09
「今日はありがとね、リンくん」
マリちゃんは心からの感謝を微笑みに乗せた。
「やっぱり男の子は凄いね。あっという間に終わっちゃったよ」
「別に大したことないよ、あのくらい」
「大したことあるよ。わたしだったら一日かけても終わらない自信あるもん」
「マリちゃんは大げさだな」
尊敬を瞳に浮かべたマリちゃんを見ると、こちらが嬉しくなってしまう。
今日は杉宮家にお邪魔していた。遊びにきたわけではない。ノートパソコンひとつ所持していなかったマリちゃんがこの度、デスクトップパソコンを導入したのだ。設置から環境構築の手伝いに来ていた。
マリちゃんは両腕で小さなガッツポーズをした。
「これからはあのマシンで、リンくんのために一杯絵を描くね」
「ありがとう。マリちゃんにはいつも、ほんと助けられてるよ」
リンくんのために、という台詞の面映ゆさについ口端が上がってしまった。
マリちゃんは昔から絵を描くのが好きだったようだ。少なくとも僕らが出会った頃には、既にタブレットでデジタルイラストを描いていた。そうやって培ってきた腕を、僕のゲーム配信のために使ってくれているのだ。
神は細部に宿る。配信を飾る小道具の力は侮れない。そろそろ登録者数一万人に達そうとしているが、マリちゃんの力添えがあってここまで伸びたのだ。
そんなマリちゃんもそろそろ、タブレットで満足できなくなってきたらしい。本格的にデジタルイラストを描くため、今回の環境を導入したというわけだ。
「はい、おつかれさまー」
ニコニコ顔のユリちゃんが、トレイを手にしながら現れた。ダイニングテーブルで向かいあう弟妹に、コーヒーとモンブランを配膳してくれる。
「リンくんったら凄いよね。マリの部屋をあっという間に、宇宙船のコクピットみたいにしちゃって」
独特の感性を口にしながら、ユリちゃんは妹の隣に座った。自分の分で用意したのは、どうやらコーヒーだけのようだ。
「これで今日からマリも、リンくんみたいなことするんだねー」
「違う違う、お姉ちゃん。わたしは配信とかしないから」
「あれ、そうなの?」
手を振って否定するマリちゃんに、ユリちゃんは不思議そうに首を傾げる。
僕はそんなふたりの会話に口を挟む。
「あれは本格的に絵を描くために揃えた環境だよ」
「あ、そうだったんだ。てっきりリンくんと同じことやりたいから、呼んだのかと思っちゃった」
「無理無理無理無理。わたし、リンくんみたいなことできないから」
両手とかぶりをマリちゃんは振った。
目立つのが本当に苦手なのだろう。それでもマリちゃんに配信というワードを結びつけ、思いついたことがあった。
「でも、お絵かき配信とかならありなんじゃない? 雑談として完全に割り切ってさ」
「もうリンくんまで……」
マリちゃんは眉尻を下げた。
僕は更に思いついて、ポンと手を叩いた。
「それこそほら、セルフ受肉してさ」
「リンくんはわたしをどうしたいのさ」
「イラストレーターになる夢を応援したいだけだよ」
「わたしが受肉するくらいなら、リンくんにしてもらいたいよ」
「うーん……折角順調に伸びてるから、変に方針変えるのもな。一発ネタならいいけど、手間とコストがかかりすぎる」
「一発ネタでも受肉してくれるなら、わたし頑張るよ。Live2Dも覚えるからさ。あ、それこそバ美肉しようよ」
「いやー、一発ネタのために流石にそれは……」
ノリノリのマリちゃんだが、こちらとしては申し訳なさすぎる。ただでさえ好意に甘えさせてもらっているとはいえ、一発ネタのために大掛かりなやりがい搾取はしたくない。
ふとユリちゃんが、視界の端で手を上げていた。
「あのー、ちょっといい?」
「なに、ユリちゃん?」
「ふたりが口にしてる、受肉ってどういうこと?」
