第1話 笑顔の点呼
夜明けの前は、いつも音が少ない。沢山咸の塩湖から吹いてくる風は、舌の奥に白いざらつきを残して、詰所の板壁をこつこつ叩く。
灯油ランプの火が、机の上の紙束を黄に染めていた。罫線のまっすぐさに負けないくらい背筋を伸ばして、空虹が読み上げる。
「本日から、当詰所の規律を再確認します。点呼は毎朝、日が出る前。遅刻は理由を申告。柵の外へ出る際は必ず二名以上」
声がはっきりしているせいで、眠気が逃げる。だが、その分だけ肩に力も入る。木床の上に並んだ開拓団の面々は、誰もが新しい土地の空気に慣れきっていない顔で、手を膝に置いていた。
誰かが湯気の残る湯飲みを抱えていて、口をつけるたびに小さく喉が鳴った。薪の匂いと塩の匂いが混じり、窓の隙間から入る冷気が足首を撫でる。外の湿地がまだ眠っているのに、ここだけ先に目を覚ましている感じがした。呼吸するたび、舌先がしょっぱくなる。皆の喉が鳴る音が、妙に揃う。
友樹也は、列の端で鼻をひくつかせた。塩の匂いはいつも通りなのに、その下に、濡れた土と鉄のような酸っぱさが混じっている気がする。まだ見えない柵の外側が、喉の奥をきゅっと締める。
空虹が紙をめくる音が、やけに大きく聞こえた。
「以上。……次に、点呼。責任者は」
「おはようございます。責任者、瑛大です」
入口の戸が少しだけ軋んで、冷たい風と一緒に瑛大が入ってきた。眠そうな顔が一つもなくなる。瑛大は、まず深く頭を下げてから、並んだ全員の顔をゆっくり見回した。
笑っている。寒さで頬が赤いのに、その笑顔が妙にあたたかく見える。
「空虹さん、読み上げありがとうございます。……ええと、硬い空気になってますね。よし。硬い空気には、僕の失敗談です」
空虹の眉が、ほんの少しだけ動いた。止めたいのか、聞きたいのか、まだ決めていない顔だ。
「初めての任地で、僕、点呼で名前を二回まちがえました。しかも同じ人を」
ざわ、と誰かが息を吸う。
「『友樹也』を『友樹也』って呼んで、『はい』って返事が返って、安心して次を呼んだら、また『友樹也』を呼んでました。二回目も返事が返って」
友樹也が思わず手を上げた。
「いや、それ俺じゃないっす。俺、まだそのときいなかったっす」
「え、そうでしたっけ。ほら、こういうところです」
瑛大が肩をすくめると、列のどこかから小さな笑いが漏れた。堅い木の床が、ほんのわずかに緩んだ気がした。
「しかもその日の朝食、塩粥を鍋ごとひっくり返して、床が白くなりまして。僕だけじゃなく、全員の靴底も白くなって。『沢山咸は塩が多いから当然だ』って言い訳したんですけど、当然じゃないって怒られました」
今度は、はっきりと笑い声が上がった。琉唯が「はは」と短く鼻で笑って、腕を組み直す。継司は表情を動かさないまま、けれど視線だけは瑛大の口元に向けている。
空虹は咳払いを一つしたが、声の角は少しだけ丸くなっていた。
「点呼に移ります。……ただし、規律は規律です。笑いで曖昧にしないように」
「はい。曖昧にしません。だからこそ、名前をきちんと呼びます」
瑛大は紙を持つのではなく、机の上の名簿を見て、いちいち相手の目を見る。
「光希」
「はい」
光希は返事をしながら、背筋を伸ばして前に一歩出た。瑛大の目を見ると、なぜか肩の力が抜けたように息がしやすくなる。
「友樹也」
「……はい」
友樹也は返事をしながら、もう一度だけ鼻を動かした。さっきより匂いが濃い。湿った土。鉄。あと、胸の奥がざらつく感じ。
「真由梨」
返事がない。
空虹の眉が、今度ははっきり吊り上がった。
「真由梨。規律」
「はいはい。ここ」
