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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第12話 斑の瞳が映す過去

 昼を少し過ぎたころ、道は急に開けた。葦の背が低くなり、足元の土が白い粉をまといはじめる。沢山咸の塩湖が、近い。


 風が、頬の横をまっすぐ撫でた。昨日までの湿った匂いの下に、乾いた塩が刺さる。歩くたび、靴底がきゅっと鳴り、白い粉が舞って膝へ貼りつく。


 「……この土地、食べられるくらい塩があるな」


 琉唯が、靴先で白い地面を軽く蹴った。粉がぱさっと跳ねる。


 「舐めないで」


 光希が言うと、琉唯は「舐めねえよ」と返しながら、指先で粉をつまんでしまい、次の瞬間、顔をしかめた。口には入れていないのに、なぜか喉が渇く。


 「指が、しょっぱい……」


 友樹也が腹を抱えて笑いそうになり、空虹に睨まれて肩をすくめた。


 「笑うなら、今の状況が何か言ってから」


 「えー……ええと。風、北。湖の手前、薄い霧。匂い、塩が強いけど、酸っぱさは……まだ薄い」


 友樹也は鼻を動かしながら、言い直した。空虹は頷き、紙を取り出して短く書く。


 『湖岸 北風 薄霧 酸い匂い弱』


 真由梨は一歩遅れて歩いているのに、息は乱れない。地図を折り直し、目印の石を見て、指で線をなぞる。


 「ここ、地面が固い。荷を下ろしても沈まない。休むなら、あの岩の陰がいい」


 言い終える前に、瑛大がもう動いていた。皆の顔を順番に見て、頷きを拾い、岩の陰へ先に立つ。


 「じゃあ、十分だけ休憩。水を飲んで、靴紐を締め直して。光希、手が空いたら周りの石も見てみて。……斑があるやつ」


 光希は「うん」と返事をして、荷紐をほどきながら周囲に目を走らせた。湖面は銀色にきらきらして、遠目には綺麗だ。近づくほど、岸の石がざらついて見える。


 琉唯が荷を下ろし、肩を回す。継司は最後に来て、皆と少し距離を取ったまま、鍵束の布を胸の内側へ押し込み直した。布の結び目がきゅっと締まる音が、乾いた風に吸われる。


 空虹が目線だけで全員を数え、短く言った。


 「離れすぎるな。見える範囲。霧が濃くなったら、すぐ呼ぶ」


 琉唯が肩を鳴らしながら湖面を見た。白い岸の先で、銀の水がきらきらしている。琉唯は足元の小石を拾い、指先で二回ひねってから、軽く投げた。


 石は水面で一度だけ「ぽちゃん」と鳴り、そのまま沈んだ。跳ねない。


 「……なんだこれ。重いのか」


 「塩が染みてるんじゃないっすか。漬物石の親戚っす」


 友樹也が言い、空虹が「余計な親戚を増やすな」と言いかけたところで、瑛大が「投げるのは後。足元、滑る」と指で岸を示した。


 「了解」


 瑛大が答え、わざと大げさに手を上げた。空虹の眉が少しだけほどける。


 光希は岩の陰を抜け、湖岸の小石へ近づいた。白い塩の粉の上に、黒と茶の斑が散る石がある。靴で踏むと、こり、と硬い音がする。


 「レオパード……」


 口に出すと、石の斑が本当に豹の毛みたいに見えた。光希はしゃがみ込み、掌に乗せてみる。ひんやりしているのに、掌の汗だけが吸い取られていく。


 斑の真ん中が、やけに丸い。


 目。


 そう思った瞬間、斑の奥がゆらりと揺れた。湖面の反射かと思ったが違う。石の中に、暗い部屋の気配が差し込んだ。


 光希の息が止まった。


 瞳の奥。


 そこに、別の景色が映る。


 狭い廊下。古い板の床。雨の匂い。小さな自分が、濡れた髪を指で押さえながら、誰かの背中を追いかけている。背中の人は振り返らない。光希の口から、言いかけた言葉だけが落ちる。


