第39話 魔科学の灯
私たちは一度、小屋へと戻った。ついさっきまで剣が交わり、瓦礫が飛び交っていた戦場とは思えないほど、室内は静まり返っている。
「先ほど商人ギルドに連絡をとり、馬車を手配しました。じきに迎えが来るはずです」
傭兵隊の隊長はそれだけ報告をして、また小屋の外へと出て行った。
「さて、これからどうしましょうか」
アントワーヌとシャルロットを前に、私は問いかける。ダフネを霧の檻に閉じ込めることはできた。だが、それですべてが解決したわけではない。アントワーヌにかけられた反逆罪の疑いを晴らすため、私たちはヴァレンティス公に申し開きをしなければならなかった。しかし、そのための準備はまだ整っていない――はずだった。
「お二人さえよければ、すぐにでもヴァレンティス公の元へ行きましょう。実は夜のうちに説明の準備は整えておきました」
アントワーヌの言葉に、私は思わず目を見開いた。
「え?! 『霧の檻』を作った上に、そんなことまで……?」
「さすがに少し休んでからの方がいいのでは……」
隣でシャルロットが心配そうに口を挟むが、アントワーヌは首を横に振る。
「問題ありません。移動中、馬車で少し休めば大丈夫です」
彼の顔には迷いがなかった。すでに決めていたことなのだろう。
「そこまで言うなら仕方ありませんわね。シャルロット様、ヴァレンティス公に私たちを紹介して頂けますか?」
「はい! 必ず面会いただけるようお願いします」
シャルロットは力強く頷く。
こうして、私たちはヴァレンティス公爵邸へ向かうことになった。
* * *
荘厳な扉が開かれる。視界に広がるのは、重厚な調度品に囲まれた広々とした執務室。その奥、威厳に満ちた姿勢で椅子に座る男——ヴァレンティス公爵。
「ヴァレンティス公。本日はお忙しい中、お時間を頂きありがとうございます」
シャルロットが一歩前に出て、深く一礼する。
「他でもない我が客人、シャルロット嬢の頼みとあれば、断る理由はない」
ヴァレンティス公は微笑を浮かべ、悠々と椅子にもたれかかった。その眼差しは穏やかだが、油断できない。彼はただの温和な紳士ではなく、国家を支える大貴族なのだ。
「それで、用件は?」
「こちらにいらっしゃるアントワーヌ・ブレイユ様にかかっている疑いを、晴らしていただきたいのです」
私は一歩進み出て、まっすぐに公爵を見据える。そして、今までの経緯を詳しく説明した。
「つまり、ダフネ副団長は何らかの目的でブレイユ研究員にあらぬ疑いをかけて、不正に逮捕しようとしている……ということだろうか」
「はい、その通りです」
私が頷くと、続いてシャルロットも口を開く。
「アントワーヌ様はこの国のためを思って研究をされているんです」
「しかし、私も立場ある人間だ。何の証拠もなく、無邪気に令嬢たちの味方をすることはできない」
ヴァレンティス公の冷静な声に、私は息を呑んだ。もちろん、簡単に受け入れてくれるとは思っていなかった。だが、このままではアントワーヌの容疑は晴れない。
「ヴァレンティス公、これを見て頂けないでしょうか」
アントワーヌが懐から銀色のプレートを取り出し、机の上に置く。そして、その上にカップをそっと置いた。
——すると、カップの中の紅茶が静かに沸騰し始める。
「まさか……?」
ヴァレンティス公の目がわずかに見開かれた。
「火を用いない加熱器具の開発。まだ完全ではありませんが、これが僕の研究成果です」
紅茶はしばらくの間ぐつぐつと沸き立っていたが、やがて動きを止めた。まだ持続性には課題があるのだろう。
「この技術が完成すれば、国中の厨房設備が今より格段に安全なものになります。加熱できる温度を高めることが出来れば、金属加工の分野にも応用できるでしょう」
アントワーヌはヴァレンティス公をまっすぐに見据えながら続ける。
「僕はこの国の人々のため、この技術を研究してきました。しかし、それをすぐに証明する術はありません。ですが、この技術の有用性を訴えることはできる」
彼の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。
「この技術は必ず、この国の発展に寄与します。どうか、研究を続けさせて頂けないでしょうか」
私は隣で深く頭を下げる。
「研究への出資者として、私からもお願いいたします」
しばしの沈黙——ヴァレンティス公は指で顎をなでながら、何事か考え込んでいた。そして、ゆっくりと顔を上げる。
「君の研究の素晴らしさはよく理解できた」
やがて、彼の口元に穏やかな微笑が浮かぶ。
「私から騎士団に伝えよう。こんな有望な研究者を捕らえることは許さないと」
「……ありがとうございます!」
アントワーヌが深く頭を下げる。その姿を見ながら、私は心の奥から湧き上がる達成感を噛みしめた。
本当に……ここまで長かった。
ダフネの策謀、戦場での死闘、ヴァレンティス公の説得——すべてを乗り越え、ついに辿り着いたのだ。肩の力が抜けるのを感じながら、私はそっと目を閉じた。