第15話 遺跡門の削れた文
夜明けの風は、塩を薄く撒いたように頬へ当たった。沢山咸の塩湖はまだ灰色で、水面の向こうに霧の帯が横たわっている。
焚き火の跡に砂をかけ、七人は荷をまとめた。空虹が最後に見回り、指を折って人数を数える。
「遅れるな。勝手に離れるな」
硬い声の下に焦りが見えた。瑛大は空虹の横へ立ち、わざとゆっくり息を吸う。
「急ぐほど、足が絡まります。……僕が絡まったら、笑って引っ張ってください」
光希が荷紐を締め直しながら、瑛大の背中へ短く言う。
「絡ませない」
友樹也が鼻をひくつかせ、霧のほうを指さす。
「匂い、変わってる。湿った石。湖の奥、遺跡のほうっす」
列は塩湖の縁をなぞって進んだ。葦の間を抜けるたび、靴底がぬるりと沈む。琉唯は槍の柄で草をかき分け、前へ出たがる足を抑えきれない。
「早く行けば、早く取り返せる」
「早く行けば、早く落ちる」
真由梨が後ろから言った。遅れているのに息が乱れない。手にはいつもの棒があり、先の泥を軽く突いて硬さを確かめている。
空虹が振り向きかけた。叱る言葉が喉まで上がった顔で、そこで止まる。
瑛大が空虹の視線を受けて、先に言った。
「真由梨さんの言い方、今の状況にぴったりです。……続けましょう」
正午近く、霧が薄い場所に、黒い石の輪郭が浮いた。塩湖の奥に、半ば埋もれた石門が立っている。門柱には溝が走り、何かの文が刻まれていたはずなのに、削れて白く粉を吹き、読むべき線が途切れていた。
門の周りだけ、砂が妙に整っている。風で寄ったにしては、筋が揃いすぎていた。真由梨が遅れ気味に歩きながら、棒で砂の縁を撫で、乾いた音と湿った音を聞き分ける。
「踏みどころ、決まってる。外れたら沈む」
琉唯が眉をひそめた。
「罠か」
「罠。……急ぐほど、引っかかる」
真由梨の言い方は淡々としていて、かえって背筋に冷たく刺さる。空虹はその言葉を聞いて、無理に声を強めず、指先で隊列を整え直した。
友樹也は門柱の溝へ顔を寄せ、舌先で唇を湿らせた。
「読めないっすね。……これ、わざと削ってる?」
瑛大は門柱へ掌を当てた。指先に粉がつき、さらりと落ちる。削れた線の奥に、ほんのわずかだけ残った角がある。誰かが急いで消したのか、長い時間で擦れたのか――どちらでも、ここに“読ませたくない言葉”があった。
光希は布の包みを胸に押し当てた。欠片が冷たくなり、掌の温度が奪われる。怒哀が近い。目に見えなくても、肌が先に知ってしまう。
友樹也が溝を指でなぞり、唐突に首を傾げた。
「これ、“君に届きますように”の……『君』だけ残ってる、とか?」
「勝手に補うな」
空虹が即答した。けれど声は尖らない。言葉の角が立てば、霧が喜ぶのを知っている。
瑛大が笑って、空虹の“禁止”を別の言い方に変える。
「推測は後。今は、手順。触る人、押す人、見てる人」
光希が頷き、門から半歩引いて周囲を見渡す。琉唯は押したくて肩がうずうずしているのを、槍の柄を握り直して抑えた。
友樹也が舌打ちを飲み込む。
「読めないっすね。……これ、わざと削ってる?」
光希は布の包みを胸に押し当てた。欠片が冷たくなり、掌の温度が奪われる。怒哀が近い。目に見えなくても、肌が先に知ってしまう。
継司が鍵束を取り出した。土の色が付いた鉄を、一本ずつ門の鍵穴へ当てていく。合う形がなく、継司の指が少しだけ強くなる。
鍵を差し込むたび、金属が小さく鳴りそうになる。継司はその音を嫌うように、親指の腹で押さえ、息を止めた。指先は荒れていて、錆の粉が爪の縁に溜まる。
