第57話 今宵、参上
「貴様……」
レオンの声が広間に響く。その一言に貴族たちは一斉に息を呑み、場の空気が凍りつく。しかし、次の瞬間、その緊張をふんわりと包み込むように、シャルロット――神が口を開く。
「まあ、なんて情熱的で素敵な詩なんでしょう」
神は紅い瞳をわずかに細め、リュカの詩を褒めたたえた。その朗らかな声はレオンの冷たい口調とはまるで対照的で、一瞬にして周囲の視線を集めた。
「私のこの紅い目が珍しいので、歌にしてくださったのですね。でも、そんな風に詩にされてしまうと、皆さまに誤解されてしまいますわ」
「誤解などでは……」
リュカが慌てて口を開こうとするが、神が無言で笑みを深めた瞬間、言葉を失った。
その微笑みは一見、誰をもほっとさせるような穏やかさを湛えていた。だが、私は知っている——その奥には圧倒的な威圧感が潜んでいることを。神を間近にしていたリュカはその重圧に押され、口を閉じたに違いない。
「私に詩を捧げていただけたのは光栄です。ですが、今夜の主役はこの素晴らしい晩餐会と皆さま方。どうか、私のことで場を乱さないで下さいますね」
神のその言葉で、張り詰めていた空気がふっと緩む。貴族たちの間に小さな安堵の笑いが広がり、場は再び穏やかなざわめきを取り戻す。私は無意識にグラスの脚を指でなぞっていた。
(一瞬でこの場を掌握し、リュカの騒動を収めてしまった……)
原作にない、予想外の状況でもこうも落ち着いて理想のシャルロットを演じてしまう。やはり、間違いなく彼女は『神』なのだろう。本当に私は、彼女に打ち勝てるのだろうか……。
「……シャルロット」
レオンの声に、私は現実に引き戻される。見ると、レオンは椅子に深く腰を掛け直し、神へ向き直っていた。その表情は先ほどと比べ、幾分か和らいでいるように見える。
「リュカとは、どこかで話をしたのか?」
「昨日、レティシア様にご紹介されて、ご挨拶だけ」
神はそう答え、私の方を向く。唇には優しい笑みが浮かんでいるが、その眼差しは妙に鋭く、背筋に冷たいものが走る。
「そうですよね、レティシア様」
「え、ええ……」
視線を逸らしたくなる衝動をこらえ、私は無理に口元をほころばせる。
レオンの碧眼が私をとらえる。その瞳には好奇心ではなく、どこか探るような光が宿っていた。
「君がこの男を紹介したのか」
「お茶会の時に、シャルロット様に王都の流行をお教えしたくて……」
(ああ……また悪役令嬢みたいなポジションになってるじゃない。いや、実際そうなんだけど!)
胸の奥に小さな苛立ちがくすぶる。神に対抗しようとすると、どうしても「恋路を邪魔する悪役」の役回りを押し付けられてしまう。まるで神の手のひらの上で躍らされているようで、もどかしい。
「とりあえずリュカ! 一旦、演奏に戻って!」
「ですが、レティシア様……」
「あとで話は聞きますから、今はお行きなさい!」
私は目配せで促す。リュカは不満げに眉をひそめたものの、リュートを抱えて演奏スペースへと戻っていった。……何度か神を名残惜し気に振り返りつつ。
再び広間には穏やかなディナーの空気が流れ始めた。銀食器が皿に触れる軽やかな音、グラスに注がれるワインの音が心地よく響く。レオンと神も、再び会話を始めていた。耳をそばだてると、どうやらレオンが辺境の文化について質問しているようだった。
(くそ、神め……。レオン攻略という観点で言うと、完全に先を行かれている)
私はワインを一口含み、グラスの縁に指を添えた。その冷たい感触が、不思議と気持ちを落ち着けてくれる。
(でも、私にはまだ切り札がある。オルディス侯爵にうまくルージュを紹介して、怪盗ルージュ対策を通じてレオンの好感度を上げるのよ! ……そういえばルージュには話がうまく進むよう、予告状を出しておいてって頼んでおたけど……)
この後のことを考えていると、にわかに廊下の方から喧騒が聞こえてくる。
(何……?)
振り向く間もなく、ホールの扉が勢いよく開け放たれた。真紅のローブが舞い、仮面で顔を隠した男が静まり返った広間に飛び込んできた。
「まさか、怪盗ルージュ?!」
誰かが、王都を騒がせる義賊の名を叫ぶ。
目にも止まらない速さで、男はオルディス侯爵のもとへと迫る。驚きで動けない私や侯爵——そして、椅子を蹴って立ち上がり、剣に手をかけるレオン。
「オルディス侯爵——刻限は2日後。夜の帳に紛れ、『天使の鏡』を頂戴しに参る」
低く響く声が静寂を切り裂き、広間の空気を一瞬で支配する。男はゆっくりと一礼し、迷いのない動作で深紅の封筒をオルディス侯爵へ差し出す。その仕草には、挑戦者らしい不敵な自信が滲んでいた。
(予告状を出してってお願いしたけど……まさかの手渡し?! 聞いてないわよ?!)