(3)
2人と別れて車に乗り込むと、快は来た道とは違う方向に車を進めて行く。
「今日は泊まる……ってことですか?」
車が走り出してしばらくすると、早速私は快に尋ねた。
「ええ……そうですね。泊まりにして、折角なんで少し観光でもしませんか」
その言葉に「えっ……」と絶句してしまった。仕事とは言え、まだ会ってしばらくしか経たないはずなのに、いきなり2人だけで泊まりになる。
その時ふと思った。先ほどの高校生の話に、彼は即座に難しいと答えた。彼は、あの高校生からある程度話を聞いてからここに来たのだろうから、難しいと断るなら、その最初の相談の時点で断れば良かった筈だ。それを敢えてここまでやって来たのはなぜだろう。
(まさか、初めから私を連れて来るのが目的では……?)
そもそもあんな健康的な高校生が「命の終わり」に近いとは到底思えない。やはり何もできないことが分かっていながらここに来たのではないか。その上、ここは新幹線の駅からも車でかなり走ってきた場所だ。送ってもらわないと私も帰れない。そう思うと、急にドキドキと胸が高鳴る気がした。私は動揺した様子を気づかれないよう、普段どおり振る舞って尋ねる。
「あの……着替えとか、ないですけど。その……ホテルも、予約しているんですか?」
「ああ、そうですね……ホテルも探さないとですね。すみませんけど、ちょっとこの辺りで探してもらえますか?」
「は? 私が?」
はい、と即答する彼に、私は思わず唖然とする。
(何よ。やっぱり何も準備してないじゃん。何なの?)
急にテンションが下がっていく。少しの間だけでもドキドキした自分が恥ずかしくなったが、滞在費用は快が出すというので、私はすぐに了承した。岡山には初めて来たし、無料の旅行だと思えば、折角なら楽しみたかった。
車は海沿いの道を進んでいく。スマホでホテルを探しながら窓の外を眺めた。道路は広くはないが、対向車も少ない。雲の隙間からは日差しも注ぎ、海岸線から見える瀬戸内海の景色がキラキラと輝いて見えていた。
「この辺りだと、倉敷の方がいいんじゃないですか。昔ながらの街並みを残している場所ですよね。ホテルもたくさんありますよ」
スマホの情報を見ながら私はそう言った。快はそれに「そうですね」と言っただけで車を走らせていく。地図を見る限り方向は倉敷の方に向かっているようなので、私はいくつか宿泊先の候補を絞り込んでいた。そのうち、その辺りの市街地に入ったようで、道路も広くなり交通量も増えてきた。看板を見ると、どうやらフェリー乗り場が近くにあるらしい。高松とか小豆島といった文字が見える。その時、快が口を開いた。
「この街に泊まりましょうか」
えっ、と思わず声が出た。
「ここに? 倉敷はもう少し先ですけど」
「ああ……。でも、何となく……この辺でも観光できそうかな、と」
「敢えて、ここに?」
確かに市街地ではあるが、フェリー乗り場はあってもあまり観光地という感じには見えなかった。あと30分も走れば倉敷市街に入るはずなので、「もう少し行きましょう」と私は言ったが、快はもう決めたらしく、通り沿いにあった新しくもない感じのビジネスホテルの前に車を停めた。受付で聞いてみると、まだ部屋は空いているらしい。「ダブルかシングルがありますが」と尋ねる従業員に、私は即答で「シングル2つ」と答えた。
(何なのよ……もう)
せっかく観光する気になっていたのに、快は勝手だ。確かに宿泊費は持ってもらうのであまり文句は言えないが、せめて岡山らしいものを食べたいと思い、ホテルに地元の名物のお勧めを聞いた。すると、その辺りでは、瀬戸内海で採れた蛸が有名だということで、お薦めの店を教えてもらい、快はそこに向かって車を走らせていく。その途中にあったチェーン店で下着とアウターの着替えを確保する。再び車に乗り込み10分ほどして目的の店に着いた。20席くらいの店内には、時間がやや早いせいか客はまだ3人ほどしかいなかった。
蛸の天ぷらや煮つけの小皿料理のほか、地元で採れた海鮮丼の小盛を2人とも注文した。ほどなく提供されたそれは、近海で獲れた海産物の新鮮さが伝わるような美味しさだった。
