第20話 帰還、仮の境界
石門の冷えた息を背に、沢山咸の詰所へ向けて歩き出したのは、日が傾きはじめた頃だった。
塩湖から吹く風は相変わらず舌を白くするのに、今日は甘くない。湿った土と、鉄のような酸っぱさが混じって、鼻の奥がつんと痛む。友樹也は歩きながら、何度も鼻をひくつかせた。
「なんか……帰り道、匂いが重いっす。嫌な重さ」
軽口でごまかそうとして、声が喉で止まる。
前を行く空虹が、振り返らずに言った。
「喋るなら短く。列を乱すな」
「短くって言われても、俺、短い言葉が一番苦手なんすよ」
友樹也がそう言うと、琉唯が振り返って鼻で笑った。
「だったら歩け。口は閉じろ」
光希は二人のやりとりを聞きながら、布包みの重みを腕に確かめた。失われた物語は濡れた塩の匂いをまとっていて、抱えているだけで胸が落ち着かない。けれど、腕を離したくもなかった。
継司は最後尾を歩き、誰にも言われないのに、荷の紐がずれないように時々手を伸ばす。さっきまで震えていた指先が、今日は揺れない。
詰所の柵が見えたとき、皆の足が一瞬だけ速くなった。
――速くなったのに、喉が乾く。
柵の内側に、霧が残っていた。外の霧より薄いはずの場所なのに、板壁の隙間から白いものがのろのろと溢れている。怒哀の冷えが、地面から湧いているみたいだ。
門の前で、怒鳴り声が上がった。
「水が回ってこないんだよ! 井戸番は何してる!」
「回してる! でも桶が足りない! 昨日、誰かが勝手に持ってった!」
空虹が門を押し開けようとして、手を止めた。怒哀が言葉に絡みつくと、命令も責めも同じ鋭さになる。
瑛大は、先に一歩だけ出て、門の隙間から中を覗いた。笑顔は崩さない。けれど、瞳の奥が忙しく動いている。
「おはようございます……じゃないですね。こんばんは、です。まず、僕ら帰ってきました」
その言い方がずるい。怒鳴っていた二人が、反射で振り向いた。
瑛大は、二人の名前を確かめるように呼んだ。
「桝田さん。桶を数えてたのは桝田さんですよね。あと、井戸の順番表を貼ってたのは……蔵元さん」
呼ばれた二人の肩が、ほんの少しだけ下がった。
「今、ここで大声が出た理由を、短く教えてください。僕、状況を知りたい」
言い争いが「自分が悪い」か「相手が悪い」かへ飛びそうになっていたのが、「何が起きたか」へ戻る。
その隙に、真由梨が門の横へ腰を下ろし、紙を膝に置いた。濡れた指で炭を削り、さらさらと線を引く。遅れているようで、いちばん早い。
「桶は今、何個で回してます?」
真由梨の質問は淡々としているのに、答えやすい。
「……七個」
「最低、九個。配給の樽から空きを二つ回せます。手順を書きます」
空虹が眉をひそめた。
「勝手に配給を――」
真由梨は顔を上げずに言った。
「配給の流れを止めない範囲です。樽を開ける人と、桶を戻す人を分けます」
瑛大が頷いた。
「空虹さん。今夜は規律を全部読み上げるより、三つだけにしませんか。……霧が濃いとき、守るべき三つ」
空虹は息を吸って、吐いた。掲示板には紙が何枚も貼られている。書きすぎて、読める人でも目が滑る。
空虹は、紙を一枚ずつ剥がした。破らない。折り目をつけて脇へまとめる。手が迷わない。
「三つだ。よし。……一、井戸は二人で回す。二、配給の列は声を荒げない。三、柵の外へは出ない。以上」
短い。
短いから、胸に落ちる。
友樹也が、思わず笑いそうになって、こらえた。
「空虹さん、短いの、できるじゃないっすか」
「余計な一言は要らない」
言いながら、空虹は釘で紙を打ち付けた。音が「とん」と乾いて、霧の中へ飛んだ。
門をくぐると、畑が見えた。
芽が、俯いている。
昨日まで土から顔を出していた小さな緑が、塩をかぶったみたいに色を失い、葉先が縮れている。風が吹くたび、細い茎が震えた。
光希は思わず畝へ近づき、指先で土をつまんだ。湿っているのに冷たい。怒哀の冷たさが、土の奥まで染みている。
「……ごめんね」
誰に向けた言葉か、自分でもわからない。
瑛大が横に立った。
「謝らなくていい。……でも、言葉は要る。ここで生きる言葉」
