第2話 得意を拾う人
同じ朝なのに、空の色が変わるだけで、沢山咸は別の顔を見せる。
点呼のあと、柵の外の霧はすぐには退かず、白い膜のまま揺れていた。友樹也は鼻先に残った鉄っぽさを忘れられないまま、詰所へ戻る。瑛大が「今日の仕事を回そう」と声をかけ、光希が頷いた。
昼前、共同倉庫の扉を開けると、乾いた粉の匂いがむわっと広がった。麦の袋、干し肉の樽、苗木の箱、釘と縄の束。机の上には配給札がばら撒かれ、誰かが慌てて集めた跡がある。
「おい、これ、数が合わねえぞ」
低い声が上がった。すぐ隣で、別の声が被さる。
「昨日まで余ってた塩が、今日になって消えるわけないだろ」
「知らねえよ。俺の札だって、どっか行ったんだ」
言葉が尖る。倉庫の空気が、さっきの霧みたいに、じわじわ濃くなる。光希は棚の奥に目をやって、ほんの一瞬、鼻を押さえた。粉の匂いの底に、湿った土の気配が混じっている。
空虹が机の前に立ち、配給札を指で叩いた。
「順番は掲示板の通り。配給係は二名、確認係は一名。勝手に手を出さないで」
言い終える前に、誰かが袋へ手を伸ばした。
「家に子どもがいるんだ。待てって言われても――」
瑛大がその腕の前に、すっと手のひらを出す。止めるのではなく、いったん受け止める形だった。
「分かります。だから、早く終わる並べ方に変えましょう。空虹さん、規律の目的は『皆が食べる』ですよね」
空虹が一拍置いて頷く。
「目的はそこ」
光希は、棚から転がり落ちそうな袋を片腕で受け止めた。重さに肩が沈む。隣で琉唯が「どけ」と言って、袋をひょいと持ち上げる。
「そこ、床が鳴ってる。踏み抜くぞ」
琉唯の足元の板が、確かにぎし、と音を立てた。力で運べる人がいるなら、運ぶ場所も考えないといけない。
光希は息を吸って、机の周りをぐるりと見た。札を握り締めた人、箱の文字を読めずに眉を寄せている人、数を口に出して何度も指を折っている人。皆が同じ場所で同じことをしようとして、ぶつかっている。
「ねえ」
光希の声は大きくないのに、机の近くの耳が向いた。
「札を集める人、いま、机の前にひとりだけ立って。札の文字が読める人、隣に来て。袋を運ぶ人は、棚の右から左へ。数を数える人は、箱を開ける前にここで声に出して。……あと、足元が弱い板の上には、重いもの置かない」
「誰が何をするか、勝手に決めるのか」
つっけんどんな声が飛んだ。光希はその声の主を見て、逃げずに返す。
「勝手に決めないよ。いま、出来ることが一番早いから。あなた、さっきから札の名前を全部読んでる。目が疲れてない。だから、札の確認、お願いしていい?」
相手は口を開けて、言い返す言葉を探したまま、結局、札を取り直した。
「……読むだけでいいなら」
「うん、読むだけでいい。読んでくれたら、次の人が動ける」
光希は次に、指を折って数えている青年を見た。
「箱の数、いま、途中で止まってたよね。『十三』のところで。そこからもう一回、声に出して数えて。周りの人も聞けるように」
「え、声?」
「うん。聞こえると、同じ箱を二回開けなくて済む」
青年が少し照れた顔で、「いち、に、さん」と数え始める。倉庫の騒がしさの中に、妙に落ち着くリズムが生まれた。
琉唯が樽を抱えて、「どこに置く」と言う。光希は床を見て、鳴らない場所を足で軽く踏み、音の低い板の上を指した。
「そこ。踏んでも鳴らない。樽はそこで待ってて」
琉唯は言われた通りに置き、次の樽を取りに行く。動きが荒いのに、置き方だけは妙に丁寧になっていた。
友樹也は倉庫の隅で、鼻をひくつかせながら木箱を覗き込んでいた。
「なあ、これ、カビてるかもしんねえ。匂いが変」
「どの箱?」
光希が聞くと、友樹也は箱の角を指で叩いた。
「この辺。昨日の雨の湿りが入ってる。開けたら粉がやられる」
空虹がすぐに頷く。
「その箱は隔離。扱いは二名、袋は口を縛ってから移動」
