第11話 朝飯と軽口と規律
夜明け前の野営地は、焚き火のぱちぱちだけが先に起きていた。沢山咸へ下る道の途中、葦が肩の高さまで伸びる小さな高まりに寝袋を並べ、七人は寄り合って夜を越えた。草の先は霜で白く、靴で踏むと薄い氷がぱき、と割れる。
空虹は起き抜けに紙を広げ、昨夜の「縄/滑車/帰還時刻」の横へ、今朝は「火」「見張り」「水」と書き足した。
「朝飯の前に、見張り報告。交代した者から」
友樹也が戻ってきた。鼻先が赤い。折れた葦を一本持ち、先の濡れを指で触ってから、ぽつりと言う。
「……あっち、やばいっす」
空虹の視線がまっすぐ刺さる。
「『やばい』は禁止。場所、時間、何が、どれだけ」
「えー……南の窪み。まだ暗い時間。匂いが酸っぱくて、胸がきゅってなる。霧、濃い」
友樹也の言い直しに、空虹は頷いたが、すぐ続けた。
「次から、その形で言う。余計な飾りはいらない」
「飾りじゃないっすよ、俺の命綱っす」
軽口が飛び出した途端、友樹也は自分で口を閉じた。怖いと、先に笑ってしまう。空虹が叱る前に、瑛大が火のそばから声をかける。
「今のも大事。友樹也は、怖さを笑いにして息を整える。……ただ、皆に伝えるときは、空虹さんの形に寄せよう」
光希が鍋の縁を布でつかみながら、空虹の紙へ短く書き足す。
『南の窪地は避ける/高まりを通る/霧が酸い場所は戻る』
空虹はその文を指でなぞり、同じ言葉を二回口にした。
「南の窪地は避ける。高まりを通る。……戻る判断は、匂いと視界。以上」
友樹也は「ほら、こういうの」と言いかけて、瑛大に目で止められ、代わりに親指を立てた。
朝飯の準備が始まる。光希が干し肉を湯にくぐらせて塩気を落とし、瑛大が乾いた布で包み直す。真由梨は黙って水を煮沸し、湯気の向こうで地図を広げた。継司は鍵束を布でぐるぐる巻きにして、胸の内側へ押し込む。
その布の中で、金属がちり、と鳴った。
継司の肩が一瞬だけ跳ねる。鳴らしたくないのが伝わるほど、動きが固い。
「鍵、泣いてるっすね」
友樹也が言うと、継司が睨み返した。睨みの強さはあるのに、鍵束を押さえる手は丁寧だ。
「泣いてるなら、今日は慰めよう。……鳴らさずに持てたら、十分すごい」
瑛大の言葉に、継司は返事をしない。けれど布の結び目を、もう一回だけ締め直した。
琉唯は串を拾い、干し肉を焚き火へ突っ込んだ。勢いが良すぎて、すぐ焦げた匂いが立つ。
「おい、黒くなった!」
「火に近すぎ」
光希は笑いながら、焦げたところを小刀で薄く削った。削り落とした黒い粉が、雪みたいにひらひら落ちる。
「ほら。中はまだ柔らかい」
琉唯は受け取って、一口で黙った。噛む音が、やけに素直だ。
「……焦げも、嫌いじゃねえ」
「それ、負け惜しみ」
友樹也が言うと、琉唯が串で肩を小突く。瑛大が笑い、光希も笑って、真由梨は湯を器へ注ぎながら口元だけ少し緩めた。空虹は笑い声を聞きながらも、紙の文を指で押さえ続ける。
不思議と、霧の縁が遠のいた。さっきまで葦の間に溜まっていた白さが、風にほどける。友樹也が鼻を動かし、短く言う。
「……酸っぱさ、薄い」
瑛大は椀を持ち上げ、皆に目を向けた。
「今のうちに進もう。南の窪地は避ける。高まりを通る。……怖いときは、言葉を出す。僕が拾う」
空虹が頷き、紙を折って胸へしまう。
「繰り返す。南の窪地は避ける。高まりを通る。戻る判断は、匂いと視界」
朝飯の湯気が薄れていくころ、七人は荷を背負った。焚き火の灰を土で消し、足跡をならして、沢山咸へ下る道へ戻る。