光希は頷き、布包みを抱え直した。
詰所の中は、いつもより暗かった。灯油が節約されて、ランプの火が一つしかない。湿気で薪がうまく燃えず、煙が天井に溜まっている。
帰ってきた一行が姿を見せると、何人かが「おかえり」と言いかけて、言葉を飲み込んだ。怒哀が、声の端を掴む。
瑛大は、机の前に立った。名簿を見ない。いつもの点呼の癖で、相手の目を見ながら呼ぶ。
「桝田さん」
「……はい」
「蔵元さん」
「はい」
返事が返るたび、空気がほんの少しだけ軽くなる。
「光希」
「はい」
「友樹也」
「はい……っす」
友樹也の返事は、最後にかすれた。鼓動が速い。霧の匂いが、胸の中をざらつかせる。
瑛大は、そこで笑った。
「よし。全員の声が戻るまで、点呼を終わらせません。……あと、湯を沸かします。今日の湯は、塩が少ないといいな」
「無理っすよ。ここ、沢山咸っすもん」
友樹也が言うと、誰かが小さく吹き出した。琉唯が「当然だ」と短くうなずく。
真由梨が淡々と鍋へ草を一つ入れた。
「甘草です。舌が許します」
その言い方が、やけに可笑しくて、詰所の隅の子どもがくすくす笑った。
光希は、その笑いを見て、胸が熱くなった。笑いがある。まだある。
光希は机の上へ、レオパードジャスパーの欠片をそっと置いた。布を外すと、斑の模様が灯りを吸って、瞳みたいに艶を持つ。
「皆に、お願いがあります」
光希の声は大きくない。でも、言葉の端が揺れない。
「前に書いた手紙、覚えてますか。……宛先は誰でもいい。生きてる人でも、もう会えない人でも。今夜、ここで一行だけ、読み上げてほしい」
ざわ、と空気が動いた。
「今そんなことしてる場合か」
誰かの声が上がりかけた瞬間、空虹が掲示板の紙を指で叩いた。
「二、配給の列は声を荒げない」
そのままの言葉が、今夜の自分へ返ってくる。
瑛大が頷いた。
「今夜は、畑の芽を戻す夜にしよう。……水と薪と、言葉で」
瑛大が言い終わる前に、琉唯が立ち上がった。口数は少ない。だが、身体が先に動く。
「薪、取ってくる」
「二人で」
空虹が言う。
継司が無言で立ち、琉唯の後ろに付いた。誰にも頼まれていない。
光希は、手紙の束を配った。紙が湿って波打っているものもある。指先でなぞると、書いた人の息遣いが残っている気がした。
最初に立ったのは、井戸番の蔵元だった。喉を鳴らし、紙を握りしめる。
「……母さんへ。俺、ここで生きてる。……井戸の水、冷たいけど、今日、誰かが桶を戻してくれた。……ありがとう」
言い終えた瞬間、欠片が、ほんのり温かくなった。
次に、桝田が立ち、ぎこちなく笑った。
「弟へ。桶、数えるの、嫌いじゃない。……お前が笑う顔、思い出した」
友樹也は、鼻をすすって誤魔化した。
「……俺、こういうの、苦手っす。けど……えーと。『お父さんへ。俺、怖いっす。だから、匂いの変化、ちゃんと見る。皆が帰れるように』」
言葉が出た途端、胸のざらつきが少しだけ薄くなる。
瑛大が、光希を見た。
光希は小さく頷き、紙を開いた。最後の一行が、自分の字でそこにある。
「……あなたへ。ここで、今日も息をした。笑った。泣きそうになった。……君に届きますように」
その一文が落ちた瞬間、欠片の斑が、ぱちりと開いた。
瞳の奥を覗かれたみたいに、皆が一瞬だけ息を止める。床の板の隙間から、白い霧が引っ張られるように外へ流れた。
空虹が、思わず呟いた。
「……線が、走った」
外の闇へ向かって、淡い光が地面をなぞる。柵の内側を囲むように、ぎこちなく、けれど確かに。
真由梨が紙を押さえたまま言う。
「仮の境界です。厚くするなら、続ける必要があります」
瑛大は笑った。頬の筋肉が痛そうなのに、笑う。
「続けます。明日も、明後日も。……名前を呼んで、得意を拾って、手順を減らして、湯を沸かして」
光希は、欠片の温かさに指先を寄せた。
外の霧は消えていない。怒哀はまだ、柵の外でうねっている。
それでも今夜、詰所の中の言葉は、戻ってきた。
瑛大がもう一度、全員の名を呼びはじめた。
返事が返るたび、畑の芽が、ほんの少しだけ顔を上げたように見えた。




