第71話 誰も寝てはならぬ
「本当に、いいのか?」
ルージュが真剣な眼差しを向ける。
「ええ。女に二言はないわ」
そう答えると、ルージュはふっと口元を緩めた。
「あんた、いい女だよ」
「当然よ。私はレティシア・アルジェントなんですから!」
気位高くそう宣言する。そう、自分に言い聞かせるように。この選択が正しいのかはわからない。けれど、迷っている暇はない。
「そうと決まれば、まず俺たちは明日まで確実に『天使の鏡』を守らないとな……リュカの脱走は完全に俺たちの手落ちだ。これ以上の失敗はないようにする」
ルージュが鋭い眼差しで指示を出す。しかし、本当にのままルージュに『天使の鏡』を任せるべきだろうか?
(リュカを脱出させたのは、間違いなく神……)
何度も時間が止まっていたことから、それは明らかだ。恐らく時間を止めながら物陰に潜みつつ、このアジトに忍び込みリュカを救い出したのだろう。
ならば同じ手を使って、『天使の鏡』を奪いにくる可能性もある。
ルージュたちがどれほど手練れであろうと、時間が止められる中で動けるのは私と神だけ。他の人々は、目の前で何が起きようとも知覚することすらできない。
なら、 私が自らの手で守るしかない。
「いいえ。『天使の鏡』は私が守ります」
ルージュは驚いたように私を見る。
「本気か? 確かに俺たちはリュカの件で失敗したが、これ以上は……」
「理由は詳しく言えません。でも、そちらのほうが確実に安全なの」
ルージュはしばらく考え込むと、顎に手を当てて静かに頷いた。
「……確かに、このアジトの場所も神にバレている以上、ここに留めておくのはリスクが高い。アルジェント家に運び込んだほうが厳重に警備もしやすいか」
ルージュがちらりとこちらを見る。
「そうと決まれば、すぐに『天使の鏡』を屋敷に運ぼう」
「ありがとう。私もすぐ帰って準備を整えるわ」
私は再び馬車に飛び乗り、アルジェント家の屋敷へ急いだ。
* * *
屋敷へ戻ると、私はすぐにセバスチャンに命じ、金庫室の整理をさせた。もちろん、詳細は伏せたまま、「貴重な宝物を安全に保管するため」とだけ伝える。
そして今、私は金庫室の中で『天使の鏡』の横で簡易ベッドに寝そべっていた。
石造りの部屋はひんやりとしていて、心なしか外よりも寒い。分厚い扉の向こうには、私の命令で配置した衛兵が控えているし、ルージュも見張ってくれているという。
けれど―― 彼らでは神を防げない。
時間が止められれば、私以外のすべては無力化する。それを知っているのは、世界で私と神の二人だけ。
(さて、神は『天使の鏡』を盗みに来るかしら……)
『天使の鏡』が納められた木箱の横、簡易ベッドに横たわる私は、天井の彫刻を睨みながら睡魔に抗っていた。
軍事作戦に参加し、休む暇もなく帰ってきて、さらに寝ずの番をかって出たのだ。
レティシアの肉体がいくら現実の自分よりだいぶ若いとはいえ、疲れは隠せない。瞼が重くなり、視界がぼやける。
(ちょっとだけ……目を閉じても……大丈夫よね……)
そんな甘い誘惑が頭をよぎる。
ついにまぶたが閉じかけた、その瞬間——。
金庫室の隅に置いていた置き時計が、突然、針を止めた。秒針が刻む音も消え失せる。
静寂が訪れる。
秒針の刻む音が消えた世界は、まるで命の気配を失ったように無音だった。
(来た……!)
私は息を呑み、反射的に身を起こした。その、次の瞬間。
―― ギィ……
扉が軋む音が、静寂の中で不気味に響く。ゆっくりと、しかし確実に——。
扉の向こうにいたのは、闇にたたずむプラチナブロンドの少女。
――神が、来た。