第22話 夜泣きのリズム
夜の詰所は、昼より狭い。
寝床に並んだ毛布の重なりが、誰かの息と誰かの寝返りを近づける。板壁の隙間から風が入り、塩の匂いが鼻の奥で白く弾けた。
昼間に掘った穴は、外の据え台の下で口を開けたままだ。光希は、布に包んだレオパードジャスパーの欠片を胸に抱えて眠りにつけず、暗い天井を見ていた。欠片の温かさが、掌の中心だけをじんわり守っている。
そのとき、薄い泣き声が、壁一枚の向こうから漏れた。
赤子の声は細い。けれど、細いからこそ耳に刺さる。誰かが「……またか」と小さく吐き捨て、別の誰かが毛布を強く引いた。
泣き声が一度途切れ、次は急に太くなった。
夜の湿気が、音を増やす。
空虹が起き上がり、足を床に下ろした。裸足が板の冷たさに貼りつく。
「静かに。起きる者が増えるほど、怒哀が寄る」
怒哀――怒りと哀しみの霧。
その名を聞いた瞬間、光希の背中に冷たい指が這うような感覚が走った。空気が少し濃くなる。言葉の端が、尖りやすくなる。
泣いているのは、見張り台の板を外していたミナの子だった。ミナの寝床の周りだけ、何度も起きた形跡がある。毛布がよれて、枕代わりの布がずれている。
ミナは赤子を抱き、肩を揺らしていた。揺らすたびに腕が震える。泣き声は止まらない。
「ごめん……ごめんね。……私が、昼に風に当てたから」
謝る声が、泣き声より小さい。
その小ささが、かえって重い。
隣の寝床で、誰かが寝返りを打ち、舌打ちが漏れた。
「また配給が遅れるぞ。明日は核を置くんだろ」
言い方が荒い。
誰かが「そういう言い方……」と返しかけ、そこで止めた。止めたから、胸の中に残る。
瑛大が起き上がった。
寝癖のまま、まずミナのところへ行く。途中で、舌打ちした男の寝床の横を通るとき、瑛大はそこで立ち止まった。
「桝田さん。今、眠れないですよね」
名を呼ばれた男は、口を開きかけて閉じた。
瑛大は笑顔のまま、声の大きさだけ落とした。
「明日、穴の土を崩さないように据え台を固めるの、桝田さんが一番うまいです。今夜は……その手を、怒りで汚さないでください」
男の拳が毛布の上でほどけた。
光希は息を吸い直す。瑛大はいつも、先に自分の声を丸めて、相手の角を削る。
泣き声は続く。
泣いている子の胸も、抱えているミナの胸も、同じ速さで上下している。焦りが、呼吸を早くする。
友樹也が寝床から顔を出し、鼻をひくつかせた。
「……匂い。濃くなってる。あのへん、冷たい」
軽口を挟もうとしたのに、言葉が短い。
光希は布包みを抱えたまま、立ち上がった。床板がきしみ、数人の目がこちらへ向く。
「光希、寝ろ」
誰かが言う。怒っているのか、泣きそうなのか、曖昧な声だった。
光希は返事をせず、台所の隅へ行った。
炊事場の火は落としてあるのに、鍋肌に昼の熱がまだ残っていて、触れると指先がほっとする。けれど、その温かさの上に、湿った冷たさが薄い膜みたいに乗っていた。
真由梨が水桶を抱えて立っていた。遅れて来たのに息が乱れていない。桶の中の湯気が、夜の青さの中で白く細い線になる。
「泣き止まないときは、手と背中を温める。音は一定。……さっき、ミナの肩が速かった」
真由梨はそう言って、温い布を一枚渡した。光希は受け取り、うなずく。
琉唯が入口に立ち、外の柵の方へ顎をしゃくった。言葉は少ないが、立ち位置だけで「ここは通すな」と示している。友樹也がその背中に隠れるようにして鼻をひくつかせ、空虹は指を一本立てて「声を落とせ」の合図を出した。