瑛大は継司の背中の硬さを見て、声を低くした。
「急がなくていい。合う形を、探せばいい」
継司は返事をしない。だが鍵束の重みをいったん掌で受け直し、ひとつひとつを丁寧に並べ直す。真由梨が横からぼそりと言った。
「並べると、見える」
継司の指が、ほんの一瞬だけ止まり、次の鍵を選んだ。
琉唯が待ちきれず、門へ肩を当てた。
「押せば開く」
石は動かなかった。代わりに、門の上の砂がさらりと落ち、粉が琉唯の髪に積もる。
琉唯が眉をひそめて頭を振ると、白い粉がぱらぱら舞った。
「雪みたいっすね」
友樹也が言った瞬間、琉唯の視線が刺さり、友樹也は即座に両手を上げた。
「違うっす。褒めてないっす。……いや、粉は綺麗っす」
光希が笑いながら、袖で琉唯の髪を軽く払った。触れ方は優しいのに、琉唯は「触るな」と言いかけて飲み込み、代わりに鼻で息を吐く。
空虹が息を吸う。叱る言葉が出かけたところで、瑛大が先に手順を口にした。
「門に触る人は一人。周りを見る人は二人。足元を確かめる人は一人。……今、ここ」
真由梨が棒で地面を軽く叩いた。乾いた音の中に、一か所だけ、空洞のように響く場所がある。
「ここ。踏むと沈む。急ぐほど、引っかかる」
「勝手に……」
最後まで言えず、唇を噛んだ。言葉の角が立てば、霧が喜ぶのを知っている。
真由梨が棒で地面を軽く叩いた。乾いた音の中に、一か所だけ、空洞のように響く場所がある。
「ここ。踏むと沈む。急ぐほど、引っかかる」
瑛大が頷き、琉唯の腕へ手を添えて後ろへ下げた。
「琉唯。守りたいなら、足場を守ろう」
琉唯は唸り声を喉の奥へ押し込み、槍を握り直した。
継司はもう一度鍵束を見比べ、一本だけ、土の付いていない鍵を選んだ。ほかの鍵が塩で白くなっている中で、その一本だけが、妙に素直な色をしている。
継司はそれを掌で一度拭い、鍵穴へ差し込む。指の腹が震えないよう、手首の角度をきっちり決めた。ほんの少しでも音が鳴れば、霧に居場所を教える気がした。
真由梨がぼそりと息を吐く。
「その鍵、右手の形」
継司は返事をしない。けれど右手で回した。
きい、と石が鳴った。低い軋みが門柱から門へ走り、溝の削れた文が震える。門の隙間が指一本分開いた。
その細い隙間から、風が吸い込まれるように流れ出した。湖の塩とは違う、湿った冷たさ。舌の奥が苦くなり、耳の奥が“聞きたくない音”を探し始める。
怒りと哀しみが混じった冷気が、顔へ刺さる。怒哀だ。喉がひりつき、唾がうまく飲み込めない。目が乾く。爪まで冷える。耳の奥が、誰かの後悔を受け取る準備をしてしまう。
瑛大は笑顔の形を崩さず、全員の名前を短く呼んだ。
「光希。友樹也。真由梨。琉唯。空虹。継司」
返事が重なったところで、光希は布の包みを少しだけ開いた。欠片が、掌の中でぬるく光る。薄い線が、門の隙間へ吸い込まれ、霧の入口がわずかに細くなる。まるで、胸の中の結び目が一つだけほどけたみたいだった。だが次の瞬間、ほどけた隙間へ冷気が入り込み、背筋がぞくりと粟立つ。
空虹が一歩、前へ出た。
「ここから先は、私が先に踏む。……落ちるなら、私が落ちる」
その言い方に、琉唯が鼻で笑った。
「落とさねえ」
七人は石門をくぐった。背中で門がもう一度鳴り、外の塩の匂いが遠のく。回廊の暗さが、瞳の奥へじわりと滲んできた。
怒哀の囁きが始まる前の、静けさだけが濃い。




