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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第18話 鎖の本、祭壇の石

 石門をくぐってから、松明は二本目に替わっていた。蝋の匂いと、湿った塩の匂いが混じり、喉の奥がひりつく。沢山咸の塩湖で吸う風と似ているのに、ここは地の下で、空がない。


 空虹が先頭で手を上げ、列を止めた。


 「壁が変わる。触るな。足元から確認する」


 真由梨は返事の代わりに白い粉を指先で散らし、床の継ぎ目をなぞった。粉が溝に落ちると、一本の線になって続く。暗い場所にだけ見える道しるべみたいだった。


 友樹也が鼻をひくつかせる。


 「匂い……塩水。濡れた布、放置したときの……いや、違う。これは、紙の匂いっす」


 「紙?」


 光希が小さく聞き返す。


 「古い紙。乾いてるのに、湿ってる感じ。……ほら、倉庫の隅の帳面、開いたときの」


 「言葉にできてる。助かる」


 光希が言うと、友樹也は照れ隠しのように肩をすくめた。


 「俺、今日の仕事、鼻だけっすかね」


 「鼻が折れたら困る。壁に突っ込むなよ」


 琉唯が言い捨て、友樹也が即座に反論する。


 「突っ込みたいのは俺の性分じゃなくて、霧の性分っす!」


 瑛大が笑った。笑い声は湿った回廊に吸われてすぐ消える。それでも、一瞬だけ胸が軽くなった。


 壁が滑らかな石へ変わり、曲がり角を一つ越えると、空気がひやりと冷えた。広い。


 空虹が合図を出す。


 「ここからは、声を小さく。合図は三つ。『止まれ』『戻れ』『今』。他は要らない」


 真由梨が指で線を引き足しながら、淡々と言った。


 「松明の火が揺れない。空間が広い。風が回っていない」


 「じゃあ、霧も回らない?」


 友樹也が小声で言う。


 「回らないなら、溜まる」


 光希が答えた。瑛大は頷き、荷紐を締め直した。


 石室は、丸い天井で、真ん中に台座があった。台座の上に据えられた巨大なレオパードジャスパーが、松明の火を受けて斑を光らせる。斑はただの模様なのに、見ていると目が合う気がした。


