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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第26話 奪還の夜道

 塩湖の風が冷えた夜、詰所の灯りは一つずつ消されていった。戸板の隙間から見える空には、針で刺したみたいな星が散っている。瑛大は最後の見回りを終え、掲示板の前で足を止めた。紙の端が揺れるたび、黒い文字が自分の胸の奥を叩く。


 「盗まれた章と、鍵束。今夜のうちに戻す」


 空虹の声は小さい。けれど、言い切るときだけは揺れない。灯りを落とした詰所で、帳面を胸に押さえたまま、短い合図の一覧を指で示した。


 「声は出さない。合図はこれ。『止』、『進』、『伏』。余計な言葉は要らない」


 友樹也が、わざと大げさに口を結んで見せた。頬をふくらませ、指で自分の唇に鍵をかける真似をする。


 「はいはい、鍵束が無いから鍵も無いってね」


 瑛大が肩で笑う。光希は笑い声をこぼしそうになって、手で口元を押さえた。笑うとき、息が白くなるのが少しだけ悔しい。


 戸が鳴らないように外へ出ると、夜の湿り気が肌にまとわりついた。塩湖から少し離れた湿地へ続く道は、草が濃く、地面は柔らかい。遠くの蛙の声が、一定の間隔で途切れている。何かが近くを通るときだけ、声が止まる。


 真由梨が、最後に現れた。背負い袋の紐を結び直しながら、のんびり歩いてくる。瑛大が時計代わりの砂時計を指差すと、真由梨は肩をすくめて言った。


 「ちゃんと夜のうちよ。焦って泥に落ちたら、洗うのに朝までかかるもの」


 琉唯が鼻で笑い、槍の柄で地面を軽く叩いた。音はすぐ吸い込まれ、何も返ってこない。


 「しゃべるなって言われたろ」


 空虹が小さく手を上げる。琉唯は口を閉じたまま、光希の歩幅に合わせるように一歩を小さくした。大股で進めば楽なのに、わざわざ合わせる。そのせいで息が荒くなるのを、本人は気づかれたくないらしい。肩が上下するたび、光希は自分の歩幅を少しだけ短くした。


 真由梨が先に立ち、横へ折れた細道へ導いた。正面の道は固いが、草が折れていて、誰かが通った跡が残っている。真由梨は迷わず遠回りを選ぶ。足の裏で泥の盛り上がりを探り、そこだけを踏む。ふわり、と靴底の音が消えた。


 友樹也は鼻をひくつかせ、指で空をなぞった。焚き火の匂いでもない。油っぽい布と、濡れた獣皮の匂い。人が多いときの汗の重さが、風に乗ってくる。


 「右。三つ……いや、四つ。見張りの鼻先がこっち向いてる」


 瑛大は頷き、空虹を見る。空虹は帳面の端を押さえ、指で『伏』の合図を出した。全員が一斉に低くなる。泥が膝に触れ、冷たさが布を通して染みた。


 しゃがんだ瞬間、瑛大の足首がむずりとした。布の隙間へ、何か冷たいものが貼りついた感触がある。湿地の水は、こういう冗談を平気で仕掛けてくる。


 瑛大は顔色を変えないようにして、光希の袖を指で二度つついた。光希が覗き込み、眉をひそめる。そこには、細い黒い生き物が一匹、きっちりと吸い付いていた。


 光希は声を出さず、唇だけで「待って」と形を作る。真由梨が腰袋から塩を少しだけ摘み、光希の手のひらへ落とした。光希が塩をそっと落とすと、黒い生き物は「もういいです」と言いたげに離れ、泥へ消えた。


 友樹也がこちらを見て、鼻の穴を膨らませた。笑ってはいけないので、目だけで笑う。瑛大は親指で「あとで覚えとけ」と返した。


 光希は懐から紙片を取り出し、指の腹で折り目を確かめた。結界術の文字を書いた小さな札だ。声を出さずに、心の中でだけ短い文を繰り返す。誰かの言葉が歪む夜だからこそ、胸の中の音だけは整えておきたかった。


 湿地の水面に星が映る。揺れる光は、まるで「見ている」と言っているみたいだった。瑛大は一瞬だけ、その星を見上げてから、目を伏せた。


 前方に、焚き火の橙がぼんやり見えた。盗賊たちは草陰の乾いた土に陣を張り、濡れた荷を広げている。腰のベルトに、金属の束がぶら下がっていた。鍵束だ。光が当たるたび、小さくきらりと鳴る。


