第26話 通話料は負担しません
「ありがとうございます。それでは明日、改めて研究所をご案内しますわ」
「はい、是非」
シャルロットが煌軌石を譲ることに同意してくれた。私は心の中で大きく息を吐き、安堵の笑みを浮かべる。
(よし、一つ大きな山を越えたわね……アントワーヌに早くこのことを伝えてあげたい)
セバスチャンに伝令を頼もうと考えたその矢先、ダフネが口を開いた。
「シャルロット様。そろそろ屋敷に戻るお時間です」
「まあ、もうそんな時間?」
シャルロットは名残惜しそうにため息をついたが、ダフネはそれを無慈悲に遮るように頷く。その時、少し離れた場所にいたセバスチャンが耳打ちしてきた。
「屋敷の前にアルジェント公の馬車が来ているそうです」
どうやら、この場はそろそろお開きらしい。
「シャルロット様、表に馬車が来たようですわ」
「そうなんですね。もう少しお話したかったのですが……今日はこれで失礼します」
「それではまた明日。細かいことは後からご連絡いたします」
シャルロットは柔らかな笑みを浮かべて私に一礼したあと、庭園を後にした。その姿が花々の中に溶け込むように遠ざかっていく。私はその後ろ姿を見送った後、そっと紅茶に口を運ぶ。訪れた静寂が、今日の長い一日を締めくくってくれるかのようだった――のだが。
「上手くやりましたね」
しかし、想定外の声に紅茶を噴き出しそうになりながら振り向いた。そこには、シャルロットと共に退出したと思っていたダフネが、優雅に椅子に腰掛けていた。片手にはティーカップを持ち、紅茶を嗜んでいる。
「ごほっ……なんでアンタがまだここにいるのよ!」
私の怒気を含んだ声にも、ダフネは全く動じない。ティーカップを静かに置き、微かに眉を上げた。
「煌軌石、上手くやりましたね。敵ながらあっぱれ、というところでしょうか」
その一言に皮肉の響きを感じ取り、私の眉間には自然と皺が寄る。
「ずいぶんと余裕ですこと。言っておきますけど、私はアンタより一歩リードしてるんですからね。もっと必死になったらどう?」
私が挑発混じりに言い返すと、ダフネは軽く肩をすくめ、大袈裟なため息をついた。その仕草は、まるで反抗期の子供に手を焼く親のようだ。
「ずいぶんヒントを出したので、そろそろ気が付いてくれると思ったんだけど」
「ヒント? っていうかこの前の『昼休みにはブラックコーヒー』って……」
問い詰めようとする私の言葉を遮るように、ダフネは無言で白い紙切れを差し出してきた。そこに書かれていたのは、ハイフンで区切られた数字の羅列――。
「電話番号……?」
呟く私に対し、ダフネはいつもの無表情で淡々と告げた。
「この世界のものは持ち帰れないから、覚えておいて。あちらの世界に帰ったら私に電話をかけて」
彼女の意図が掴めない。紙を見つめたまま考え込む私に、ダフネは気に掛ける様子もなく立ち上がった。
「それでは、また」
それだけ告げると、彼女は庭園を後にした。残された私は、彼女の背中を見つめながら頭を巡らせる。ダフネは何故、私に電話番号を渡してきたのか……。
何か私に伝えたいことがあるなら、この世界で話せばいい。けれど、電話番号を渡してきたということは、わざわざ現実世界で伝えたいことがあるということだろうが、その内容に思い当たるものはない。
そこまで考え、はたと、私はあることに気が付く。
「……通話料、私持ちってこと?」
* * *
シャルロットとダフネが庭園を去ったあと、私は私室に戻り、煌軌石を手に入れた達成感を噛みしめていた。ダフネの渡してきた電話番号の件は気になるが、それはそれ。三週目が終わるまでにはあと4日もあるのだ。今はアントワーヌとの共同作戦が実を結んだことを喜びたい。
セバスチャンに、アントワーヌへの伝令と特上ステーキのディナーを手配してほしいと頼んでおいた。祝い事にはやはりいい肉だ。現実世界ではお目にかかれないような上質な肉の味わいを想像しながらにやけていると、ドアの方から控えめなノックの音が響いた。
「何かしら?」
「レティシア様、お食事の用意が出来ました」
ドアの向こうに問うと、部屋付きのメイドがディナーの訪れを告げる。私は意気揚々とドアノブに手をかける。
「わかった! すぐ行くわ」
しかし、ドアノブをひねった瞬間、目の前の景色が唐突に一変した。
美しい壁紙も、毛足の長い絨毯も、重厚な扉も消え去り、私は真っ白な空間の中に立ち尽くしていた。そして正面には、天使のお姉さんが申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「お姉さん? ど、どうしたんですか? 急にきらカレ世界が終わっちゃったんですけど……」
声を掛けると、彼女はさらに申し訳なさそうに目を伏せた。
「実は……緊急事態で、ゲームを一旦中止することになりました」
「緊急事態?」
「実は……ダフネさんの中の人が……」
「中の人が……?」
天使のお姉さんの深刻そうな表情に、私は緊張が高まる。しかし、その答えはなんとも緊張感に欠けるものだった。
「お腹を壊したみたいで! もう、ピーピーみたいで……!」
「はあ?! ダフネが?!」
さっきまで普通に話していたダフネを思い出す。あの状態から急激に体調が悪化したとは考えにくい。つまり……。
(……現実の私にコンタクトを取るための仮病をつかった?)
天使のお姉さんが続ける。
「なので、残念ですが今日はここで終了としたいと思います」
「えっ! 今日はこれで仕事、終わりですか?」
「ああ、でも大丈夫です! レティシアさん……もとい汐里さんは悪くないのできちんといつも通りの日当をお支払いします。それ!」
天使のお姉さんが指さし棒を軽く振り上げると、『給料袋』と書かれた茶色い封筒が空からひらひらと舞い降りてきた。手に取ると、中には日給の2万円と交通費がしっかり収められている。私は思わず顔をほころばせた。
「それと……もう一つお願いがあるんですが」
「なんですか?」
「明日、また同じ時間に今日の続きをお願いできますか? 神が是非、早く続きを観たいと言っておりまして……」
「それは……つまり、また日給がもらえるってことですか?」
天使のお姉さんはもちろん、とばかりに頷く。美味しい副業を連日できるのなら、私に断る理由はない。
「もちろん! 明日も出勤できます!」
「ありがとうございます!! とっても助かります! それでは、またあし」
「た」の音が聞こえる前に、視界が切り替わる。
私は、現実世界に戻ってきていた。マンションのエントランスに立ち、ガラス扉越しに見える街を眺める。柔らかな昼下がりの光が道行く車や人々を照らしていた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。ディスプレイには12:36と表示されていた。前に聞いた通り、きらカレ世界では3日過ごしたはずだが、現実世界ではほんの3時間ほどしか経っていない。
そのままSNSの通知を確認しようとしたその時、ふと、ダフネの言葉を思い出す。
『あちらの世界に帰ったら私に電話をかけて』
今までさんざん煮え湯を飲まされてきたダフネの言うことを聞いてやるのは癪だが、正直、彼女が何を私に伝えたがっているのかは気になる。ただ、通話料が私負担なのはやはり気に入らない。
(ワン切りでもしてやるか……)
私は、スマートフォンに暗記した電話番号を入力する。指先を通話ボタンにかけたその瞬間、この番号が既に私のスマートフォンに登録されている電話番号であることに気が付く。
「これ……金谷さんの番号?」
画面に映るのは、私の会社の上司、金谷の番号だった――。