第19話 少人数だけを守る式
石室を出て、回廊へ戻った途端、空気の温度が少しだけ上がった。上がった、というより「凍えるほどではなくなった」程度だ。松明の火が、壁の溝をなぞるたびに、線が星座みたいに瞬く。
光希は胸に布包みを抱えて歩いた。失われた物語は重い。腕がじんと痺れるのに、手を放すのが怖い。布の下からでも、湿った塩の匂いが滲んでくる。
空虹が振り返らずに言う。
「歩幅を揃えろ。声は小さく。合図は三つ」
琉唯が前で槍を立て、わざと大きくため息をついた。
「はいはい。止まれ、戻れ、今。……この三つだけで飯が出るなら、俺は一生これでいい」
友樹也が即座に食いつく。
「出ないっすよ! 言葉だけで腹ふくれたら、俺、今ごろ筋肉ムキムキっす」
「じゃあ黙って歩け。口の筋肉だけ育つ」
「それ、悪口の才能のほうが育ってるっす!」
瑛大が、笑い声を喉の奥で押さえながら言った。
「でも、今のは助かった。怒哀は、静かなところで増えるから」
友樹也が肩をすくめる。
「褒められた……? 今、褒められたっすよね?」
光希が小さく頷いた。
「あなたの軽口は、皆の呼吸を戻す」
友樹也は照れて、鼻先を袖でこすった。
回廊の途中で、真由梨が手を上げた。いつも遅れる人が、今日は先に止める。
「ここ、少し乾いている。休めます」
壁のへこんだ場所に、風が通っている。松明の火がわずかに揺れ、湿った空気が薄くなる。
空虹が短く言った。
「止まれ」
全員が止まり、荷を下ろす音が一斉に小さく鳴った。光希は布包みを慎重に膝に置き、息を吐いた。腕の震えが、ようやく自分のものになる。
友樹也が水筒を軽く振って、耳を澄ませた。中の水が「ちゃぷ」と鳴る。
「これ、あと七人で二回分っすね。さっきの湯、塩っぽかったのに、こういう時だけ恋しい」
琉唯が奪うように口をつけようとして、空虹の指がすっと伸びた。
「一口。順番」
真由梨が紙切れに鉛筆で「一口×七」と書き、皆に見せる。妙に現実的な数字が、地下の冷たさから意識を引き戻した。
瑛大は笑って、干し肉を薄く裂き、掌へ一枚ずつ置いた。
「噛むと唾が出る。喉が動くと、言葉も戻る。……今日の見張りは、唾の量で決めようか」
「それ、嫌な当番決めっす!」
真由梨が荷から乾いた布を取り出し、光希へ渡した。
「濡れが残ると、紙が負けます。布を替えて、塩の粒は落として」
光希は頷き、包みをほどいて表紙の端をそっと拭いた。白い粒が指先に付く。ザラリとした感触が、胸の奥まで引っかくようだった。
継司は少し離れた場所で、壁の溝を見ていた。視線が動かない。鍵束を握った手はまだ固い。
瑛大が、わざと足音を小さくして近づいた。
「継司。……今、冷えてない?」
継司は返事をしない。代わりに、顎だけがわずかに動いた。
空虹が、遠くから短く言う。
「手は触るな。壁に寄るな」
継司は壁から半歩離れた。命令に従う動きが、癖になっている。
光希は布包みの口を閉じかけて、手を止めた。継司が、視線だけでこちらを見ている。
「……見たい?」
継司は小さく頷いた。
光希は布をほどき、失われた物語を膝の上に置いた。瑛大が反対側へ座り、松明の火でページを照らす。文字が浮かび上がり、溝の線と重なって、読めるようで読めない。
継司は、ページの端を指でなぞらず、空中で止めた。触れたいのに触らない。掌が、紙の匂いを欲しがっているみたいだった。
「ここ……」
継司が初めて声を出した。掠れている。
「結界術の文の裏。表に書けないやつがある」
瑛大が眉を動かした。
「裏?」
継司は頁の一角を示した。小さな注釈のような文が、細い線で囲まれている。読んでいるだけで喉が乾く。
「これなら……守る人数を選べる」
光希の指先が止まった。
「選べる?」
「結界を小さくして、そこに入れる名を刻む。名がないやつは、外」