 その横に、布包みがある。章の紙束らしい。端が湿って、丸まっているのが見えた。瑛大の胸がきゅっと縮む。紙は、言葉の家だ。濡れても、破れても、家は家のまま残ってほしい。


 真由梨が、二本指で数を刻んだ。焚き火の近くの盗賊が、酒袋を回すたび、肩が落ちる。眠気が増す合図だ。友樹也が舌を出し、目だけで笑った。


 (いける)


 瑛大は光希と視線を合わせ、ゆっくりと息を吐いた。光希が頷く。空虹は『進』の合図を出す。琉唯が先に動きそうになるのを、光希が肘で止めた。琉唯は眉をひそめたが、足を止める。代わりに槍の先を泥に押し当て、音が出ないように支えにした。


 瑛大と友樹也が、草の影を縫う。近づくほど、火の熱と油の匂いが濃くなる。瑛大の足がふっと沈みかけた。靴底が吸い付く。泥が「こっちへ」と引っ張るみたいに。


 その瞬間、真由梨が後ろから小石を一つ転がした。小石は音もなく泥へ消えたが、瑛大には合図だと分かった。踏む場所を間違えた、と教えてくれたのだ。瑛大はゆっくり足を抜き、真由梨が示した盛り上がりへ置き直す。


 友樹也が盗賊の背後へ回り込む。鼻をひくつかせたまま、相手の顔がどちらへ向くかを読んでいる。盗賊がくしゃみをした。友樹也はその瞬間に手を伸ばし、ベルトの鍵束をするりと抜いた。金属が鳴りそうになったが、友樹也の指が布をかませ、音を殺した。


 瑛大は布包みへ手を伸ばす。湿った紙の重さが、指先に伝わる。ふわりと広がるインクの匂いが、胸の奥へ刺さった。盗賊の一人が寝返りを打ち、腕が瑛大の指の先へ落ちかける。


 瑛大は動かない。笑顔も作れない。ただ、息だけを止める。星が水面で揺れ、焚き火がぱちりと鳴った。盗賊の腕が落ちる。ぎりぎりで地面へ。瑛大は布包みを抱え、胸へ引き寄せた。


 撤退の合図が、空虹の指から飛ぶ。『進』ではなく、今度は『止』――「ここで一度息を整えろ」の意味だ。全員が同じ拍で動けば、泥の音が重なる。重なった音は、夜の虫の羽音に紛れる。


 琉唯が最後尾で、草を押さえる。荒い息を抑えるために、光希の歩幅へぴたりと合わせる。光希は振り返らず、手だけを後ろへ伸ばした。琉唯の袖を、指先で一度つまむ。『大丈夫』の合図だ。琉唯は鼻を鳴らし、袖を引かれたまま歩幅を崩さない。


 湿地を抜けると、塩湖の風が頬を冷やした。火の匂いが薄れ、代わりに塩と草の匂いが戻ってくる。友樹也は胸の前で鍵束を握りしめたまま、やっと息を吐いた。


 「……鳴らなかった。俺の指、天才」


 声は小さかったが、言わずにいられなかったらしい。瑛大が目だけで笑い、親指を立てる。光希は布包みの端をそっと広げ、湿った紙を確かめた。文字は滲んでいない。まだ読める。まだ、届く。


 真由梨が振り返り、手のひらを上に向けた。褒めてほしいわけではない。靴底の泥を見せて、「ほら落ちなかったでしょ」と言っているだけだ。瑛大は声を出さずに、口だけで『ありがとう』と形を作った。


 空虹は帳面を開き、鉛筆で一行だけ書いた。暗がりで書くから、字は少し曲がる。それでも迷いなく並ぶ文字がある。


 ――奪還、完了。合図、短く。泥、静か。


 光希がその帳面を覗き込み、笑いそうになった。琉唯がわざと咳をして視線を切る。友樹也は鼻をすするふりをし、星を見上げるふりで誤魔化した。


 瑛大は布包みを胸へ抱え直し、夜空の一番明るい星を見た。誰かへ向けた短い言葉は、湿地の泥より軽いのに、結界より強いときがある。


 「……戻ろう」


 瑛大の小さな声に、光希が頷いた。四人と一人の足音は、遠回りの道の泥に吸われ、星の下へ消えていった。



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