月が綺麗だったじゃない? あの月の下で――」


 瑛大の喉がきゅっと鳴った。言葉を飲み込むのに、歯を噛みしめる。光希は続ける。


 「――その人の手、取っちゃった」


 焚き火の輪がどっと沸いた。「やるじゃねえか!」「で、どうした?」盗賊が身を乗り出す。視線が光希へ集まる。今だ。


 その瞬間、友樹也の指が麻袋の口へ伸び、金属が小さく擦れた。音はした。けれど盗賊の笑い声がそれを飲み込み、誰も気づかない。友樹也は鍵束を掌に巻き取り、泥の上を這うように戻る。戻りながら、最後に一つだけ、焚き火の明かりへ目をやった。光希は平然と笑っている。友樹也の顔が、少しだけ緩んだ。


 盗賊の一人が光希へ身を寄せ、「じゃあ今言えよ」と囃す。光希はわざと困ったふりをして、焚き火を見つめた。炎の向こうに、瑛大の顔があるみたいに。


 「……星が落ちたら、言う。そう決めてるの」


 その言い回しは、空虹が決めた合図だった。撤退の合図。空虹は草の陰で頷き、指先で短い笛を鳴らす代わりに、舌で小さく鳥の声を作った。湿地の夜は鳥の声が多い。盗賊は気づかない。


 全員が同時に後ろへ退いた。泥に足を取られない角度。真由梨が先に足場を示し、琉唯が最後尾に回る。友樹也は鍵束を胸に押し当て、落とさないように指をきつく絡めた。


 瑛大は光希の腕を掴みかけて、やめた。掴めば泥の音が増える。代わりに、自分の肩を光希の肩へ寄せ、視線の向きを揃えて走った。光希は走りながらも、焚き火の輪へ向かって手を振るような仕草を残す。盗賊たちは恋の続きが聞けると思って笑っている。


 その笑い声が、背中で急に変わった。


 「おい、鍵が――!」


 怒鳴り声が夜を裂く。瑛大の背筋が冷たくなる。空虹が振り返らずに手を上げ、走る速度を上げろと示した。琉唯が唸り、わざと太い枝を踏み折る。追う者の足を鈍らせるための音だ。真由梨は振り返らず、滑車の縄を木に掛け、狭い溝を一気に越える道を作る。


 溝を越える瞬間、光希の足が泥に取られ、体がぐらりと傾いた。瑛大は反射で肩を押し、光希の手首に自分の指を絡めた。冷たい指先が一瞬だけ重なり、光希が小さく息を呑む。瑛大の胸はさらに跳ねた。囮の言葉ではなく、今の温度が、本物すぎる。


 瑛大の胸は、今もどきどきしていた。盗賊の足音のせいじゃない。さっきの焚き火の前の言葉が、熱を残している。囮だ。囮だと分かっている。分かっているのに、光希の「好き」の形だけが、耳に残る。


 光希が隣で息を吐いた。苦しくても笑っている。笑いながら、小さく言った。


 「……瑛大、今の、忘れて」


 瑛大は返事をしようとして、声が出なかった。忘れられるわけがない、と胸の奥が勝手に叫ぶ。けれど口から出たのは、息だけだった。


 背後の追撃が迫る。湿地の霧が濃くなり、怒哀の冷たい匂いが鼻の奥へ刺さった。何かが、闇の中で形を持ち始めている。空虹の指が、もう一度、硬く「走れ」を作った。



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