友樹也が、反射で笑いにしようとして、喉で引っかけた。
「……え、外って、外っすか」
琉唯が槍の柄を握り直し、床を「こん」と叩いた。
「外ってのは、霧の外じゃねえ。霧の中だ」
空虹の顔が強張った。怒る前に、言葉を飲み込むように息を吸う。
瑛大は、笑顔を保ったまま、継司の目を見た。
「継司。……誰を入れるつもり?」
継司の瞳の奥が揺れた。レオパードジャスパーの斑のように、点々と光が散る。そこに映るものを、本人だけが見ている。
「俺が見張れる分だけ」
継司の声が硬い。
「少しの人数なら、守れる。全員は……無理だ」
真由梨が静かに言った。
「無理だと決めると、手順も心も、その無理へ寄ります」
空虹が言いかけた言葉を飲み込み、短く言い直した。
「戻れ。詰所へ帰る」
それは命令の形だ。けれど、今は逃げではない。
瑛大が、膝の上の本から視線を外さずに言った。
「継司。少しだけ聞かせて。……その『少し』の中に、友樹也は入ってる?」
友樹也が目を丸くする。
「え、俺っすか?」
「真由梨さんは? 空虹さんは? 琉唯は? 光希は?」
瑛大は一人ずつの名を、点呼みたいに並べた。声は穏やかなのに、名が増えるたびに、回廊の空気が重くなる。
継司の喉が鳴った。
「……全員は入らない」
瑛大は頷いた。
「うん。そうなる。選ぶ守り方は、必ず誰かを置き去りにする。置き去りにされた人の沈黙に、怒哀は染み込む」
友樹也が小さく呟いた。
「沈黙って……匂いするっす。怒哀の匂い」
光希は、継司の手元を見た。鍵束を握る指先が白い。その白さが、誰かを掴む白さではなく、落とさないための白さだと気づく。
光希は、そっと継司の手に自分の指を重ねた。冷たい。
「あなたの言葉も、結界になる」
継司が、驚いたように目を上げる。
光希は続けた。いつもの励ましみたいに曖昧にしない。ここで生きるための具体で言う。
「今、あなたが本を渡したら、皆が読める。皆が自分の言葉で、誰かへ向けて書ける。そうしたら、結界は厚くなる。……少しだけ守る紙じゃなくて、明日まで持つ境界になる」
瑛大が小さく息を吐いた。
「継司。君の『守る』は、きっと、誰か一人を置いていくために生まれたんじゃない」
継司は、しばらく動かなかった。松明の火が揺れて、ページの文字が影になって消えかける。
琉唯が、耐えきれずに言う。
「渡すなら渡せ。守るなら前に立て。どっちだ」
その言い方は荒い。だが、怒哀に似た荒さではない。体の重心が、継司へ寄っている。
継司は、ゆっくりと本を閉じた。布をきちんと掛け直す。丁寧すぎる動きが、迷いを隠しているみたいで、逆に見える。
そして、光希の膝の上へ、両手で本を押し戻した。
声は出さない。
瑛大が、笑顔を少しだけ柔らかくした。
「ありがとう。……帰って、火を起こそう。湯を沸かして、この紙を乾かして、皆の言葉で結界を立て直す」
友樹也が、やっと息を吐いて笑った。
「湯、塩っぽくないやつがいいっす。俺、今日は歯がしみる」
「塩湖の湯だ。諦めろ」
琉唯が言い、真由梨が淡々と付け足した。
「湯に少しだけ甘草を入れれば、舌が許します」
空虹が手を上げる。
「戻れ。列を組む。……今」
全員が立ち上がり、布包みの重さがまた光希の腕へ戻る。けれど、さっきより軽い。継司が一歩後ろに回り、誰にも言われずに光希の荷紐を直した。指先が震えない。
回廊の先で、霧が薄くうねった。怒哀が、こちらの沈黙を探している。
瑛大は歩きながら、全員の名を小さく呼んだ。返事は小さくても、確かに返ってくる。
継司は最後尾で、唇を開きかけて閉じた。音にならない一文が、喉の奥で揺れる。
光希は振り返らずに言った。
「届くよ。……あなたが、向けるなら」
継司の足音が、一歩だけ揃った。




