動き出す運命2
「いて!」と声を上げた。
落ちたと思えば意外と浅く、すぐに地面の衝撃を感じた。
それでも勢いよくうった腰は痛く、そこを擦りながら上を見上げた。
落ちたのだからそこには崖があると思った。
けれども見上げればそこには何も無く、下は普通の地面で、周りを見渡せばそこは先程いた場所とは明らかに違っていた。
燃え盛る木々も桃花様もそこにはなく、あるのは立ち込める霧と目の前にある大きな川と赤く長い橋だけだった。
呆然と見つめる橋は霧で覆い尽くされていてよく見えないが、どこまでも続いているようだった。
そのまま、ぼうっと橋を見つめていれば「おい!」と野太い声がかけられる。驚きながらそちらを振り返ればギョッとした。
一瞬化け物だと思った。けれどもよく見れば、赤い天狗の面を被った男だった。鈴懸を身にまとい、片手には錫杖と高下駄を履いている、恐らく人間の男がそこにいた。
天狗の面の男は立ったままこちらを威圧的に見下ろしていた。
「ここで何をしている」
そう聞かれても暁風にもよく分からなかった。
何故ここにいるのか。桃花に突き飛ばされて気づけばここにいた。
それをどう伝えたらいいものかと悩む。
けれども、黙りの暁風にだんだん苛立ってきたのか男は「おい!」と催促してきた。
仕方がないと正直に話すことにした。
「その、俺もよくわからなくて、桃花様に天命を終えたからと突き飛ばされて、気づいたらここにいたんです」
正直に全て話せば、意外と話のわかる相手のようで「ふむ、そうか」と納得していた。
寧ろ、暁風の方がこんなこんな説明で相手の男が納得するのかが分からない。
怪訝に男を見上げれば、先程よりもいくらか落ち着いた様子で男が口を開く。
「あいわかった。けれども、こちらにまだ知らせは届いておらぬ。暫しここで待て」
男はそう言って錫杖を鳴らす。
暁風は首を傾げる。知らせとは天命の話だろうか。
けれども、桃花様は知らせが届いたと言っていた。
一体、知らせとは何なのか。
全く意味がわからずに、ただそこに座り込む他なかった。
そうして落ち着いて思い返せば、山の火事はどうなったのだろうかとようやく気になった。
ここから当たりを見回してもどこかで火事が起きている気配はない。
あの山からよっぽど離れた場所なのか、ここはあの世界とは違う世界なのかよく分からない。
ただ、もうあの場所に自力で行くことは出来ないのだろうと思った。桃花からはっきりと言われた拒絶の言葉。
あれは本当にそのままの意味なのだと思う。
天命を終えた俺は、もうあの山との関わりを完全に絶たれた。唯一繋がりがあったものが失われれば、本当に関係の無いものになるのだと。
そう思えば気も楽になった。関係の無いのなら深く考える必要は無い。もう俺には関係の無いことなのだから。
そうして時間が経つのを待てば、バタバタと足音が聞こえた。そちらに目をやれば橋の向こうから同じ天狗の面をした別の男がこちらに走ってきていた。
焦った様子のその男は、最初からここにいたもう一人の男に何事かを伝えて、何やら話を聞いたもう一人の男も焦った様子になれば、2人で駆け足で橋の向こうへと消えていった。
何だと思いながら、暁風は橋の手前で1人取り残されることとなった。
そうして大人しく待つことにしたのだが、このタイミングでのあの2人の焦りように嫌な予感がした。
もしかしたら桃花様の身に何かあったのだろうか。
むしろ、それ以外に考えられない。
自分には関係ないと大人しく待とうとしても、身体はソワソワして落ち着かない。
あの火事がそう簡単に収まるはずがない。しかも、それを彼女1人で何とかできるのだろうか。いや、桃花様なら特別な力があるのだから何とかできるはずだ。心配ない。でも、もし…。
嫌な想像は恐ろしい程に思い浮かんでいく。
もしも、ここで大人しくしていて、本当に俺は後悔しないのだろうか。
もう、後は死ぬだけで、簡単にこんな出来事すぐに忘れ去れるとして、本当に俺はこの生を全うしたと、俺自身の天命に納得できるのか。
