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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第17話 遅れた到着が命を拾う

 背後の足音が一つ足りない――そう思った瞬間、瑛大は足を止めた。


 霧の裂け目を抜けてから、回廊の空気はずっと濡れている。壁の石は汗をかいたみたいに光り、松明の火がその光を揺らして、足元に変な影を作る。石門をくぐってから十分ほどしか歩いていないはずなのに、外の光の気配が遠い。沢山咸の塩湖の風とは別の、冷えた湿気が、首筋へまとわりつく。


 回廊はやがて三つに分かれた。右からは湿った鉄の匂いが強く、左からは塩の匂いが薄く漂い、正面は鼻が空っぽになるような無臭だった。


 「真由梨さん?」


 瑛大が呼ぶと、返事がない。代わりに、遠くで小さく「こん」と石を叩く音がした。


 空虹が眉を寄せる。


 「列を崩すなと言ったはず。……戻る」


 怒哀の冷たさが、言葉の端にまとわりつく。空虹の声はいつもはっきりしているのに、今は角が立ちやすい。瑛大は、その角が誰かを刺す前に、息を一つ入れた。


 言い終えるより先に、友樹也が両手を上げる。


 「いや、空虹さん、今の『こん』は、真由梨さんの確認音っす。あの人、危ない床のとき、必ず叩くんすよ」


 「合図は私が決める」


 空虹が返すと、友樹也の口元が引きつった。笑おうとして、笑いきれない顔だ。怒哀は怪物の姿を取らないくせに、人の喉を細く締める。


 瑛大は空虹の前に立たず、横に並んだ。視線だけ合わせて、短く言う。


 「戻ります。ただ、真由梨さんの音を聞いてから」


 琉唯が舌打ちして、槍の穂先で床を軽く突いた。


 「いつも遅いのに、ここで一人で遊ぶなよ」


 言葉は荒いが、足は前に出ない。琉唯は分岐の中央を越えない位置で止まり続け、万が一に備えて槍を斜めに構えた。刃先が石壁に触れて、かすかに「ちり」と鳴る。


 継司も鍵束を握ったまま、音を殺すように親指で金属を押さえた。鍵の冷たさが、指へ伝わる。


 光希は布包みを抱えたまま、耳を澄ませる。囁きは今は遠い。それでも、背中の奥で何かが揺れる。まるで、言いたくない言葉が舌の裏へ浮かんでくるみたいに。


 しばらくして、分岐の向こうから足音が近づいた。息が乱れる音がなく、規則的な歩幅だけが石の上を刻む。遅れているのに、焦った気配がない。


 真由梨が現れた。


 片手に細い縄を巻き、もう片手に短い木の棒を持っている。肩にかけた袋の口から、白い粉が少しこぼれて床に線を引いた。


 「遅れました」


 真由梨は息を切らさず頭を下げた。空虹の視線が鋭くなる。


 「遅れた理由を申告」


 「床です」


 真由梨は棒で、分岐の正面の床を「こん」と叩いた。乾いた音が返る。


 「右へ三歩、ここ」


 そう言って右の通路の入口付近を叩くと、「ぼす」と鈍い音になった。石の下に空洞があるような、腹に響く嫌な低さだ。


 友樹也が顔をしかめる。


 「それ、落ちる音っす……。匂いも、鉄っていうか、古い釘水に漬けたみたいな……」


 「釘水って何だ」


 琉唯が吐き捨てるように言い、友樹也は慌てて言い直す。


 「釘を水桶に放置したときの匂いっす! 言葉が悪いのは今の霧のせいっす!」


 光希が、友樹也の袖を指先でつまんだ。


 「今、匂いを言葉にできてる。助かる」


 「……俺、褒められると耳が伸びるっす」


 「伸びたら邪魔だ。切るぞ」


 「切るな!」


 短い言い合いが湿った空気を少しだけ軽くする。瑛大は笑いかけたが、笑顔のまま頬がひきつった。さっきの涙の筋が、冷えて固くなっている。


 真由梨は袋から白い粉を指でつまみ、床に小さな丸を描いた。丸は踏んでいい場所の目印の形だった。さらに丸の外側に、細い線を一本足す。


