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失われた物語の結界――沢山咸辺境開拓団の手紙  作者: 聖稲


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第10話 沢山咸へ下る道

 朝の空は薄く白んで、詰所の屋根の霜がきらりと光っていた。塩湖の風は相変わらずしょっぱく、息を吸うと舌の奥がざらつく。それでも昨夜よりは、外の白い靄が柵に絡みつく感じが弱い。


 かまどの残り火に湯がかけられ、木の椀から小さな湯気が立つ。誰かが「塩っぽい」とぼやき、別の誰かが「いつもだ」と返して、短い笑いが転がった。笑い声が板壁に当たって跳ね返るだけで、室内の空気が少しだけ温まる。


 瑛大は点呼の名簿を閉じ、皆の顔を順に見た。眠い目も、強がった目も、今朝は少しだけ柔らかい。


 「昨日の一晩で、道が少し狭まった。……でも、広げるには材料が足りない」


 空虹が頷き、掲示板の前へ立つ。木炭で書いた手順は三つだけ。短いほど、守るべきことが見える。


 「本はまだ見つかっていない。欠片はある。鍵束もある。なら、次は『どこを開くか』を決める」


 友樹也が鼻を鳴らした。


 「開くって、どこっすか。地下、床下、戸棚……全部、開けたっすよね」


 「全部じゃない」


 そう言ったのは真由梨だった。遅刻したのに、もう机に紙を広げている。昨夜の手紙と同じ紙で、今度は地図の形を描いていた。


 「詰所の中にあるのは『箱』。外にあるのは『場所』。……鍵は、場所のほうにも刺さる」


 琉唯が肩に担いだ縄を揺らした。


 「で、どこだよ。喋れ。腹が減ると短気になる」


 「腹が減る前に食べればいいのにね」


 光希が、干し肉の包みを抱えたまま言う。言い方は柔らかいのに、琉唯の胃だけが先に負けたのか、ぶつぶつ言いながらも荷を受け取った。


 瑛大は机の上の古い鍵束を手に取った。錆びた歯が欠けている一本を、指の腹でなぞる。鳴らさないように押さえる癖が、今朝は皆に伝染している。


 「継司、これ、何に似てる?」


 名を呼ばれた継司は、視線を上げないまま近づいた。鍵束を見て、ほんのわずか眉が動く。返事の代わりに、戸棚の角へ向かった。


 戸棚は壁にぴったり付いている。いつもは配給札や帳面を入れるだけの、古い木の箱だ。継司は戸棚の裏側へ手を回し、指先で壁の板を押した。


 ぎ、と木が鳴った。


 板の一枚が、わずかに沈む。


 空虹が反射で身を乗り出す。


 「今まで、そこは確認していない。……なぜ、わかる」


 継司は答えず、欠けた歯の鍵を差し込んだ。回す。音がしない。けれど、空気が変わった。


 板が外れ、細い隙間が口を開けた。中から出てきたのは、革でも本でもなく、折り畳まれた紙束だった。紙は湿り、端が塩で白く固まっている。


 光希がそっと受け取り、広げた。


 文字は古い。けれど、読める形で残っている。


 『結界は核に寄る。

 核は湖底の大石。

 大石は言葉を飲み、言葉を返す。

 返る言葉は、宛先があるほど強い。』


 友樹也が息を止め、鼻をひくつかせた。


 「湖底……って、塩湖っすよね。あそこ、朝に白い靄が溜まる。……濃い日、酸っぱい」


 「酸っぱいは、言い方として雑だ」


 空虹が言うと、友樹也は肩をすくめた。


 「じゃあ、えーと……胸がきゅってなる匂い。失敗した夜の匂い。……そういうやつ」


 言い直した途端、光希の指先が布包みへ動く。割れたレオパードジャスパーの欠片は、今日は冷えすぎていない。昨夜の言葉が、まだどこかに残っているみたいだった。


 琉唯が「泳げねえぞ」と言い、真由梨が「泳ぐ前提で考えなくていい」と淡々と返す。


 「縄と滑車。引き上げる前提で、先に準備しておけばいい」


 真由梨の言葉を、空虹が板の上へ短く写す。


 『縄/滑車/帰還時刻』


 空虹はもう紙の端に指を当て、手順の形に分解し始めていた。


 「少人数で行く。荷は軽く。戻る時間を決める。……詰所に残る人も、必要だ」


 瑛大が頷き、入口のほうへ視線を投げた。火番に回っていた年配の男が、椀を持ったままこちらを見ている。視線が合うと、男は無言で親指を立てた。


 瑛大はその仕草に笑ってしまって、笑いを隠さずに言った。


