第13話 盗賊の石礫
昼をだいぶ過ぎ、太陽が西へ傾きはじめたころ、七人は塩湖の白い縁を離れ、葦の湿地へ戻っていた。白い粉の道はすぐに終わり、黒い泥が靴底をむに、と引き止める。歩くたび、泥の匂いが鼻の奥へ残った。
荷車の車輪が、ぬかるみで小さく鳴った。真由梨が朝のうちに結び直した紐は、揺れてもほどけない。瑛大は荷車の前に回り、押す腕へ力を入れながら、振り返って皆の顔を確かめた。
「今、どれくらいだ?」
瑛大が聞くと、空虹が太陽の高さを見て言う。
「午後三つ刻の手前。日暮れまでに、葦の背が低い場所へ出る」
「了解」
言葉が短く揃うと、足音も揃った。光希は胸の前で布の包みを押さえた。斑の石が中でごろりと動く気がして、呼吸が浅くなる。
友樹也が鼻をひくつかせ、葦の根元を見た。
「ここ、魚の匂いじゃないっすね。泥が……妙に甘い」
「甘いなら舐めるな」
琉唯が即座に言う。友樹也は両手を上げて首を振った。
「舐めてないっす! でも、誰か通った匂い、します」
継司が荷の底の布を押さえた。鍵束が、金属の重みを主張する。瑛大はその仕草を横目で捉え、声を落とす。
「継司、今は動かない」
継司は返事をしない。けれど指先が、布から離れなかった。
そのときだった。
荷車の後ろで、乾いた音が弾けた。
カン。
木の板に小石が当たり、欠片が跳ねる。続けざまに、二つ、三つ。石礫が雨みたいに飛んできた。
「伏せろ!」
空虹の声が短く走る。瑛大は荷車の取っ手を握ったまま体ごと向きを変え、板を盾にした。光希は咄嗟にしゃがみ、布の包みを抱えたまま息を止める。
葦の間で水が跳ねた。影が三つ、四つ。腰より上だけが見え、顔は布で隠れている。手には投げ縄と、小石を入れた袋。
「荷を置け!」
太い声のはずなのに、最後が震えた。別の影が続ける。
「鍵! 金のやつ! それを出せ!」
継司の指が布の上で止まった。瑛大はその動きを横目で捉え、声を落とす。
「継司、今は守る」
継司は頷かない。だが指は布を押さえたまま固まった。
琉唯が一歩踏み出した。泥が靴を掴む。空虹が腕を伸ばして制したが、琉唯は首だけ振って前へ出る。
「俺の目の前で、石投げてんじゃねえ」
言葉が荒くなった瞬間、風が冷えた。葦の先に薄い霧が絡み、胸の内側がざらつく。友樹也が小声で言う。
「怒哀、薄いの来てる……」
琉唯は聞こえないふりをして走った。走ったつもりで、二歩目で沈んだ。
「うおっ!」
泥が足首まで飲み込み、勢いだけ前へ滑る。琉唯の体が見事に前のめりになり、顔の手前で葦がばさっと揺れた。
友樹也が息を呑んだ次の瞬間、噴き出した。
「湿地、反則っす!」
「笑うな!」
空虹が叱り、叱りながらも視線は敵の足元へ走る。真由梨は荷車の横へ回り、縄を一本外して荷を低くした。石が当たっても転がらない角度に、静かに整える。
琉唯が泥を蹴って立ち上がろうとしたところで、影の一つが滑るように近づいた。怯えた目だけが布の隙間から覗く。手が伸び、継司の布に触れた。
金属の鳴る音。
鍵束の輪が引っ張られ、一つが外れる。
「取った!」
影は叫び、叫びながら後ずさった。声音は、思っていたより若い。
継司が手を伸ばしかけ、止めた。次の瞬間、瑛大がその手首を掴む。掴む力は強くないのに、継司の指がぴたりと止まった。
「今は、守る」
琉唯が泥を跳ね上げて追おうとする。
「待て、逃がすな!」
空虹が即座に声を重ねた。
「二列! 間隔二歩! 足元を見る! 追うのは、葦が切れてから!」
琉唯は舌打ちした。だが空虹は同じ言葉をもう一度繰り返し、先に自分が踏み出した。指示ではなく、実行で道を示す。
