第24話 瞳の奥に映る瑛大
夜明けの点呼が終わったあとも、詰所の空気はすぐには軽くならなかった。
柵の外へ戻っていった怒哀の気配が、まだ板壁の隙間に残っている気がする。塩の匂いに混じって、湿った土の酸っぱさが鼻の奥にひっかかる。朝餉の鍋から立つ湯気が、湯飲みの縁を曇らせ、皆の息を白くしていた。
空虹は掲示板の前で、昨夜作った「感謝」の欄を指でなぞった。木炭の黒が、指先へうっすら移る。
「紙が足りない。……切り方を変える」
言いながら、自分で紙を折り、きちんと揃えて釘に留め直す。罰の文句ではなく、理由と手順のほうを残す。その姿を見て、真由梨が湯気の向こうで小さく首を傾げた。
「紙、削るなら、字も短くしたら」
「短くして、伝わらなければ意味がない」
「伝わるように短くすればいい」
真由梨の声はいつも通り淡々としている。空虹は反論しかけて、口を閉じた。代わりに、木炭を握り直し、欄の見出しを太くした。
瑛大は、そのやり取りを横で聞きながら、鍋の蓋を持ち上げた。粥の表面に浮いた塩の粒が、光を反射してきらりとする。
「じゃあ、短くします。……『昨夜の言葉』。これでどうですか」
空虹が一瞬だけ瑛大を見て、それから頷いた。
「それなら、貼れる」
その二語で、室内の緊張が少しだけほどける。友樹也が湯飲みを掲げた。
「『昨夜の言葉』って、なんか、かっこいいっすね。俺の『犬なんで』も入ります?」
「入れません」
空虹の即答に、友樹也が「ひでえ」と笑い、琉唯が鼻で短く笑った。笑い声は小さいのに、板壁の中でよく響く。瑛大はその音を聞いて、肩の力を抜いた。
食器を片づけ、畑の芽を見に行く組と、柵を補修する組に分かれる段取りになった。光希は欠片の包みを抱え、据え台の近くで核の状態を確かめる役を引き受けた。
皆が出ていくと、詰所の中は急に静かになった。戸が閉まる音が遠ざかり、代わりに風が板を叩く音だけが残る。光希は据え台の前に膝をつき、布をほどいて欠片を並べた。
レオパードジャスパーの斑は、昨夜より少しだけ深い色をしている。灰と黒と、薄い飴色。どれも瞳の縁みたいに見えて、覗き込むと自分の顔が小さく映る。
息を吸うと、塩の匂いが胸の奥へ落ちてくる。
光希は欠片に指を当て、温度を確かめた。冷たい。けれど、冷たいままではない。掌の熱に触れると、じわりと返す感じがある。
「……昨夜、助かった」
独り言みたいに漏れた言葉が、布の上へ落ちた。
欠片の斑が、ふっと揺れた。
光希は瞬きをした。自分の瞳の奥で、何かが立ち上がる。
霧ではない。匂いでもない。
見える。
見えたのは、沢山咸の詰所ではなかった。木の床ではなく、土がむき出しの地面。湿った泥が靴の裏へ吸いつく。遠くで誰かが叫んで、声が空へ抜けずに壁に当たって戻ってくる。
そして、その真ん中に、瑛大がいた。
今みたいな笑顔ではない。口元が固く結ばれて、頬の筋が張っている。目だけが大きく開いて、そこだけが濡れている。
瑛大は何かを掴もうとして、手を伸ばしていた。指先が空を掻く。手前の地面が崩れて、誰かの身体が滑り落ちる。土の塊が落ちて、乾いた音がする。
「待って」
声が聞こえた。
光希の声ではない。
瑛大の声でもない。
誰かの、細い声。
瑛大が口を開く。けれど、言葉が出ない。出そうとして、喉が詰まる。
その瞬間、光希の胸がきゅっと縮んだ。息が浅くなる。掌が汗ばむ。
視界が、ふっと戻った。
光希は据え台の前で、息を荒くしていた。欠片が布の上で小さく震えている。自分の指も震えている。
外で誰かが杭を打つ音がして、現実の音が耳へ戻ってくる。
光希は欠片を包もうとして、指がうまく動かず、布がずれた。
「手、止めると落ちますよ」
背後から声がした。
瑛大だった。
振り向くより早く、瑛大の手が光希の手首を支えた。欠片が布から転がり落ちそうになったのを、指先で受け止める。
その手は、温かい。昨夜の笑い声より、鍋の湯気より、直接的な熱だ。
「……見えた?」
瑛大は、問い詰める声ではなく、確かめる声で言った。
光希は頷いた。喉が乾いて、言葉が一度引っかかった。
「瞳の奥に……別の場所が……」
瑛大は欠片を布に戻し、包みの端を整える。手つきが丁寧すぎるほど丁寧だった。
「僕が、笑ってない顔をしてたでしょう」
断定ではないのに、当たっていた。
光希はもう一度頷いた。瑛大の横顔を見る。いつもの笑顔がない。代わりに、目が少しだけ伏せられている。
瑛大は、言い訳を探すように視線を動かさなかった。
