第17話 シャンデリアの下で、束の間の幸せを
夜が更け、舞踏会の時間が近づいてきた。準備室の鏡には、ドレスを纏った私が映っている。我ながら目元はどこか不安げで、緊張を隠せていないようだった。侍女たちはそんな私の表情に気づかないふりをしながら、器用な手つきでドレスを整えていく。
今日選んだのは深紅のドレス。ジュリアンの好きな色。背中のラインにそっと添う繊細なシルエットと、スカートに施された金糸の刺繍が、私を悪役令嬢にふさわしい気高い姿に見せてくれる。
「レティシア様、本当にお美しいです。ジュリアン様もきっと……」
セバスチャンが支度を済ませた私に声をかけてくれる。私はそれに、小さく頷いて応える。
舞踏会の会場に向かうため、階段を下りる私の胸は緊張と期待で高鳴っていた。赤いドレスがスカートの裾を引きずるたび、足元で軽やかに揺れる。舞踏会ではこれまでの努力の結果が明らかになる。その瞬間が、ついに訪れる。
* * *
それから私は、セバスチャンを伴って王城に向かった。舞踏会の扉が開かれ、目の前に広がる光景に息を呑む。
高い天井から吊り下げられた巨大なシャンデリアは、無数のクリスタルに彩られ七色に輝き、ホール全体を照らしている。その光は床や壁に反射して、ホール全体がまるできらめく万華鏡のようだ。
中央のダンスフロアには、すでにたくさんの貴族たちが集まり、軽やかに踊りのステップを踏んでいる。その間を、ドレスやタキシードに身を包んだ人々が談笑しながら行き交っている。
私は人々の間をすり抜けるように歩きながら、ジュリアンの姿を探し続けた。けれど、その姿をすぐには見つけることができない。
(もしかして、まだ来てないの? それとも、もしかしてもう、シャルロットと――)
胸の奥にわずかな焦りが芽生え始めたとき、ふと視線の端にプラチナブロンドの美しい少女を捉える。シャルロットだ。あちらも私に気が付いたようで、こちらに近づいてくる。
「レティシア様、いらしていたんですね」
ブルーを基調にした清楚なドレスに身を包んだシャルロットはまるで子猫のような愛らしさだ。
「ええ、シャルロット様も」
「誰かを探していたようですけど……もしかして、ジュリアン様ですか?」
シャルロットの問いに、私は思わずぎくりとする。シャルロットはそんな私をいつも通りの優し気な眼差しで静かに見つめていた。
「ジュリアン様なら、あちらにいらっしゃいましたよ」
そう言って、彼女はテラスへ続く扉を指す。ガラス張りの扉の向こうには、宝石を散らしたような夜空が広がっていた。
(敵に塩を送るとは、さすが主人公、悪役令嬢なんて眼中にないってか?)
なんて、意地悪なことを考えながらシャルロットの表情をちらりと見ると、その目元は少しだけ赤く染まっているような気がした。そして手元には、握りしめられた見覚えのあるハンカチ。
(……シャルロットは、ジュリアンと会って泣いていた? それって……)
私はシャルロットに短く礼を言い、テラスへ足を踏み出す。告白の答えを、受け取るために。
* * *
ホールの喧騒とは打って変わって、テラスは心地よい静寂に包まれていた。淡い月明かりと、肌を撫でる冷たい空気が心地よい。
予感を感じながら、私はテラスの端をそっと覗き込む。そこには、手すりにもたれて立っているジュリアンがいた。彼の横顔は穏やかで、けれどどこか思いつめたような陰を帯びている。声をかけようとして、思わずためらう。それでもと、自分を鼓舞し、息を整えて一歩踏み出す。
ヒールの音が小さく響き、それがジュリアンの耳に届いたのだろう。彼がゆっくりとこちらを振り向いた。
「レティシア様……」
彼が私の名前を呼ぶその声はいつも通り優しい。
「ジュリアン様、こちらにいらしたんですね」