盗賊の影は後ろへ引いた。水面が跳ね、葦が揺れ、薄い霧が巻き上がる。追えば追うほど、足元が消える場所だ。
真由梨が地面に膝をつき、棒で泥へ線を引いた。乾いた土の島と、深い溝の位置。戻る道の印。短い線が、迷いを減らす。
「ここを外すと、膝まで沈む。戻りは、この線」
石礫は止まり、代わりに水音が遠ざかった。残ったのは、泥と霧の冷たさだけだ。
琉唯がなおも前へ出ようとしたとき、瑛大が肩を掴んだ。笑っていない。けれど怒鳴りもしない。
「琉唯、戻る。今は戻る」
「逃がすのかよ!」
琉唯の声が跳ね、喉の奥が渇いた。怒哀が舌に乗る感じがする。瑛大は琉唯の目を見て、言葉を選ぶ。
「取り返す。だから、取り返す場所を決める」
琉唯の胸が上下する。泥まみれの手が握ったり開いたりする。瑛大は指を一本立てた。
「今追うと、こっちの足が取られる。鍵は一つ。……人が折れたら、戻せない」
光希が琉唯の横へ来て、水袋を差し出した。
「飲んで。喉、乾いてる」
琉唯は受け取り、乱暴に飲み、次の瞬間、少しむせた。友樹也が背中を軽く叩き、叩きながら小声で言う。
「むせ方、派手っすね。……生きてる証拠」
空虹が視線だけで黙らせたが、光希の口元が一瞬だけ緩んだ。
継司は鍵束の輪を握りしめ、欠けた場所を親指で撫でた。泥水が滴り、金属が冷える。瑛大は継司の前へ回り、低い声で聞く。
「奪われたのは、どれだ」
継司は答えない。代わりに、輪の上で二つの鍵を持ち上げ、残りの形を見せた。空虹がそれを見て、短く息を吸う。
「石門の……合う形が一つ、減った」
真由梨が泥の線を指先でなぞり、瑛大の方へ顔を上げた。
「追うなら、乾いた島を一つ挟んだ方がいい。ここは、沈む」
瑛大は頷き、皆へ視線を回す。光希の布の包み。友樹也の鼻の動き。琉唯の握り拳。空虹の足運び。真由梨の線。継司の冷えた輪。
葦の隙間に、盗賊の目が一瞬だけ見えた。怯えが、そのまま瞳の奥に溜まっている。瑛大は、その目を追い詰めるほど言葉が荒れてしまうと悟った。
「今夜は、あそこまで戻る」
瑛大は真由梨の線の先、少し高く盛り上がった土の島を指さす。枯れた標識の柱が一本、斜めに立っている場所だ。
「日が落ちる前に、乾いた場所で呼吸を整える。明日の朝、取り返す場所を決めて、取り返す」
空虹が復唱するように言った。
「乾いた場所。呼吸を整える。明日の朝、取り返す場所を決める」
琉唯がまだ不満そうに鼻を鳴らしたが、荷車の後ろ板に刺さった小石を一本抜き、握り潰した。怒りが、握力に変わる。
光希はその手を見て、琉唯の前へ半歩出た。
「今、追わなかったのは……守るため。明日、取り返すため」
琉唯は頷きも返事もしない。けれど握り潰した小石を地面へ捨て、荷車の取っ手を掴んだ。足元を確かめてから、一歩だけ前へ出る。
友樹也が鼻を動かし、乾いた息を吐く。
「匂い、こっちはマシっす。……帰れる」
真由梨が線の上を指で叩き、同じ場所をもう一度なぞった。
「戻りは、この線。迷わない」
継司は鍵束の輪を胸の位置へ引き上げ、布を結び直した。結び目が固くなる。目は合わせない。それでも、歩き出す足は止まらない。
荷車がまた鳴り、湿地の水面が小さく揺れた。盗まれたのは鍵の一つだけだ。けれど、ここで荒い言葉まで奪われたら、結界の厚みが薄くなる。
瑛大は荷車を押しながら、光希の横で小さく言った。
「君に届く言葉は、奪わせない」
光希は布の包みを抱え直し、頷いた。
葦の奥で霧が揺れた。七人は揺れに背を向けず、足元を見て進んだ。