頼んだ料理を完食してしばらくすると、店員の中年女性が片付けに来た。
「ご満足いただけたやろか」
皿を片付けながら尋ねて来る彼女に、快は大きく頷いて応える。
「ええ。とても美味しかったです。瀬戸内海の方まで来たのは初めてですが、やっぱり何でも新鮮な感じがしますね」
「ホホホ……それは良かったわ。あんたら、新婚旅行なん?」
「えっ……いや、まあ、何て言うか……仕事みたいなもんです」
なぜか快は驚いた様子でたどたどしく答えた。
(いやいや。間違いなく仕事でしょ)
なぜ、そこに迷うことがあると思ったが、せっかく奢ってもらっているのだし、私だけが強く否定するのもどうかと思って、私も笑顔で返した。それを見て女性は笑う。
「あれまあ……何となく仲良さそうな感じじゃったから。でも、若いってええよなあ」
はあ、と私は曖昧な笑顔を返すと、再び女性が言う。
「そういえば、瀬戸大橋は見よったかな? まだなら、見ていかれえよ。夜の橋は、ライトアップしてロマンチックじゃから」
ちょっと待ってな、と言いながら女性は一度奥の方に戻ると、パンフレットのようなものを持って来た。そこに載っていた地図で橋を見下ろせる展望台のような場所を案内してくれたので、快は「ありがとうございます」と頭を下げた。
店を出てから、快が「展望台に行ってみましょうか」と言うので、私もそれに頷いた。いつの間にか日が暮れて、外は真っ暗になっている。女性に貰ったパンフレットの地図を見ながら私が案内し、山の上に向かう細い道を上がり、突き当りの駐車場に車を停めた。
車を降りて展望台の端の方まで歩いて行くと、既にカップルのような人間が何組も寄り添ってそこに立っているのが見えた。やや気まずい感じもありながらその方に進んで行くと、眼下の夜の闇の中にキラキラと点灯する橋の姿が見えてくる。橋はこちら側から瀬戸内海の島々を通りながら、向こうの四国まで続いているのだろう。真っ暗な海の上で、橋を吊り下げているケーブルに取り付けられたオレンジ色の光と、車のヘッドライトの明かりが織りなす風景は、かなり幻想的だ。
「綺麗ですね」
私は素直に感じたことを口に出した。
「そうですね。……まるで、どこか別の世界に向かって架けられたような感じですね」
私の左側に立っていた快がそう言うのを聞いて、思わずその方を振り向く。何となく、言い方がいつもと違うような気がしてドキッとした。海から吹き上げて来る風が顔を撫でていく。
「その道は不可逆的です。その美しい橋の向こうに待っているのは、幸せな世界か、残酷な世界か。それは、橋を渡ってみなければ分かりません。……しかし、僕はそれでも、その向こうにある世界を信じたいんです」
快はそう静かに言いながらその輝く橋の風景を見つめている。彼の言っていることはよく分からなかった。しかし、なぜかそれを尋ね返す気にはなれなかった。彼は隣に立っているが、なぜかその言葉は、私に話しているものではないような気がした。彼はもっと遠くを見ている。私が見えない、何か別のものを。
(快——)
彼の横顔をじっと見つめていた自分に気づいて、そこでハッとした。その時、そのすぐ向こうに立っていたカップルが、暗闇で抱き合ってキスしている姿が目についた。私は急に恥ずかしさがこみ上げる。
「い、意外と寒いですね……。そろそろ、帰りませんか?」
「ええ……そうですね」
私が呼びかけると快もこちらを向いて笑顔で頷いた。
車に乗り込み、暗い海岸沿いの道を走って行く。海の方では、船が出ているのか、よく見ると光が点々と輝いている。2人ともただ黙っていて、車内はFMのラジオから流れる声と音楽だけが流れていたが、不思議とそれに苦痛を感じなかった。
ホテルに戻り、明日の朝はロビーで待ち合わせることにした。そのホテルには大浴場があるというので、帰るとすぐにそこに向かう。中年の女性が数人いるほかに先客はなく、私は広い浴槽に完全に足を延ばしてリラックスすることができた。
浴場から上がって、ベッドに入っていると、急に眠気が襲ってきた。瞼を閉じても、そこには先ほどのライトアップされた瀬戸大橋の姿が見えるような気がしたが、それも一瞬で、すぐに眠りに落ちてしまった。