 「残る人は、火と井戸と畑。……それだけで、結界の土台が保てる。誰も『留守番』じゃない。仕事が違うだけ」


 光希が頷き、瑛大の言葉を受けて、皆の得意を指で数える。


 「友樹也は匂い。空虹は手順。真由梨は記録と道具。琉唯は荷と盾。……継司は鍵」


 継司が僅かに肩を揺らす。名を出されて、逃げ場が減ったのかもしれない。


 瑛大は笑顔を作る代わりに、深く息を吐いた。


 「僕は、皆の声をつなぐ。……詰所には、戻るまでの手順も置いていく」


 準備は早かった。真由梨が紙に「縄」「滑車」「灯油」「乾いた布」「塩抜きの湯」と書き、空虹がその横に帰還の時刻と、連絡の合図を三つだけ書き足す。琉唯は黙って荷を背負い、友樹也は靴底を指で叩いて「ここ、泥がつきやすい」とぶつぶつ言う。


 光希は干し肉を小さく切り、塩気の強いものは湯でさっと洗って包んだ。琉唯が「それ、味なくなるだろ」と言うと、光希は包みを差し出す。


 「なら、食べてから言って」


 琉唯は一口で黙った。噛む音が、やけに素直だった。


 継司は鍵束を荷の底へ滑り込ませた。見えないところへ隠す癖が、まだ残っている。けれど今回は、瑛大の視線から逃げない位置でやった。


 瑛大は何も責めず、ただ荷紐を指さした。


 「そこ、下敷きになると歯が折れる。……鳴らしたくないなら、動かないように縛ろう」


 継司は一度だけ頷き、紐を締め直した。きゅ、と布が鳴る。


 出発の直前、瑛大が戸棚の前で足を止めた。


 「もう一回だけ、裏を見よう」


 空虹が頷き、琉唯が戸棚を少し前へ引く。木が床を擦り、乾いた音がした。壁との隙間から、何かがふわりと落ちる。


 破れた紙片だった。指先で触ると、端がざらりとする。塩が紙の繊維に噛みついている。


 光希が拾い上げ、灯りにかざした。


 短い文が、途中で切れている。


 『沢山咸へ下る道。

 白い海の縁に、石の門。

 削れた……文……。

 鍵を鳴らす……』


 友樹也が「うわ、嫌な予告」と呟き、琉唯が「予告じゃねえ。警告だ」と返す。空虹は紙片を折り、胸の内側へしまった。


 「場所と危険が、文字になった。……行く理由が増えた」


 光希は布包みの欠片へ指を当てた。昨夜の温かさとは違う。今は、冷たいまま、そこにある。けれど、冷たいからこそ、熱を入れる場所が必要だとわかる。


 瑛大は皆を見回し、最後に継司を見た。


 「継司。鍵、鳴らさないで持てる?」


 継司は一度だけ頷き、荷紐をさらに締めた。


 柵の扉が開く。外の空気は冷たく、湿地の匂いが混じる。けれど、昨日より視界が広い。朝日が塩湖の向こうで跳ね、白い靄の上に薄い虹の輪郭が立った。


 瑛大は先頭に立つ空虹の横へ並び、声を低くする。


 「今、怖い人はいる?」


 友樹也が手を上げかけて、やめて、結局、指一本だけ立てた。


 「怖いっす。でも、行くっす」


 「それでいい」


 瑛大は短く返した。光希が「その言い方で十分」と重ね、真由梨は無言で頷いた。琉唯は返事の代わりに前へ出て、足場の悪いところで先に踏み固める。


 下り道は、塩を含んだ土が固く、ところどころ白い粉が浮いていた。靴底がきゅ、と鳴る。草の先が凍って折れ、湿った匂いが一瞬だけ立つ。遠くで塩湖が広がり、銀の皿みたいに朝日を受けている。


 友樹也が湖を指さし、軽口の形を作る。


 「あれ、でかい漬物石が沈んでるってことっすよね。核。……漬物、めっちゃうまくなる」


 「塩で漬かりすぎる」


 光希が即答し、空虹が「話を逸らすな」と言う前に、瑛大が小さく笑った。


 「逸れてもいい。……戻すのは、僕がやる」


 笑いが一つだけ落ち、足音に混じった。


 継司は最後尾で歩調を合わせた。荷の底の鍵束が動かないよう、背中を少しだけ丸めている。守り方を言葉にできない代わりに、歩幅で示している。


 瑛大は振り返らずに言った。


 「戻ったら、また手紙を書こう。……今度は、宛先の名前も一つだけ」


 返事はない。だが、背後で荷紐がきゅっと締まる音がした。


 沢山咸へ下る道は、まだ先が見えない。けれど、歩く足音だけは、今朝、揃っていた。



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