異国の会話を聞かされたように、ユリちゃんは不思議な顔をしている。
たしかに今の会話は、一般女子大生にとって専門過ぎたかもしれない。もっといえばオタクの会話であった。
「Vチューバーになるってことだよ。……あれ、わかるかなこれで?」
「あ、うん。わかるわかる」
口にしてから不安そうにすると、ユリちゃんはポンと手を叩いた。
「アヤが今なろうとしているものだよね」
「ユリちゃんにまで言ってたのかよ……」
呆れて肩を落としていると、マリちゃんが驚いたように手を口に当てた。
「え、アヤちゃんVチューバーになるの!?」
「ならないならない。赤スパに塗れたVチューバーを見て、これで食べていきたいと思っただけの世迷い言だよ」
「あー、なるほどー」
納得したようにマリちゃんは何度も頷いた。
「アヤちゃんは基本、浅はかだからさ」
「でもアヤちゃんなら、なんか上手くいきそうな気がするけどなー」
「マリちゃん……本人を前にして、そうやっておだてるのだけは止めてよ。絶対調子に乗るから」
「けどほら、アヤちゃん売れっ子のモデルさんだから」
「おばさんにおんぶに抱っこのね」
口にしたモンブランをコーヒーで流すと、頬杖をついた。
「今のアヤちゃんはさ、凄い恵まれた環境なんだよ。綺麗になる努力はしてるだろうけど、自分を売り出す努力はまったくしてない。そんな環境であぐらをかくのに慣れきったアヤちゃんが、一番の取り柄を隠してVチューバーで食っていく? 無理に決まってるよ」
この界隈はただ配信さえしていればいいわけではない。配信外での発信も重要である。広大な砂漠の中から、一人でも多くの人に一粒を見つけてもらう。その大事さは嫌というほど身にしみている。
売れっ子モデルのアヤちゃん。そのSNSの使い道は、アカウントに鍵をかけて今日はなになにを食べただけだ。SNSでも精力的に活動していれば、インフルエンサーになれたかもしれないのに。
配信しているだけで人が来ると思っているアヤちゃんに、Vチューバーなんて無理に決まってる。
「しかもどんなキャラでやっていこうとしたと思う? 高二のときに書いたクソ小説のキャラだよ」
「あー、あれねー」
マリちゃんは思い出したように天井を見た。あの恥知らずは、どうやらマリちゃんにも教えていたようだ。
「でもアヤちゃんは、今のキャラのままのほうが人気出るんじゃないかな?」
「今のキャラって?」
「リンくんのお姉ちゃんとしてのキャラ」
「一人称がお姉ちゃんって?」
「そうそう。アヤちゃんの弟になりたい人続出だよ、絶対」
自ら口にしたアイディアに、マリちゃんは目を輝かした。
「Vチューバー、若神子綾音。愛称はお姉ちゃん。ファンネームは弟たち。どうかな?」
「絶対アヤちゃんに提案するの止めてよ」
悪戯っぽい笑みを向けられても、こちらは苦い顔しか見せられない。
ふと、マリちゃんの笑みは消えると、
「あれ、そういえばリンくんって、最初からアヤちゃんって呼んでたっけ?」
不思議そうに首を傾げた。
「前はお姉ちゃんって呼んでたような気がするんだけど」
「あー、そうそう。昔はお姉ちゃんって呼んでくれてたのにって、アヤ、寂しがってたよ」
ユリちゃんもまた思い出したように、両手を合わせた。
お姉ちゃん。
たしかにかつて、僕はアヤちゃんをそう呼んでいた。それこそ幼いときだけではない。取り違え子であると知ってからも、しばらく呼び続けていた。
「なんでアヤのこと、お姉ちゃんって呼んであげないの?」
「よりにもよって、ユリちゃんがそれを聞くのか……」
「え?」
「あれはまさに自業自得。アヤちゃんも悪かったけど、ユリちゃんも同じくらい悪かったからね」
「えー……」
思い至るフシがないのか、ユリちゃんは狼狽えている。