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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第23話 軽口の裏の震え

 翌朝の空は、白い。

 夜泣きが止まった後の静けさが、まだ詰所の梁に残っている。皆の寝息が薄く揃い、板壁の隙間から風が入るたび、塩の匂いが布団の端をめくった。


 光希は目を覚ますと、まず胸の布包みに触れた。レオパードジャスパーの欠片が、昨夜より少しだけ冷えている。冷えたぶん、外の空気が澄んだ気がした。


 外では、瑛大の声がする。


 「起きられる人から、顔を洗いましょう。今日は据え台を固めます。……桝田さん、お願いします」


 昨日「やる」と言った男が、短く「おう」と返す。言葉が短いのに荒くない。光希はそれだけで、胸の奥が少し軽くなる。


 友樹也は、戸口の近くで毛布を肩にかけたまま立っていた。いつもなら「朝の塩風、肌にいいっすよ」とか、余計な一言がついてくる。だが今朝は、口角だけ上げて、息を吐く。


 「……寒いっすね。俺の手、塩漬けになりそう」


 そう言って、両手をこすった。

 指先が赤い。こすっているのに、血の気が戻らない。


 光希は、わざと鍋の蓋を叩いて見せた。昨夜と同じ、二拍。


 トン。

 トン。


 友樹也が、びくりと肩を揺らした。

 笑って誤魔化すように、舌を出す。


 「やめてくださいよ。あれ、俺の心臓に直結するやつっす」


 笑いは出た。けれど、笑いの後に、喉が詰まる音がした。


 空虹が掲示板の前で紙を押さえ、木炭で三つの手順を確認している。真由梨は水桶を運び、琉唯は外の槍の先を布で拭いている。継司は黙って薪を割っていた。割るたび、木の香りがふわりと立つ。