規律が、怒鳴り声ではなく、段取りになっていく。瑛大は机の端に立ち、札を受け取りながら、ひとりひとりの名前を口にした。
「次、田畑班の……ええと、あなたの札、ここに戻しました。大丈夫。なくなってません」
札を探していた男が、肩の力を抜いて息を吐いた。
「……俺が落としたのか」
「落としたのは札だけです。怒鳴り声は、落とさないでください」
瑛大が笑うと、机の周りの何人かが、つられて口の端を上げた。
そこへ、倉庫の戸が軋んだ。
「遅れた」
真由梨だった。外の冷気を連れているのに、息は乱れていない。片手に、薄い紙を一枚だけ持っている。
空虹が視線だけで時刻を示す。真由梨は肩をすくめもせず、紙を机に置いた。
「道、混んでないのに遅いのは悪い。でも、倉庫の裏、板が浮いてた。そこから小さい箱が落ちてる。配給札、三枚。あと、塩の小袋が二つ」
机の周りが、一瞬静かになった。
「……それ、どこだ」
さっき声を荒げていた男が、半歩前に出る。真由梨は指を伸ばして倉庫の奥を示し、続けて紙を叩いた。
「こっちは、手順。札を左、品を右、確認は真ん中。箱を開けるのは、札が揃ってから。重いものは床の鳴らない板へ。いまの並べ方に合わせた」
紙には、短い言葉と矢印が並んでいる。見ただけで、足の動きが想像できた。
光希は紙の端を押さえた。
「ありがとう。これ、掲示板にも貼ろう」
「貼るなら、雨で滲まないように油紙が要る」
「油紙、どこ?」
光希が聞くと、真由梨は棚の上を指した。
「上。昨日、誰かが『上なら濡れない』って置いた」
瑛大が笑いながら、背伸びして油紙を取った。
「誰でしょうね。賢い人がいますね」
友樹也が「俺じゃないっす」と即答して、周りが少しだけ笑う。
作業は、目に見えて速くなった。札が揃い、箱が開き、数が声に出され、樽が鳴らない板へ移される。誰かの焦りが、誰かの手順に吸われていく。
札を読む役を任された男は、最初はぶっきらぼうに名前だけを吐き出していた。だが、途中から「次は畑へ行く人」「次は見張り台の人」と、行き先を添えて言うようになった。札を受け取る側の足が迷わず、箱の前に溜まっていた人の肩がほどけていく。光希はその変化を見て、机の角に指を置いた。
「その言い方、助かる。並び直さなくて済む」
男は一瞬だけ目を泳がせ、札を持ったまま咳払いした。
「……俺、字は読める。それだけだ」
「それだけで、皆の腹が守れるよ」
瑛大が笑いながら言うと、周りの誰かが「じゃあ明日も頼む」と冗談を飛ばした。男は口の端を引きつらせたまま、札をもう少し丁寧に揃えた。
真由梨は油紙を釘で留める代わりに、縄でくるりと巻いて紙を守った。空虹はその結び目を見て「ほどけない」と小さく頷き、掲示板へ同じ結び方を真似した。誰も声を荒げないのに、倉庫の中がきちんと回り始める。
光希は、最後の苗木の箱を閉じながら、胸の奥のざわつきが少し薄くなったのを感じた。霧の話は怖い。けれど、怖さがあるからこそ、言葉を丁寧にする意味が分かる。
倉庫の扉が開いて、塩の風が入った。
「よし、終わり……っと」
友樹也が軽口を投げかけようとして、途中で止まった。笑う顔のまま、目だけが外へ向く。
柵の向こう。昼の光の中でも、白い霧が薄く漂っている。その縁で、黒い影が一瞬だけ揺れた。
友樹也の喉が、乾いた。
「……さっきのより、近い」
瑛大がすぐに倉庫の外へ出ようとしたが、光希がその袖を軽くつまんで止めた。
「二名以上」
空虹の声が、背中から飛ぶ。叱るのではなく、確認する音だった。
瑛大は振り向いて、笑顔のまま頷く。
「光希さん、一緒に。友樹也は匂いを。琉唯、柵の見えるところまで運び道具を。真由梨、裏の板の場所を皆に伝えて」
それぞれが動き出す。倉庫の中の混乱が収まった分だけ、外の白さが目立つ。
光希は戸口で足を止め、胸に手を当てた。鼓動が少し速い。怖いからだけじゃない。さっき、皆の動きが噛み合った瞬間、心が温かくなった。
その温かさのまま、柵の方へ歩き出す。




