第16話 怒哀の囁き
石門の向こうは、湿った冷気で満ちていた。天井の割れ目から落ちる細い光が、石床の濡れを鈍く光らせる。塩湖の風は届かず、代わりに、古い井戸みたいな水の匂いが舌に残った。
七人の足音が回廊に吸われ、遅れて返ってくる。自分の歩幅が後ろから追ってくる感じがして、背中がむず痒い。
壁はところどころ湿っていて、触れなくても冷気が指の間へ入り込む。天井から落ちる雫が、石床で小さく跳ねた。乾いた音じゃない。水の音に混じって、ほんの少しだけ塩の音がする。
光希が歩幅を小さくし、瑛大の横へ寄った。布包みを胸へ抱え、欠片が暴れないよう掌を重ねている。
「寒い?」
瑛大が訊くと、光希は首を横に振った。
「寒いより、胸が……速い。ここ、鼓動が増える」
友樹也が鼻を鳴らし、笑うふりをした。
「ほら、ドキドキする物語ってやつっす。……いや、笑ってる場合じゃないっすけど」
笑いの皮は薄く、すぐに剥がれそうだった。
「こういうとこ、だいたい――」
友樹也が軽い調子で口を開いた。だが声が途中で揺れ、喉の奥が鳴る。
「……やめとくっす」
空虹が指を二本立てた。
「間隔を開ける。肩が触れない距離」
琉唯は前へ出たい足を抑えきれず、槍の柄で床を叩いた。乾いた音に混じって、湿った音が一つだけ混ざる。真由梨がその音へ視線を落とし、棒で同じ場所を軽く突いた。
「ここ、薄い」
短い言い方なのに、空虹の顔がわずかに硬くなる。叱る言葉が出かけたところで、瑛大が空虹の横に並び、息をゆっくり吐いた。
「今の一言で助かりました。……真由梨さん、続けてください」
回廊の先で、霧が立ち上がった。
白と灰が層になって、壁のように道を塞ぐ。見えないのに、そこにある。胸が勝手に速く打ち、鼓動が耳の内側へ響いた。
回廊の先、霧が壁みたいに道を塞ぐ。見えないのに、そこにある。胸が勝手に速く打ち、鼓動が耳の内側へ響いた。
空虹が指を三本立て、合図を出す。『止まる』『間隔』『声を落とす』。言葉にしないのに、皆が同じ動きをする。
真由梨は一歩遅れても息が乱れず、棒で床を軽く叩いた。返ってくる音が二種類ある。硬いところと、空洞みたいに鳴るところ。
「ここ、踏まない」
短い言い方が、逆に安心を作る。
そのとき、霧の向こうから囁きが落ちた。
『口だけだ』
『気づいたふりをした』
声は一つじゃない。けれど、誰かの声に似せてくる。耳がそれを“知っている音”だと誤解してしまう。
友樹也の肩が跳ねた。笑いの皮が剥け、指先が小刻みに震える。
光希が一歩寄り、友樹也の背中へ掌を当てた。布越しに、骨の震えが伝わる。
「今、あなたが見てる」
光希は背中を二回、軽く叩く。
友樹也は息を吐き切れず、喉の奥で笑いが擦れた。
「見てるっす。……見てるから、言うっす。右、嫌。左も嫌。どれも嫌」
「全部嫌なら、嫌の違いを言え」
空虹の返しは厳しいが、声は低い。怒鳴らないだけで、霧が少し薄く見える。
友樹也は鼻をひくつかせ、言葉を絞った。
「右は、鉄。左は、塩。……正面は、匂いが無い。無いのが一番、嫌」
言葉にした瞬間、霧が一歩だけ退く。瑛大は頷き、隊列の間へ声を通す。
「無い匂いは、罠になりやすい。ありがとう。言ってくれて」
その“ありがとう”に、今度は囁きが空虹の声を借りて刺さった。
『規律で縛ったせいだ』
空虹の指が一瞬だけ震える。紙が無いのに、胸のあたりが紙みたいに硬くなる。
瑛大が空虹の横へ半歩寄り、笑いを混ぜずに言う。