継司は部屋の隅で膝を抱え、泣き声の方を見ていた。目を逸らしたいのに逸らせない顔で、口を結んでいる。
光希は棚の前でしゃがみ、鍋の並びを確かめた。指先が少し震えた。震えを止めるために、棚の端を一度だけ強く握った。
鍋の蓋を一枚取る。
古い鉄の蓋。縁が歪み、叩くと乾いた音がする。
光希は、蓋を床に置かず、膝の上に乗せた。音が響きすぎないように。
そして、指で縁を軽く叩いた。
トン。
もう一度。
トン。
一定の間隔。
揺れる肩と同じ速さ。
泣き声が、一瞬だけ迷った。
光希は、叩く場所を少しずらし、音の高さを変えた。
トン、トン。
眠りかけの誰かが「飯か?」と寝言みたいに言って、すぐ口を塞がれた。
その小さな騒ぎが、逆に場の空気をほどいた。
ミナが顔を上げる。
目が赤い。瞳の奥が泳いでいる。まるでレオパードジャスパーの斑のように、揺れている。
「……それ、何して……」
「音を作るの。泣き声と同じ速さで。急に止めると、余計に怖くなるから」
光希は、ミナの肩の上下を見た。赤子の背中が、ミナの呼吸に合わせて跳ねている。
トン。
トン。
音の間に、光希は小さく言葉を挟んだ。
「いま、ここ」
トン。
「いま、ここ」
意味は薄い。けれど、宛先がある。
ミナと赤子へ向けた、今夜の言葉。
泣き声が細くなる。
その代わり、赤子の喉がひゅっと鳴り、息が詰まった。
「息。……ミナ、少しだけ、肩の力を抜いて」
光希が言うと、ミナは泣きそうな顔のまま、肩を落とした。落とした瞬間、赤子の胸がすっと広がり、泣き声が短く切れた。
瑛大が、ミナの横に膝をついた。
いきなり子を取り上げない。ミナの手の上へ、自分の手を重ねる。
「今夜、ここにいるだけで十分です」
ミナが、息を吸って止めた。
その言葉は、叱りでも励ましでもない。
ただ、ミナの腕の重さを受け取る言い方だった。
光希の指が、蓋の縁を叩き続ける。
トン。
トン。
赤子の瞼が落ちる。
泣き声が、最後にひとつだけ、薄い泡みたいに溶けて消えた。
静かになった瞬間、詰所の空気が、わずかに軽くなった。
湿った冷たさが引き、代わりに薪の残り香が戻ってくる。友樹也が鼻を鳴らし、短く言った。
「……引いた。霧、引いたよ」
空虹が扉の隙間を指で触り、外を確かめる。指先に付く冷たさが減っている。
「今のは……結界術の厚みになる」
空虹の言葉が、今夜は硬く聞こえなかった。
光希は、膝の上の蓋をそっと置いた。音を止めると、胸の中が少しだけ寂しい。
その寂しさが、怒哀の餌になる前に、光希は布包みを握り直した。
欠片が、掌の中で小さく熱を返した。
熱は、火のように強くない。手紙の封蝋みたいに、ほどけない温度。
瑛大が、ミナの手からそっと離れ、光希の方へ目を向けた。
何か言いかけて、口を閉じた。
光希は、笑って眉を上げる。
「明日、穴に置く前に、もう一回、音を決めよう。……皆が眠れる音」
瑛大は小さく頷き、笑った。
「はい。……宛先のある音ですね」
寝床へ戻る途中、桝田が毛布の上から手を上げた。
「……明日、据え台。俺、やる」
瑛大は「お願いします」と返し、光希は蓋を棚へ戻した。
外の風はまだ塩を運ぶ。けれど、板壁の隙間を抜ける霧は、さっきより薄い。
誰かの短い言葉と、鍋の蓋の二拍が、今夜の沢山咸を守っていた。
境界線の向こうで、怒哀は足を止めた。