 「濡れている場所ほど薄い。見えない亀裂がある。私は急げない。だから、危ない場所が見える」


 空虹が言い返しかけて口を閉じた。代わりに、喉が小さく鳴った。怒哀が、いつもの言葉の順番を乱そうとするのが見えるようだった。


 瑛大が、その言葉を繰り返す。


 「真由梨さんは急げない。だから、危ない場所が見える」


 言葉が回廊に残り、少し遅れて戻ってくる。その反響が、霧の囁きを一瞬だけ薄くした。


 空虹は短く言った。


 「……確認する」


 空虹は真由梨が描いた丸を避けて一歩ずつ進み、槍の柄で床を押した。体重を乗せる前に沈み具合を見る。その動きは、詰所で掲示板に手順を書いているときと同じだった。


 真由梨が縄を解き、空虹の腰に軽く回した。


 「落ちたら引きます」


 「規律にない手順だ」


 「今、足元に書きました」


 真由梨は丸の横に指で小さく矢印を足し、縄の端を手のひらに巻きつけた。空虹はそれを見て、息を吐いた。


 「……よし。手順に追加。分岐では、真由梨が先に床を叩く。合図は『こん』。全員、聞き逃すな」


 友樹也が肩を落として笑う。


 「最初からそう言ってくれれば、俺の軽口の出番なかったのに」


 「出番を求めるな」


 空虹の返しに、友樹也は「はいはい」と手を振る。その手が、少しだけ震えているのを、光希は見逃さなかった。


 そのとき、右の通路の入口で石が「ぱき」と鳴った。


 誰も踏んでいないのに、床の縁がゆっくり沈み、次の瞬間、崩れた。石片が落ち、暗い穴の底へ吸い込まれる音がした。どこまでも落ちていくみたいに、音だけが長く続く。下から吹き上がった風は冷たく、怒哀の匂いが混じって鼻を刺した。


 琉唯が槍を床へ突き立て、身を低くする。


 「動くな!」


 空虹が反射で一歩引き、瑛大も光希も、思わず肩を寄せ合っていた。継司は鍵束を胸へ押し当て、指の関節が白くなる。


 真由梨は縄の端を握ったまま、穴を覗き込み、淡々と言う。


 「さっきの『ぼす』は、ここです。急いでいたら、先頭が落ちる」


 瑛大は穴の縁へ向けて言葉を落とした。


 「ありがとう。……皆、今のは、真由梨さんの遅れが守った」


 空虹が真由梨を見る。言葉はすぐに出なかったが、顎がわずかに上下した。


 「申告、受理。……遅刻の罰は、あとで決める」


 「私、罰は慣れてません」


 真由梨が淡々と言うと、友樹也が吹き出した。


 「慣れないでいいっす! 罰に慣れる人、怖いっす!」


 笑いが一つ、二つと転がる。回廊の湿気の中で、その笑いはやけに明るく響いた。怒哀が、笑い声にだけは追いつけないみたいに、少しだけ後ろへ引く。


 光希は布包みを胸に押し当てながら、真由梨の丸印の上にそっと手を置いた。


 「今ここが、帰り道になる」


 瑛大が頷き、空虹へ視線を送る。


 「右は避けます。正面と左、もう一度、匂いと音で決めましょう」


 空虹は短く息を吸い、全員へ言った。


 「列を組み直す。真由梨は中央。瑛大は後ろ。光希は欠片を守れ。友樹也は匂いを言葉にしろ。琉唯は前で止まれ。継司、鍵は落とすな」


 命令の並びが、いつもより短い。理由が、今は全員の足元に刻まれている。


 真由梨が棒で左の床を叩き、「こん」と乾いた音を出した。


 瑛大が笑顔のまま言う。


 「よし。今の『こん』が、今日いちばん頼もしい」


 光希は声にならない小さな息で笑い、皆の背中が同じ方向へ揃うのを見送った。


 白い粉の丸印が点々と続き、松明の火で淡く光る。闇の中の小さな目印が、胸の鼓動を落ち着かせた。瑛大は頬の涙が冷えて固まる前に袖で軽くぬぐい、光希にだけ見える程度に口角を上げた。空虹はその背中を見て、一度だけ大きく頷いた。



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