踏み出した途端、草の先の霜が靴へまとわりつき、すぐに水になって冷たく染みた。葦の間を抜けるたび、塩の匂いが少しずつ濃くなる。舌の奥が乾いて、呼吸のたびに白い息が増えた。
友樹也は先頭の少し後ろで鼻を鳴らし、やたらと周囲を嗅ぎ回る。空虹は歩きながらも紙を折り目で押さえ、同じ文を小声で繰り返す。
「南の窪地は避ける。高まりを通る。戻る判断は、匂いと視界」
「空虹さん、歌みたいっすね」
友樹也がからかうと、空虹の眉が一瞬だけ動いた。叱り言葉が喉まで上がったところで、瑛大が隣へ並び、同じ調子で続ける。
「じゃあ僕は、二番をつけます。『怖いときは、言葉を出す。拾う人がいる』」
光希が小さく笑い、荷の揺れを押さえながら言った。
「三番は『焦げても削れば食べられる』にしようか」
琉唯が不満げに鼻を鳴らしたが、口元は少しだけ緩んだ。真由梨は後ろで無言のまま、縄の結び目を確認している。その指先が冷えで赤くなっているのが、瑛大には見えた。
しばらく歩くと、風向きが変わった。酸っぱい匂いが、薄い布を一枚かぶせるみたいに鼻へ張り付く。胸がきゅっと縮み、鼓動が一段速くなる。
友樹也が立ち止まりかけ、肩をすくめた。
「……ここ、さっき言ったやつ。酸い」
空虹が即座に手を上げ、隊列を詰めすぎないよう指で間隔を示す。継司は鍵束の入った布を押さえ、鳴らさないように息まで浅くする。
瑛大は振り返り、全員の目を一人ずつ拾った。名前を呼ぶと、視線が点になる。
「光希。友樹也。真由梨。琉唯。空虹。継司。……僕」
返事が重なり、酸っぱい空気の輪郭が少しだけほどけた。光希が布包みを胸へ寄せ、掌で温め直す。欠片が小さく、ほっと息をつくみたいに熱を返した。
そのとき、友樹也が足を滑らせた。霜で濡れた石に、靴底がつるりと逃げる。
「うわっ――」
瑛大が腕を掴み、琉唯が背中を押して起こす。友樹也は赤くなって、勢いで言い訳を投げた。
「い、今のは、霧のせいっす」
「霧のせいなら、しょうがない」
瑛大が真顔で返したせいで、光希が噴き出した。真由梨も肩だけ揺らし、空虹は唇の端を必死に押さえる。笑い声が二つ、三つ重なった瞬間、酸っぱい匂いがほんの少し遠のいた。
友樹也が照れ隠しに親指を立て、前を向く。
「ほら、笑えば薄くなる。……ドキドキする物語みたいっす」
「その言い方なら許可」
空虹が短く返し、皆がまた歩き出す。
歩きながら、光希が後ろを振り返った。野営地の高まりはもう霧の縁に溶け、焚き火の匂いだけが薄く残っている。前方には塩湖の白さが広がり、風が当たると頬がぴりっとした。
琉唯が唾を飲み込み、わざと大きく言った。
「帰ったら、腹いっぱい食う」
「焦がす前提で?」
光希が返すと、琉唯が「削ればいい」とぶっきらぼうに言い、皆がまた笑った。笑い声は小さいが、確かに足元を軽くする。
友樹也は鼻を鳴らし、今度は真面目な声で付け足した。
「酸い匂い、遠くなってる。……今の笑い、効いたっす」
空虹は頷き、指で前を示す。
その合図の後ろで、継司が荷の紐を握り直した。鍵束の布が胸の内側で微かに動き、鳴りそうになるのを、継司の指が押さえる。瑛大はその仕草を横目で見て、わざと歩幅を一拍遅らせた。
遅らせた分だけ、継司の歩幅が揃う。視線は合わない。けれど距離は、ほんの少しだけ詰まった。霧の奥で、誰かが息を吐いた気がした。足元の霜が、ぱき、と鳴る。
瑛大は二つを繋ぐように、歩幅を揃えた。