「縛ったんじゃない。守った。……今も」
光希は空虹の手元へ視線を落とし、言葉を選んだ。
「さっき、間隔を開けてくれた。あれで息ができた」
空虹の呼吸が、少しだけ深くなる。
次は真由梨の耳元へ、囁きが落ちた。
『遅い』
真由梨は眉ひとつ動かさず、棒で床をもう一度叩く。
「遅いから、聞こえる」
その言葉が、霧の形を一瞬だけ乱す。
「右の壁、匂いが変だって言った。だから皆が壁から離れた。……それ、今も効いてる」
友樹也は瞬きを繰り返し、唾を飲み込んだ。
「……俺、言ったっすね」
「うん。言った」
瑛大が霧へ向けて、いつものように名前を呼んだ。
「光希。友樹也。真由梨。琉唯。空虹。継司」
返事が重なった瞬間、囁きが瑛大の声に似せて刺さった。
『救えなかった』
瑛大の笑顔が一拍だけ遅れた。口元は上がっているのに、目の奥が揺れる。頬を一筋、温かいものが滑った。
光希が布の端を差し出しかける。
瑛大は受け取らず、笑ったまま言う。
「今は、前を見ます。……あとで拭きます」
琉唯が、その涙を見た。言葉の代わりに、拳が固くなる。槍を持つ手が白くなり、霧の壁へ一歩踏み込んだ。
「うるせえ」
琉唯は腹の底から吠える。
「耳元で喋るな。今ここにいるのは、俺らだ!」
声が回廊に跳ね返り、少し遅れて戻ってくる。その妙な間に、囁きが一拍だけ黙った。
瑛大は笑顔を崩さないまま、胸の奥だけを掴まれたように息を吐く。涙は止まらない。止めない。止めると、もっと濃い霧が入ってくる気がした。
光希が瑛大の袖をそっと引いた。
「泣いてもいい。……でも、手は離さないで」
瑛大は頷き、光希の指を軽く握り返す。その小さな接触が、霧の重さを指先へ逃がしてくれた。
次に囁きが継司の耳元へ、甘い声で落ちた。
『選べ。少人数だけ守れ』
継司の肩が跳ねる。けれど継司は鍵束の布を押さえたまま、低く言った。
「今は、選ばない」
言い切った音は小さいのに、霧の表面がざわりと揺れた。友樹也がその揺れを見て、無理に笑う。
「ほら、言えば効く。……こいつ、口が弱点っす」
琉唯が鼻で笑い、瑛大の背中を拳で軽く叩いた。叩き方は乱暴なのに、痛くない。
空虹が短く合図を出す。
「全員、今のことを言う。過去じゃない。今、手が動いていること」
真由梨が棒を上げる。
「床を叩いてる。沈む場所、今はない」
継司が鍵束を握り直し、目だけ上げた。
「鍵は持ってる。落としてない」
光希は布の包みを胸へ押し当てる。
「欠片、離さない」
瑛大は涙の筋をそのままに、霧へ向けて言った。
「君たちの声が、聞こえてる。……だから、進める」
その言葉が落ちた瞬間、布の中の欠片が熱を帯びた。掌がじんとし、光希は思わず息を吸う。
霧の表面に細い線が走る。読めない文の残りみたいな線が、裂け目になって道を示した。
空虹が一歩、前へ出る。
「私が先に踏む。……落ちるなら、私が落ちる」
「落とさねえ」
琉唯が短く返し、霧の裂け目を押し広げる。
七人が続いて抜けると、囁きは一段遠くなった。回廊はやがて三つに分かれる。右は湿った鉄の匂い、左は塩の匂い、正面は何も匂いがしない。
友樹也が鼻をひくつかせた。
息を吸うたび、喉が塩で擦れる。匂いがある方向は怖い。匂いが無い方向も怖い。友樹也はその“怖い”を、舌の上でいったん言葉にしてから吐き出した。
「右、嫌な匂い。……でも、引かれてるのは右っす」
空虹が頷きかけた、そのとき。
背後の足音が、一つ足りない気がした。




