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もう満足しただろう。
そう口にしたヒメに首根っこを掴まれて、カナセはエレベーターに飲み込まれていった。最後までカナセ節を喚き散らしていたが、奴にしては大人しく連行されたほうだ。
おかげでうるさいのがマリちゃんと鉢合わせることなく、その後は平和であった。
「今日はありがとね、リンくん」
その平和の表れが、マリちゃんの顔に浮かんでいた。
「マウスとキーボード、あんなに一杯あるからさ。リンくんがいなかったら、なにがいいのかわからず未だに悩んでたかも」
「大げさだな、マリちゃんは」
「大げさじゃないよ。やっぱり詳しい人が一緒にいると、心強いもん」
「ま、役にたったならよかったよ」
謙遜しすぎるとどこまでも持ち上げてくるのがマリちゃんなので、ここいらで賛辞を受け取った。
階段を下り駅構内へ入ると、たまたま時計が目に入る。今から電車に乗ると、最寄り駅につく頃には六時を過ぎるだろう。
引き際が遅くなり、責任を感じながら口にした。
「ちょっと街をぶらつくつもりが、遅くなっちゃったね」
「うん。でもそのくらい、今日は楽しかった」
「そうだね。なんだか今日は、あっという間だった」
「そういえばリンくんとふたりっきりでお出かけするの、初めてじゃない?」
「え? ……あー」
まさかと思い返してみると、ポカンと口を開いてしまった。
マリちゃんと初めて出会ってもう四年。連絡先を交換して以来、ふたりで沢山のことを話してきた。どちらかの家でふたりきりになることもあったし、高校に入ってからは一緒に下校する機会もあった。
でもふたりでこうして出かけたのは、実は初めてのことだった。
「まさかのまさかだね。どおりで今日は静かなわけだ」
「いつもはお姉ちゃんたちと一緒だもんね。特にアヤちゃんがいると賑やかだし」
「それは騒がしいって言うんだ」
「リンくんはアヤちゃんに厳しいよね。本人の前でもいつもそのくらいのこと言ってるし」
「そのくらい強気でいかなきゃ、アヤちゃんの相手なんてしてられないよ。ユリちゃんと違って、淑やかさのカケラもないから」
「ほら、またそうやって。うんうん。仲がよろしいことで」
楽しそうにマリちゃんは頷いた。
「前回はアヤちゃんが来れなかったから、次はちゃんと四人で遊びに行きたいね」
「ちゃんとアヤちゃんに言っておく」
「後、それとは別にね」
マリちゃんは買い物袋を後ろ手に回すと、前傾姿勢でこちらを見上げた。
「またこうしてふたりで遊びに行こうね」
「うん……」
息を飲みながら、表情を変えないよう全身に力を入れた。そうしなければ、頬とか口元とか、色んな表情筋が緩んでしまうから。
やっぱり僕は、どうしようもないほどにマリちゃんに惹かれている。一度心に決めたことを、つい撤回してしまいそうになるほどに。
マリちゃんの手を取って、思いの丈を差し出したい。
そんな魔が差してしまいそうになり、
「リンくん?」
不思議そうなマリちゃんの声を聞いてハッとした。
改札を抜けた先で、マリちゃんがこちらを振り返っている。
「ごめんごめん。ボーとしちゃった」
かぶりを振りながら改札を抜けた。
マリちゃんの隣に並びながら、他愛のない話を振る。盛り上がるほどではないが途切れることがない。無理して話を繋げなくていいからこそ、心地よい時間だった。
丁度電車が来たのだろう。ホームへ続く階段から、沢山の人が降りてきた。下り階段は混雑しており、足並みが揃ったひとつの集団。自分勝手なペースでこの波を下ることはできない。
僕らが足をかけているのは上りだから、手すりを隔てたこちら側はガラガラだ。その代わりふたりも並べば幅いっぱい。道を塞ぐように上るのは気が引けて、マリちゃんの後ろをついていく。
後に続くせっかちのために作った合間を勘違いしたのか。駆け足で逆走してくる男の肩が、すれ違い様にマリちゃんにぶつかった。
「きゃっ!」
両手で買い物袋を持っていたマリちゃんは、咄嗟に手すりを掴むことはできなかった。よろめいた後ろ足は宙を踏み抜いて、僕に向かって倒れ込んできた。
左手で手すりを掴んで、マリちゃんを抱きとめる。腕の中からこぼれ落ちないように、その身体を右手で強く掴んだ。
「だ、大丈夫、マリちゃん?」
「あ、うん。ありがとう」
身に降りかかったことにびっくりしながら、マリちゃんは口にした。
肩越しに振り返るも、ぶつかってきた男の背中はもう見えない。ちょっと肩がぶつかったくらいにしか、きっと思っていないのだろう。
「まったく……危ないなほんとに。ぶつかっておいて、一言もなしかよ」
「ほんとだね。びっくりしちゃっ――」
ふと、マリちゃんの声は止まった。別なことに気を取られて、言葉を失ってしまったかのように。
どうしたのだろうか。
「あ……」
咄嗟のことで失った冷静さを取り戻し、それに気づいた。
一段上で体勢を立て直したマリちゃん。未だ僕はその身体を抱きとめたまま。それだけではない。こぼれ落ちないよう伸ばした手が、マリちゃんの右胸部、胸を掴む形になっていた。
それに気づいた瞬間、
「ご、ごめん!」
叫びながら手を離した。
「そういうつもりじゃ、なかったんだけど……咄嗟に、その」
「だ、大丈夫……わかってる……リンくん、助けてくれた」
今にも消え入りそうな声で、マリちゃんはロボットのように呟いた。横顔を見られまいと逸らされるも、その耳は真っ赤である。
掴んでいたものをたしかめるように、思わず右手に目を落とす。
胸の更に奥底から込み上げてくる熱。顔が熱くなるのを感じた。
仕方ないとはいえ、想い人の胸を掴んでしまった。忘れなければいけないのに、その感触を捨てようとするほど鮮明に蘇ってくる。
まさに煩悩。思春期男子が覚えるには、一周回って健全な感情なのかもしれない。
でも、最近この手に掴んでしまった感触。それが遅れて蘇ってくると、一度は込み上がった熱は冷めていくように引いていった。
アヤちゃんの顔が脳裏をよぎる。
改めてマリちゃんへの想いに後ろめたさを感じたのだ。