第30話 砕かれた約束
アントワーヌの研究所に寄った後、私はシャルロットが滞在するアルジェント公の屋敷を訪ねていた。屋敷に到着すると使用人に案内され、応接室に通される。
応接室の壁を彩る豪華なタペストリーや重厚な額縁に収まった絵画は、この家の長い歴史と主の品格を誇示している。訪れる者は誰もがその威容に圧倒されるだろう。レティシアの屋敷も豪華だが、ここはそれを上回る荘厳さだ。何といっても、この国の王族の血を引くアルジェント公の屋敷なのだから。
今回の訪問には二つの目的がある。一つはシャルロットをアントワーヌの研究室へ案内すること。そしてもう一つの目的は――ダフネ、いや、金谷さんの提案を断ることだ。
「レティシア様!」
シャルロットの澄んだ声が通された客室に飛び込んでくる。扉の方を見ると、明るい笑顔を浮かべたシャルロットが親し気に駆け寄ってきた。その背後には、一歩下がった位置でダフネが控えている。表情はいつも通りの無表情だ。しかしその表情も、中身が金谷さんだと知ってからは、どこか意味深な表情に見えてしまう。
「使者の方から伺いましたわ。今日、アントワーヌ様をご紹介頂けるとか」
「ええ、気が早くて申し訳ないのですけど。アントワーヌ様も準備をして待っていらっしゃいますわ」
本当は、アントワーヌは『煌軌石』を迎える準備をしていると言っていたけれど……そこはあえて省略しておく。
「……アントワーヌ様が……」
シャルロットは、胸に手を当て視線を落としながら、何事かを考え込んでいる。アントワーヌとのあの最悪の出会いを思い返しているのだろうか?
「それでは早速、外出の用意をしてきますわ。少々お待ちいただけますか?」
「はい、もちろん」
シャルロットは優雅に一礼すると、準備のために応接室に隣接する部屋へと消えていった。そして、応接室には私とダフネだけが取り残される。シャルロットがいた時とは部屋の空気が一変し、張りつめた雰囲気が場を満たす。
「昨日ぶりですね、レティシアさん」
先に口を開いたのはダフネだった。その口調は穏やかだが、その表情は普段に比べてぎこちなく、緊張しているように見えた。
「ダフネ……」
彼女を目の前にしても、彼女の正体が金谷さんだとはまだ完全には信じられない。けれどこうして向き合うと、ピンと伸びた背筋や落ち着いた物腰が確かに金谷さんと重なる気がした。私は複雑な感情を抱えつつも、正面から彼女を見据えた。
「あの話は考えてくれました?」
ダフネの問いかけに、私は内心の迷いを振り払うように息を吐いた。そして一歩前に踏み出す。
「お断りします」
その一言に、ダフネの表情が僅かに歪み、冷たい視線が私を貫く。
「いいんですか。断るなら、私は今度こそ本気で貴女を妨害しますよ」
「副業だって仕事です。こんないい条件で雇ってくれる雇い主を裏切ったら……寝覚めが悪い」
私はアントワーヌの言葉を思い出しながら、決意を込めてダフネに宣言する。
その言葉を聞いて、ダフネは小さく息を吐く。そしてどこか納得したような、それでいて割り切れないような微妙な表情を浮かべる。
「そう……ですか……」
そして、ダフネはにわかに腰に下げた剣の柄へと手を伸ばす。
「何をするつもりですか?!」
ダフネの剣がわずかに動き、緊張感が一気に部屋を支配する。全身に冷たい汗が流れるような感覚が走る。廊下で控えるセバスチャンに合図をしようとしたその時、タイミング悪くシャルロットが部屋に戻ってきた。
「シャルロット様、戻って!」
私の叫びも虚しく、彼女は状況を理解できないまま足を止めてしまう。
「え? レティシア様……?」
その瞬間、ダフネの剣が閃いた。鋭い刃がシャルロットに向かって振り下ろされる。
「シャルロット!!」
私は叫び声を上げ、駆け寄ろうとした。しかし間に合わない。シャルロットの身体が崩れ落ち、手から滑り落ちた指輪が床に叩きつけられる。
そして次の瞬間、シャルロットの形見である煌軌石の指輪が、淡い光を放った直後、突然、ひとりでに砕け散った――。