 「……」


 声にならない。胸の内側がぎゅっと縮む。次の瞬間、映像が跳ねた。


 今度は、台所の隅。鍋の蓋を叩く音が、規則正しく響いている。泣いている子に、幼い光希がしゃがみ込み、鍋の音を真似しながら、相手の手の中の小さな木片を指さす。


 『それ、すごいね。ちゃんと角が揃ってる』


 その一言で、泣き声が止まる。子どもが木片を握り直し、顔を上げる。幼い光希は、笑っているのに、目元だけが必死だ。


 映像の端に、濡れた大人の手が伸びてきて、光希の肩に触れる。肩が小さく跳ねる。だけど、逃げない。


 次の瞬間、景色はまた裂ける。


 同じ廊下。今度は誰かが怒鳴っている。言葉の刃が飛び、床に落ちて跳ねるみたいに聞こえる。幼い光希は口を開き、でも声が出ない。声の代わりに、喉が乾く。


 そこで、石の斑が一気に暗くなった。


 光希は反射で石を落とした。小石が塩の粉の上で転がり、こつ、と止まる。


 「光希?」


 瑛大の声が背後から届いた。振り返ろうとしても、首がうまく回らない。手が冷えているのに、掌だけ汗ばんでいる。


 友樹也が少し離れた場所から、葦の先で地面をつつきながら顔を覗いた。


 「石、見たっす? 目みたいなやつ。……あ、やばい、って言わない方がいいっすよね」


 自分で口を押さえた。空虹が来る気配がして、友樹也は慌てて言い直す。


 「ええと。見たら、胸がきゅってなるやつ」


 瑛大は笑わなかった。笑う代わりに、光希の横へしゃがみ、落ちた石を拾わず、その手前で止まった。


 「見えた?」


 光希は頷こうとして、顎がかすかに震えるのを自分で感じた。言葉が出ない。


 瑛大は、腰の布をほどいた。今日は荷の上に巻いていた薄い布だ。指先で塩の粉を払ってから、石をそっと包む。


 「見たくないなら、閉じていい。……今は、閉じていい」


 布の包みを作り、瑛大はそれを自分の掌に移した。次に、光希の手を取り、両手で挟む。瑛大の手は冷たかった。なのに、触れた瞬間、光希の指先の震えが少しだけ止まる。


 「……冷たい」


 光希がやっと言うと、瑛大は小さく息を吐いた。


 「ごめん。僕の手、いつも冷える。……でも、放すのはもっと冷えると思って」


 光希は、笑うつもりじゃなかったのに、喉の奥から短い息が漏れた。笑いの形になりかけて、すぐ消える。


 瑛大はその息を拾うみたいに、視線を合わせた。


 「今、見たのが何でも、光希が今ここにいるのは、さっきの朝飯と同じで……皆の役に立ってる。だから、戻ってこれる」


 光希は目を伏せたまま、指先に力を入れた。瑛大の指が、逃げないように支える。


 少し離れた場所で、継司が湖面を見ている。視線は水のきらめきに向いているのに、体の向きは光希たちの方へ寄っている。鍵束の布の結び目を、もう一回だけ締め直し、咳払いもせずに息を整えた。


 空虹が岩陰から出てきて、状況を一目で把握した。大声は出さず、けれど全員に聞こえる高さで言う。


 「石を見るのは、一人でやらない。……触った者は、必ず言葉を出す。短くでいい」


 光希は、瑛大の手の中で小さく頷いた。


 「……見えた。昔の、廊下。あと、鍋の音」


 「それで十分」


 空虹がそう言い、同じ文をもう一度繰り返した。


 「それで十分」


 友樹也が「鍋は大事っすね」と言いかけ、琉唯に肩を小突かれて黙る。琉唯は口を開かず、代わりに光希の前へ立って、風下を塞いだ。風の塩が直接当たらない位置に、体で壁を作る。


 真由梨が水袋を差し出した。光希が受け取ると、真由梨は黙ったまま、袋の口をもう一度きつく締めてから自分の荷へ戻った。


 瑛大は布に包んだ石を、光希の手の上にそっと置いた。


 「持てそう?」


 「……うん。今は、大丈夫」


 光希が答えた瞬間、湖面の薄い霧が、ふわりと形を変えた。友樹也が鼻を動かし、短く言う。


 「酸っぱさ、ちょっとだけ来た」


 空虹が頷き、即座に言葉を揃えた。


 「岩陰に戻る。見える範囲。呼ぶ声は、名前」


 七人は、さっきより静かな足取りで岩陰へ戻った。光希の掌の上で、布に包まれた小石が重い。


 でも、その重さがあるから、今の足元がわかる。


 瑛大の手の冷たさも、琉唯の風除けも、空虹の繰り返す言葉も、真由梨の水の重みも、友樹也の匂いの報告も、継司の沈黙の見守りも――全部、ここにいるための形になっていた。



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