「……笑えなかった」
たったそれだけだった。
光希の胸の奥に、さっき見た泥の匂いが残る。落ちていく人影の輪郭。届かない指先。
光希は、言葉を探した。立派な慰めではなく、今の瑛大へ届く短い言葉。
窓の外で、塩湖からの風が強くなり、板が鳴った。
「今は……名前を呼べてる」
光希は、瑛大の目を見る。
「今は、逃げてない」
瑛大の喉が動いた。何かを飲み込むみたいに。
光希は続ける。
「笑えなかった日があっても、今の笑顔は……ここを支えてる」
瑛大の眉が、わずかに寄った。泣きそうというより、踏ん張っている顔だ。
「僕の笑顔が、逃げに見えましたか」
「見えない」
光希は即答した。
「だって、笑いながら、謝るでしょう。笑いながら、名前を呼ぶでしょう。……逃げる人は、そんな面倒なことしない」
瑛大が、ふっと息を吐いた。
笑顔はまだ戻らない。けれど、頬の筋が少しだけ緩んだ。
「……面倒、ですか」
「面倒。だから、信用できる」
光希がそう言うと、瑛大は短く笑った。喉の奥で転がるみたいな笑いだ。昨夜の冗談より小さいのに、胸の奥へ届く。
欠片が、布の中でほんのり温かくなる気配がした。
その時、戸が開いて、冷気と一緒に友樹也が顔だけ突っ込んできた。
「おーい、据え台、無事っすかー……って、なんすか、その距離」
瑛大と光希の間は、肩が触れそうなほど近かった。光希は自分の腕の位置に気づき、慌てて布を抱え直した。
「距離?」
瑛大がとぼける。
「距離っすよ。塩より近いっす。……あ、俺、見なかったことにするんで、続けてください」
「続けない」
空虹の声が、すぐ後ろから飛んだ。
友樹也の首根っこが、襟をつままれて持ち上がる。空虹が眉をひそめたまま、詰所の中へ一歩入ってきた。
「見張り台の杭が一本、緩んでいる。補強が要る。……それと、据え台の包み、持ち方を統一しろ。落としたら終わりだ」
言い方は硬いが、視線が光希の手へ落ちた瞬間、少しだけ柔らかくなった。
「……さっき、息が荒かった。大丈夫か」
光希は頷いた。
「大丈夫。……見えただけ」
「見えるものは、危険だ」
空虹がそう言い切り、次に瑛大を見る。
「瑛大。……昨夜の点呼、助かった。短くても、宛先があった」
それは褒め言葉としては不器用だった。けれど、空虹なりの「感謝」だと分かる。
瑛大は少し驚いた顔をしてから、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。……空虹さんの『守った』が、皆の背中を押しました」
空虹は返事をせず、咳払いだけして外へ出た。
残された友樹也が、瑛大と光希を交互に見て、口の端を上げる。
「今の、褒め合い、なんか……ドキドキする物語っぽいっすね」
「それ、掲示板に書かないで」
光希が言うと、友樹也は「了解っす」とわざと大げさに敬礼した。
その奥で、琉唯が柵の補修から戻ってきたらしく、戸の外で足音が止まった。琉唯は入ってくるなり、二人の顔を見て、短く言う。
「……お前ら、顔、赤いぞ」
「赤くない」
瑛大が即答し、光希も同時に首を振った。
琉唯は「へえ」とだけ言い、干し肉の袋を机に放り投げた。投げ方は乱暴なのに、袋の口はちゃんと結んである。
真由梨が遅れて入ってきて、机の上の干し肉を見て言う。
「今の投げ方、駄目。塩が散る」
「散ってねえ」
「散る未来が見える」
真由梨の淡々とした言い方に、友樹也が吹き出した。
笑いがまた室内に広がる。
光希は包みを胸に抱え、瑛大の方を見る。
瑛大は、さっきより少しだけ笑っていた。笑顔はまだ完全じゃない。それでも、目が前を見ている。
光希は、胸の奥で短い言葉をもう一度繰り返した。
今は、名前を呼べてる。
その言葉が、欠片の斑へ染み込み、瞳の奥を静かに落ち着かせていく。
掲示板の「昨夜の言葉」の欄に、空虹が一本線を引いた。そこへ光希が、木炭を渡される。
「一行、書いて」
空虹の代わりに、友樹也が催促する。
「ほら、瑛大さんのやつ。書いちゃいなよ」
光希は木炭を受け取り、少しだけ考えてから、短く書いた。
――瑛大の点呼。
たったそれだけ。
瑛大がその文字を見て、今度はちゃんと笑った。
「……届きました」
光希の胸の奥が、ふっと軽くなる。
外では杭を打つ音が続き、畑の芽が風に揺れ、塩の匂いがいつも通りに戻っていく。
笑えなかった日の記憶も、まだ消えない。
それでも、今ここで交わした短い言葉が、結界の厚みになっていく。