 友樹也が思わず息を呑む。


 「……星みたいっすね。夜空、持ち込んだみたい」


 「地の下で星を語るな。寒気が増す」


 琉唯が言いながらも、石から目を逸らせない。


 台座の反対側に、革表紙の本が置かれていた。失われた物語。けれど、表紙に鎖が巻き付いている。鎖は石の輪へ繋がれ、錆びて黒い。鍵穴は、鎖の根元に一つ。


 空虹が短く言った。


 「止まれ」


 全員の足が揃って止まる。真由梨が一歩だけ前へ出て、床を棒で叩いた。


 「……沈まない」


 瑛大が松明を掲げ、周囲を照らした。壁には細い溝が走っている。溝は文字の形にも見えるし、星座を結ぶ線にも見えた。


 光希が、小さく息を吐く。


 「結界の文……ここで読ませる場所」


 言葉が漏れた瞬間、石室の隅で、怒哀が薄くうねった。霧は形になりかけて、すぐほどける。まるで「見つかった」と言われるのが嫌で、背中を向けるみたいに。


 瑛大は笑顔のまま、全員の名前を順に呼んだ。


 「空虹。真由梨さん。友樹也。琉唯。光希。……継司」


 最後の名に、継司の肩がわずかに揺れた。


 継司は台座へ向かう一歩目が遅い。けれど止まらない。鍵束を胸のあたりで握り、指の関節が白くなる。


 空虹が言う。


 「鍵を使うのは、お前だな」


 継司は頷くだけで返事をしなかった。鍵束から一本を抜き、鍵穴へ近づける。だが、手が少し震えている。


 真由梨が布を差し出した。


 「滑ると落とします。巻いてください」


 継司は一瞬迷い、布を受け取って鍵の柄に巻き付けた。布が湿気を吸って、掌に馴染む。


 友樹也が、いつもの調子で口を開きかけて、空虹の視線で飲み込んだ。代わりに、囁く。


 「……鎖の音、嫌いっす。歯の治療みたいで」


 「歯? 噛み砕け」


 「無茶言うな!」


 小さな言い合いが、緊張の角をほんの少し丸くする。


 継司が鍵を差し込んだ。金属が「きぃ」と細く鳴る。怒哀がその音に反応して、石室の空気が一段冷たくなった。


 瑛大の笑顔が、硬くなる。けれど声は崩さない。


 「ゆっくりでいい。今、ここにいるのは、皆だ」


 継司は息を吸い、鍵を回した。最初は動かない。二度目で、錆が剥がれるような鈍い感触が伝わり、鎖が「がり」と擦れた。


 その瞬間、巨大なレオパードジャスパーの斑が、松明の火と違う光を返した。瞳が開くみたいに、斑の奥が揺れる。


 霧が、台座の周りへ集まる。


 『遅かった』

 『言わなかった』

 『守れなかった』


 誰の声でもない囁きが、耳の後ろへ貼り付く。友樹也が肩をすくめて首を振った。


 「うわ……やめろって。俺、さっきから、後悔の味がする」


 光希が、友樹也の背に掌を当てた。


 「今、匂いを言葉にしてる。あなたが先に気づくから、皆が止まれる」


 友樹也が、息を吐いた。


 「……そう言われると、霧の味が薄くなるっすね」


 真由梨が床の線を指差す。


 「足元は安全です。今は、手元だけを見て」


 空虹が短く言い添える。


 「手順は一つ。外したら、すぐ本を布で包む。持ち出す」


 琉唯が台座の前へ半歩出た。槍の柄で鎖の外側を支えるように構える。


 「変な動きしたら、俺が止める」


 「止めるのは霧だ。人を止めるな」


 瑛大が笑いながら言い、琉唯は舌打ちして視線を前へ戻した。


 継司が最後の力を込めた。鍵が「こん」と鳴り、錠が外れる。鎖が緩み、重い音を立てて台座の石へ落ちた。


 霧が一瞬だけ濃くなる。石室の中心が暗く沈み、息が詰まる。


 瑛大が一歩近づき、継司の肩へそっと手を置いた。押さえつけるのではなく、そこにいると伝える置き方だ。


 「冷たいな。……手、ちゃんと動いてる。ここまで鍵を運んだのも、今外したのも、継司だ」


 継司の喉が鳴った。返事はない。それでも震えが少しだけ収まった。


 光希が布包みを開き、本へ手を伸ばした。


 「受け取る」


 鎖の影が消えた革表紙は、思ったより重い。光希の腕がわずかに沈む。瑛大が反対側を支え、二人で本を台座から持ち上げた。


 その瞬間、湿った塩の匂いが強くなった。


 表紙の端に、塩が結晶になって張り付いている。ページの隙間にも、白い粒が入り込んでいた。光希がそっと表紙を開くと、途中の章が抜け落ちている場所がある。紙がちぎれた断面は、乾いていない。濡れたまま、引き裂かれたように匂う。


 友樹也が鼻を押さえた。


 「これ……さっきの匂い。紙の匂いと、塩水の匂い。混ざってる」


 真由梨が淡々と言う。


 「欠けたところは新しい。ここで自然に崩れたのではない」


 空虹が眉を寄せる。


 「持ち出された。……誰が」


 その問いに、石室の空気がまた冷える。継司の視線が、床の線へ落ちたまま動かない。


 瑛大は問いを急がなかった。代わりに、光希の手元を見て言う。


 「まず、今ある分を守ろう。濡れてるなら、乾かす場所が要る。詰所へ戻って、火のそばに置こう」


 光希が頷き、本を布で包む。包むと、石室の冷たさが少しだけ遠のく。


 巨大なレオパードジャスパーの斑が、包みの上からでも見える気がした。斑は、松明の火を拾って点々と光り、天井の溝の線と重なって、星座のように見えた。


 友樹也が、ぽつりと言った。


 「地の下でも、星って見えるんすね」


 瑛大が笑った。


 「見えるようにするのは、火と――それから、誰かが向けた短い言葉かもな」


 空虹が小さく咳払いし、手を上げた。


 「戻れ。列を組む。合図は三つ。……今」


 真由梨が床の線を延ばし、帰り道をまた白く描く。琉唯が前へ出て槍を構え、友樹也が鼻を動かして霧の動きを探る。光希は胸に本を抱え、瑛大は継司のすぐ後ろへ立った。


 継司の背中は硬い。けれど、鍵束を落とさない手だけは、さっきより確かだった。


 石室の入口へ戻る直前、光希が一度だけ振り返った。


 台座の石は黙っているのに、斑の奥が、こちらを見送っているように揺れていた。欠けた章の匂いだけが、湿った塩として残り、怒哀の霧はその匂いに絡まって、出口のほうへ細く伸びていた。


 瑛大は小さく息を吸い、皆へ言った。


 「欠けた分も、取りに行こう。……でも今夜は、まず帰って、温かい湯を飲もう」


 友樹也が、やっと声を出して笑う。


 「賛成っす。湯が塩っぽくても、今日は許すっす」


 光希が小さく笑い、空虹が短く頷いた。


 「今。動く」


 白い線の上を、足音が揃っていった。



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