私は微笑みを浮かべながら、できるだけ落ち着いた声を出す。けれど、胸の鼓動は隠せないほど高まっていく。ジュリアンは少し驚いたような表情を浮かべると、軽く肩をすくめた。
「中は少し騒がしすぎて……静かな場所で考え事をしていました」
「考え事、ですか?」
私が尋ねると、ジュリアンは手すりに目を落とし、しばらく沈黙した。夜風が二人の間を通り抜け、冷たい空気が頬を撫でる。
「……今日、誰と踊るべきか、考えていました」
「それは、シャルロット様か私か、どちらと踊るかで悩んでいたってことですか? モテる男は辛いですわね」
私は、あえておどけて言った。ジュリアンは意外そうに眼を見開く。
「シャルロット様のこと、ご存じだったんですか?」
「女の勘ってヤツですわ」
実は陰で盗み聞きをしていたなんて言えず、適当なことを言って誤魔化してみる。
「これは……やはり、レティシア様には敵いませんね」
ジュリアンはそんな私を見て、やれやれとばかりに苦笑する。二人の間の空気が少し、緩やかになるのを感じる。
「ジュリアン様がどんな答えを選んでも……私は、それを受け止めます。ですから、答えを聞かせてくれますか?」
ジュリアンの栗色の瞳に、私が映る。永遠にも感じる時が、二人の間に流れる。
「レティシア様は不思議な方ですよね」
沈黙を破ったのはジュリアンだった。
「貴女のことをきちんと知るまでは、噂に聞く通り……言葉を選ばずに言うならば――気が強くて、わがままなご令嬢だと思っていました」
ジュリアンはそこで、いたずらっぽく笑う。私もそれに、つられて微笑む。
「まあ、流石に無礼ではなくって?」
「ああどうか、最後まで聞いてください。……でも、貴女とここ数日一緒に過ごして、考えが変わりました」
そう言って彼は、視線を遠くへ向ける。ホールから漏れる音楽が微かに聞こえる中、その言葉だけがこの静寂の中で鮮明に響いていた。私は何も言わず、ただ彼の横顔を見つめる。冷たい夜風がそっと彼の髪を揺らしている。
「振る舞いは貴族のご令嬢なのに、貴女は全く気取ることなく、私や孤児院の子供たちとも、いつも対等に接して下さいました。そしていつも何かに一生懸命で、そんな姿に次第に目が離せなくなっていたような気がします」
ジュリアンが私に向けた視線が、静かにこちらを射抜く。心の奥が熱くなるのを自覚しながらも、私は何とか表情を崩さずにいようと努める。
「あとは、何より貴女と一緒に食事をするのが楽しい!」
しかし、吹っ切れたように、朗らかに笑うジュリアンにつられ、思わず私も微笑む。
「正直、まだこれがどんな気持ちかは分かりません。でも、もう少し貴女の傍で過ごして、この気持ちが何なのか見極めていきたい」
ジュリアンはその場にひざまずき、私に手を差し出す。
「それでも良ければ私と……いや、俺と踊ってくれませんか」
頭の中で祝福の鐘が鳴り響く。つまり、つまりそれって……ジュリアンはシャルロットではなく、私を選んでくれたってこと、だろうか。信じられないような思いで、私は彼の手をとる。
「もちろん、喜んで」
私はジュリアンに手を取られ、ダンスホールに向かう。ジュリアンの手が私を優しく引き寄せ、音楽に合わせて動き出す。彼と目を合わせると、その栗色の瞳には迷いはなく、ただ私を見つめていた。幸福感が胸を満たした――その瞬間、世界が静かに暗転する。
美しい王城のダンスホールも、ひそめき合う貴族たちも、月の美しいテラスも、私に笑いかけてくれたジュリアンも、どこにもない。そして、どこからか盛大な拍手が聞こえ、暗闇の果てから緞帳が下りてくる。あまりの展開の落差に感情が付いていかないが、恐らくジュリアンの攻略が完了した、ということなのだろう。
こうして、私の悪役令嬢二周目は、燦然と輝くシャンデリアの下で幕を閉じた。