入口の戸が、また軋んだ。真由梨が、両手を袖の中に入れたまま、何事もなかったような顔で入ってくる。息も切れていない。髪の先だけが少し濡れていて、外の冷気を連れてきた。
「遅刻です。理由を申告」
空虹が言うより早く、瑛大が真由梨の足元を見た。靴の縁に泥がついている。凍った道で滑った人の泥だ。
「転びましたか」
「転んでない。転びそうだったから、遠回りした」
「遠回り」
「うん。近道の木橋、片側だけ浮いてた。踏んだら落ちる。だから叩いて印つけてきた」
空虹の視線が一瞬だけ名簿から逸れて、真由梨の靴底へ落ちた。瑛大は頷いた。
「ありがとう。今の申告は、遅刻の言い訳じゃなくて、皆を守る情報です」
「規律は守って」
空虹はそう言ったが、声は怒りよりも確認に近い。
「守る。次は早めに出る」
真由梨は淡々と返して、列に混ざった。
点呼は続く。
「琉唯」
「おう」
返事が短い。けれど瑛大は目を逸らさない。
「継司」
「……はい」
小さな返事が、遅れて届く。継司の指先は、なぜか名簿の角と同じように白い。
最後に、瑛大は紙を閉じた。
「全員、揃いました。今日から、ここで暮らします。畑も、井戸も、見張りも、配給も、ぜんぶ生活です。だから、最初にやりたいのは、名前を覚えて、名前で呼び合うことです。怒鳴り声じゃなくて」
その言葉に、光希が小さく頷く。友樹也は「怒鳴り声は、俺の得意じゃないっす」と軽口を乗せようとして、喉の奥が冷えて止まった。
外から、柵の木が鳴る音がした。
友樹也は反射で、窓の隙間を見た。まだ暗い。けれど柵の向こうに、白いものが溜まっている。霧だ。沢山咸の朝は霧が出る、と聞いていた。なのに、今日の霧は動き方が変だ。
生き物みたいに、呼吸している。
友樹也の背中に、冷たい汗がつうっと流れた。
「……におう」
口に出したのは自分でも意外だった。瑛大が振り向く。
「何の匂いですか」
「湿った土……と、鉄。あと、なんか、こう……腹の底が嫌になる匂い」
琉唯が鼻で息を吐いた。
「匂いで分かるなら便利だな。俺は目で見る」
「目で見ても嫌っすよ。あれ」
友樹也は指さした。窓の外。霧が柵の隙間にまとわりつくように寄ってきて、離れて、また寄ってくる。
空虹が立ち上がった。
「柵の外へは二名以上。点検は規定通り、持ち物は」
「空虹さん、ありがとうございます。規定通りにいきましょう」
瑛大は笑顔のまま、真剣な声で言った。
「光希さん、友樹也。匂いと様子を見てください。琉唯、柵の補強を見て。真由梨は木橋の印の場所を地図に。空虹さんは全体の手順を。継司は……鍵と戸締まり、お願いします」
継司が一瞬だけ目を上げた。瑛大の視線とぶつかって、慌てたように逸らす。けれど「はい」とだけ答えた。
詰所の扉を開けると、塩の匂いに混じった湿り気が顔に貼りついた。霧はまだ柵の外に留まっている。だが、留まっているだけで、もう不快だ。
友樹也は息を吸うのをためらい、代わりに口の端を上げた。
「なあ、瑛大さん。これ、笑って追い払えるやつ?」
「笑うだけじゃ無理かもしれない。でも、笑うのをやめたら、もっと入り込む」
瑛大はそう言って、柵の方へ歩き出した。足音は落ち着いている。
光希は、手袋を直しながら後ろについていく。点呼のとき、瑛大が一人ずつの目を見ていたのを思い出す。あれは、誰かの不安を見逃さないための癖だ。
柵の前まで来ると、霧の縁がふっと揺れた。まるで、こちらの顔を確かめるみたいに。
友樹也は、背筋がぞわりとした。
霧の白の奥に、黒い影が一瞬だけ走った気がした。
その瞬間、詰所の壁に貼られた古い注意書きが、風でめくれて見えた。墨のにじんだ文字。
「怒哀 注意」
友樹也の口の中が、さらに塩辛くなった。