 据え台の下の穴は、まだ口を開けたままだ。

 そこへ核を置く。欠片を合わせ、失われた物語の文を刻む。そう思うだけで、腹の底がきゅっと締まる。


 光希は戸口へ行き、外の空気を吸った。塩湖の方から来る風は冷たいのに、昨日より刺さらない。怒哀が薄いときの風は、冷えていても真っ直ぐだ。


 友樹也が柵の外へ顔を向けた。

 目を細め、鼻をひくつかせる。鼻先が白くなるほど息を吸う。


 「……北。湿地のほう、ちょい濡れた鉄の匂いが混じってる」


 言い方はいつも通り軽い。けれど、足の指が土を掴むように力んでいる。靴の中で、地面を確かめるみたいに。


 空虹が振り向いた。


 「匂いで方角を言うな。場所を示せ。……何歩、どの杭の外だ」


 「えーっと、あの、三本並んでる杭の……真ん中から十歩……いや、十二歩。たぶん」


 友樹也が言い直した瞬間、眉が寄った。自分の曖昧さに苛ついた顔。


 光希は、その苛つきが怒哀に繋がる前に、間へ入った。


 「友樹也。『十二歩』で十分。あなたの鼻が拾った場所なら、皆の足が迷わない」


 友樹也は、口を開きかけて閉じた。

 照れたときの癖だ。言い返せないから、雑になる。


 「……褒めても塩は減らないっすよ」


 それでも、肩の力がほんの少し抜けた。


 光希は、板壁に掛かった小さな札束を取った。配給札の余りだ。そこへ木炭で一言だけ書き、友樹也の手のひらに置く。


 「今日の役目。『匂い係』。変な匂いを見つけたら、この札を掲示板の横に差して」


 友樹也が札を見る。


 「……匂い係って、なんか、犬みたいじゃないっすか」


 「犬は皆を守るでしょ」


 光希が言うと、友樹也は顔を赤くして、札を握った。


 瑛大が近づき、友樹也の肩へ手を置いた。


 「君の鼻がないと、僕は笑いながら迷います。……頼みます」


 「迷うんすか」


 「迷います」


 瑛大が真顔で言うから、友樹也が吹き出した。吹き出して、すぐに息を整える。笑った後に残る震えを、指で握り潰すみたいに。


 その日の昼は、土と水と木の匂いが濃かった。

 桝田が据え台の土を固め、真由梨が手順を紙に書いて配る。空虹はそれを掲示板に貼り、琉唯は重い石を運ぶ。継司は言われなくても釘を拾い、必要な場所へ置いていった。


 友樹也は、柵の内側を歩き回り、時々立ち止まって鼻をひくつかせた。

 軽口が戻る。


 「いやー、今日の俺、犬っていうか、上等な塩漬けハムっすね」


 誰かが笑って、誰かが「ハムは食べたい」と返す。笑い声が少し増えると、風が通りやすくなる。


 夕方、空が群青に沈むころ、友樹也の軽口が急に途切れた。

 詰所の北側の柵の前で、彼が立ち止まる。鼻が動かない。代わりに、喉が鳴った。


 「……来た」


 声が低い。

 その一言で、皆の背筋が立った。


 光希は走り寄り、友樹也の横に並んだ。柵の外は暗い。湿地の水面が、夜の色を吸って黒く光る。


 「何が」


 「怒哀。……濡れた鉄が、急に濃い。あと、甘い。嫌な甘さ」


 甘い匂いは、腐りかけの果物みたいに喉に絡む。怒哀が濃くなる前の匂いだ。


 友樹也の手が震えた。

 札を握っている。指の間から、紙の端が覗く。


 「怖い?」


 光希が小さく聞くと、友樹也は笑おうとして失敗した。


 「怖くないっすよ。……ただ、心臓が、ドキドキするだけで」


 昨夜の蓋の二拍が、頭の中で鳴る。トン、トン。トン、トン。


 光希は、その二拍を別の言葉に変えた。


 「報告して。今、ここ」


 友樹也が息を吸い、吐いた。


 「北の柵。真ん中の杭から、外へ十二歩。……そこから霧が這ってくる。今のうちに、縄、張って」


 空虹がすぐに動いた。


 「縄班、二名。槍班、二名。灯火、必ず。……瑛大、指示を分けろ」


 瑛大が頷き、名前を呼ぶ。短く、はっきり。


 「琉唯、槍。桝田さん、縄。真由梨さん、灯火と手順。継司、杭の補強。光希、欠片。友樹也、匂いの変化だけ言い続けて」


 友樹也が「うす」と返し、鼻をひくつかせ続ける。

 震えは消えていない。それでも、言葉が途切れない。


 「……今、濃い。……今、右寄り。……今、薄い。……来る」


 その短い言葉が、皆の足を迷わせない。


 琉唯が柵の前へ出て、槍の柄で地面を叩いた。怒哀が水面から立ち上がる前に、縄が張られる。灯火が揺れ、影が揺れる。揺れた影の向こうに、霧が薄く渦を巻いた。


 瑛大が一歩前へ出る。

 笑顔ではない。けれど、目が真っ直ぐだ。


 「ここは通しません。……今日の据え台、守ります」


 光希は欠片を布の上へ並べ、掌で温めた。欠片の斑が、瞳みたいに光を返す。


 怒哀が柵へ触れた瞬間、風がざらりと鳴った。

 誰かの喉が鳴り、誰かが言いかける。


 「……なんで、こんな……」


 その言葉が荒くなる前に、友樹也が叫んだ。


 「来た! 甘いの、強い!」


 叫ぶ声は怖さを含んでいる。けれど、宛先がある。

 皆へ向けた、今夜の言葉。


 空虹が掲示板へ走り、紙の端を破って新しい欄を作った。木炭で太く書く。


 「感謝」


 その二文字は、規律の言葉より柔らかく見えた。


 空虹が振り向き、声を張る。


 「友樹也。報告が早かった。……今の一言で、据え台が守れた」


 友樹也が目を丸くした。

 照れ隠しに、肩をすくめる。


 「いや、俺、犬なんで」


 「犬でもいい。……守った」


 空虹の言い方は、いつもより短い。それが逆に重い。


 怒哀は縄の外側で渦を巻き、しばらく迷ってから、湿地の暗さへ戻っていった。風の匂いが、また塩だけになる。


 皆が息を吐く。

 光希は欠片を布に包み、胸へ戻した。欠片が、小さく熱を返す。


 友樹也が札を掲示板の横へ差した。

 その手はまだ震えている。けれど、震えたまま、差した。


 瑛大が、その札の上へ自分の指を置き、笑った。


 「今日の匂い係、合格です」


 友樹也が笑い、今度は笑いが喉に引っかからなかった。


 掲示板の「感謝」の欄には、空虹が最初の一行を書き足した。


 ――友樹也の報告。


 たったそれだけの文字が、今夜の詰所を守る厚みになっていく。

 光希は、鍋の蓋の二拍を思い出しながら、胸の奥で小さく頷いた。


 トン。

 トン。


 宛先のある言葉は、震えごと、結界になる。



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