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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第21話 井戸と見張り台の場所

 翌朝、沢山咸の詰所は早くから動いていた。夜に走った仮の境界線が、地面の上でほそく残り、朝露を吸って白い。


 井戸端では、桶が「こん」と鈍い音を立てて並んでいる。蔵元が二人分の縄を肩にかけ、昨夜まとめ直した順番表を横目に、黙々と回していた。列の後ろでイライラしていた男も、今日は舌打ちを飲み込んで肩を回すだけだ。


 光希は机に紙を広げ、湿気で波打った端を手のひらで押さえた。炭で簡単な地図を引く。畑、家畜小屋、詰所、柵、そして見張り台。白い境界線も、細く写し取った。

 空虹が板を叩いて声を通した。


 「今から話し合いだ。発言は順番を守る。まず井戸、次に見張り台、最後に結界の核」


 順番が決まっただけで、場が少し静まる。空虹はその静けさを確かめるように視線を巡らせ、頷いた。


 その横で瑛大は、湯気の立つ薄い粥をよそい、立ったままの人へ器を渡して回った。手渡すたびに、相手の名を確かめるように呼ぶ。


 「蔵元さん。桝田さん。……羊番さんも。先に温かいものを」


 羊番は器を受け取り、口を結んだまま小さく頭を下げた。喋りたそうで喋れない顔だ。


 瑛大はその前に立ち、声を落とす。


 「順番札より先に、あなたの困りごとを聞かせてください。……家畜の水の時間、ずれたら困りますよね」

 羊番は一度だけ目を丸くし、それから、ぽつりと言った。


 「夜の見張りが終わってから並ぶ人がいます。家畜に水をやる時間がずれると……鳴きます」


 家畜小屋の方から、間の悪い「めぇ」が聞こえた。まるで賛成の相槌で、誰かが吹き出し、慌てて口を押さえる。


 「貼った表はある。だが、守れないのか」


 空虹の言葉が硬くなる。蔵元が肩をすぼめた。


 「守らせたい。……けど、見張り明けは喉が乾く。並びたくなる」


 声が荒くなりかけたところで、光希が地図の端に小さく線を引いた。


 「家畜の水は朝一番。見張り明けはその次。……その代わり、桶を戻す役を決めよう。数えるのが得意な人、いますよね」


 桝田が指を二本立てた。


 「俺。桶、九にそろえる。足りないなら、怒鳴る前に言う」


 空虹が短く頷く。


 「よし。桝田、桶係。蔵元、井戸は二人で回せ。羊番、家畜の時間を書け。紙は大きく、字は太く」


 羊番は器を抱えたまま立ち上がり、足早に家畜小屋へ向かった。背中が、さっきより軽い。


 友樹也が鼻をひくつかせた。


 「……今の話、霧の匂いが薄いっす。言葉が落ち着くと、匂いまで落ち着く」


 「余計な一言は要らない」


 空虹が言い、友樹也が口を閉じる……と思ったが、鼻だけは止まらない。わざと大きく鳴らして、また誰かの笑いを誘った。

 空虹は笑いが広がりきる前に、板をもう一度叩いた。


 「次。見張り台だ。昨夜、霧に気づくのが遅れた。台の位置が悪い」


 見張り台は柵の角に立っている。柱は塩で白く、足場板は歪んで、踏むと「ぎ」と鳴る。


 琉唯が椅子を蹴るように立ち上がった。


 「直す。今日やる」


 蔵元が首を振った。


 「直すだけじゃ足りない。谷側、見えない。霧が這い上がるのはあっちだ」


 空虹が腕を組む。


 「場所を変えれば、見張りの手順も変わる」


 瑛大が、光希の地図を覗き込みながら言った。


 「変える理由は一つにしましょう。……『霧の流れが見える』。それだけ」


 光希は炭で見張り台の印を消し、風上の高みへずらして描き直した。


 「ここなら谷が見える。……見張りが得意な人、誰ですか」


 名乗るのが怖くて、何人かが視線を逸らした。


 瑛大は逸らした先を追わず、逆に、昨日いち早く柵の外の影に気づいた若い女の前へ立つ。


 「あなた。板の鳴る音、よく聞いてましたよね」


 女は頬を赤くし、けれど逃げなかった。


 「ミナ。……音でわかる。霧が濃いと、板の鳴り方が変わる」


 空虹が頷く。


 「見張り班の頭はミナ。名を呼ばれたら返事をする。返事がないと、交代させる」


 ミナは真面目に頷き、手の中の釘を握り直した。



 「ミナを見張り班の頭にする。琉唯は補助。……釘を抜く音を小さくしろ」


 琉唯が「おう」と短く返し、ミナは背筋を伸ばした。


 友樹也が鼻の先で、地図の谷側を指した。


 「霧、ここから来る。匂い、夜はもっと嫌。……だから境界の線も、少しだけ外へ出したほうがいいっす」


 光希は白い線をなぞり、交わりそうな地点に小さな丸を打った。


 「ここが今、皆が通る道に近い。……結界の核を置く場所も、ここに近いほうがいい」

 空虹が眉を寄せた。


 「核を井戸の近くに置くのか」


 不安が、言葉の隙間から漏れる。近すぎれば井戸の水が変わるかもしれない。遠すぎれば、皆が日々触れられない。


 そのとき、扉が開いた。


 真由梨が入ってくる。遅れているのに息が乱れていない。背中には太い縄、腕には木の板、脇には小さな滑車。


 「おはよう。遅れた。……井戸の縁、測った」


 真由梨は縄を机に下ろし、炭の丸印を指でなぞった。


 「縁から二歩下がれば、落ちても引き上げられる。核を井戸の真横に置かないなら、そこが安全」


 空虹が縄を見て言う。


 「測ったのか」


 「測るのは得意」


 その返事が妙に可笑しくて、光希は口角を押さえた。


 光希は地図の端に、得意を書き足す。


 ――桶を数える。

 ――家畜の時間を守る。

 ――音で霧を知る。

 ――縄で測る。

 ――匂いで風を知る。


 字が増えるほど、紙が頼れるものになっていく。


 瑛大が、光希の字を指で追いながら言った。


 「得意を核の周りに集めればいい。……守るのは石だけじゃなく、井戸と畑と、今日の約束です」

 瑛大が、光希の字を読み上げるように言った。


 「得意が集まった場所に、核を置く。……水のそばに置くのは、皆が毎日そこへ来るから。触れる機会があるほうが、境界も強くなる」


 琉唯が地図の角に拳を置いた。


 「石、運ぶ」


 光希は即座に言う。


 「運ぶのは琉唯。積むのは蔵元。縄を張るのは真由梨。見張り台の板を締め直すのはミナ。桶の数を守るのは桝田。……友樹也は線を引く」


 名を呼ばれるたび、皆の肩が少しずつ下がる。逃げ道が塞がれたのではなく、立つ場所ができた顔だ。


 空虹が板を一つだけ叩いた。


 「決める。核は井戸から二歩下げた地点に据える。見張り台は風上へ移す。家畜小屋は畑から遠ざけ、通り道を広げる。……以上」


 短い。だから動ける。

 瑛大が最後に言った。


 「今から、やりましょう。……誰かが困る前に」


 外へ出ると、塩の匂いの奥に、ほんの少しだけ土の匂いが混じっている。仮の境界線の上で、皆の足音が重なった。


 友樹也が地面に杭を打ち、縄を張る。真由梨が縄の長さを測り、光希が地図に印を打つ。琉唯が石を抱えて運び、蔵元が土をならして据え台を作る。ミナは見張り台の板を一枚ずつ外し、釘を抜く音をできるだけ小さくした。


 瑛大は皆の間を歩き、名前を呼ぶ。


 「桝田、桶、足りてる?」


 「九。……昨日より落ち着いてる」


 「羊番、家畜は?」


 「朝一番。……鳴かなくなった」


 返事が返るたび、白い線が少しずつはっきりしていく気がした。錯覚かもしれない。けれど、誰もそれを笑わなかった。


 昼前、井戸から二歩下がった位置に、据え台の穴が掘られた。土は冷たく、掘るたびに塩の匂いが立ち上る。


 光希は布包みを胸に抱え、穴の前で深呼吸をした。レオパードジャスパーの欠片は昨夜より温かい。


 空虹が皆の前に立つ。


 「核を置くのは今日だが、境界を厚くするのは毎日だ。言葉を荒げない。手順を守る。守る相手の名を忘れない」


 規律の言葉なのに、罰の匂いがしない。


 瑛大が笑って頷いた。


 「井戸と見張り台と、この穴。……ここから、帰れる場所を増やしましょう」


 風が境界線をなで、白い線がきらりと光った。



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