いや、今の俺は必ず後悔する。
気がつけば橋とは反対の道を駆け出していた。
この道が桃花様の元に続いているとは限らないはずなのに、ただ真っ直ぐに迷わずに駆けていた。
霧の立ち込める暗い道を、ただひらすらに走り続ける。
目指すのはあの山。緑と桃の色が溶け合う、美しく幸せな景色。そして桃色の衣を纏い、気だるげに煙管を吹かす彼女の姿…。
穏やかで、特別な、帰りたいと願う場所。
走り続ければ、目先には崖があった。暁風は勢いをつけて迷わずに飛び込む。
もちろん崖の下は暗闇だ。
何も無いそこは、ただ落ちていく。
けれども、願った。あの場所に帰りたいと。
目を強くつぶれば、ふわりとした感覚の中でほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
そして、強く地面に叩きつけられる感覚。
身体の節々に痛みを感じて、呻きながらも何とか起き上がった。
そして視線をあげれば、焼け焦げた木々の残骸が一面に広がっていた。
変わり果てた姿になってしまっていてもあの場所に戻ったのだとわかった。
そしてまだ先程まで炎が広がっていたのだとわかるほど、焦げ臭い匂いが強く、肌にも熱さが伝わってきた。
キョロキョロ周りを見渡して、彼女の姿を探した。
歩を進めながら慎重に辺りを見渡せば、そこには1人鮮やかな桃色の衣を纏う、少女の姿があった。
憂うように彼女は静かに、焼け焦げた木を見つめていた。
彼女の頬にポツリと雫が滴る。それは、暁風の肩にも降り注いだ。
空から降る雨はポツリポツリと降り出して焼け焦げた大地に降り注いでいく。
「…桃花様」
そう声をかけて近づいていく。
彼女はこちらを振り返った。その顔は無表情で、驚いている様子はなかったが「シャファ、ン?」と発せられた声は動揺を含んでいて、小さく小首を傾げた彼女はまるで迷子の子供のようだった。
今の彼女を1人にしてはいけないと瞬時に理解した。
直ぐにでも壊れてしまいそうな、危うさを感じて、彼女の両手をそっと握る。
雨で冷たくなった両手を温めるように握りながら、彼女を見つめる。虚ろでいつものような覇気が感じられない。
暁風はそのまま壊れ物でも扱うかのようにそっと抱き寄せた。
冷たくなってしまった彼女を温めるようにして抱きしめる。
「大丈夫です。俺が、傍にいますから」
今の彼女に自分の言葉が届いているかは分からなかった。
ただ、自分も彼女に助けて貰ったように、自分も彼女の助けになりたかった。
ゆっくりと抱き寄せた身体を離して、そうしてそっと彼女の唇に触れた。
労わるように、優しく触れる。
瑞々しい清らかさを感じれば、そっと唇を解いてゆっくりと身体も離した。
そして彼女を見つめれば、表情は変わらなかったが、呆然とした様子で唇を指先で触っていた。
「シャファン?」
暁風はじっと桃花を見つめてから口を開く。
「俺は、例え天命がなくたって、あなたとあなたの大切なものを守ります。それが、俺自身の決めた運命です」
じっとこちらを見つめる桃花は、次第に唇の端を上げて寂しげに微笑んだ。
「ふふ、あなたらしいわね」
雨はシトシトと降り注いでいて、けれども優しく2人に降り注いでいた。
桃花は静かに微笑んで、そっと焼け焦げた景色へと視線を移す。暁風も同じように視線をそちらに向けた。
雨はシトシトと木々を濡らしている。
まるでそこだけ時間が止まってしまったかのように、景色は動かない。
いつも、サワサワと音を立てて優しく降り注いでいた葉や花たちはもうそこにはなかった。
どんなに暁風が守ろうとしても、特別な力を持ち得ない彼には、もはやこの状況はどうにもすることが出来ない。
ただ2人その場に立ち尽くして、雨の音だけを聞いていた。
次第にその雨も止み、夜風と雨の冷たさだけがそこに残る。
どちらとも口を開かずにただ立ち尽くす。
そろそろ身体を休めた方がいいだろうと桃花に口を開こうとすれば、彼女は懐から短剣を取り出すとおもむろに、反対の手のひらをスっと傷つけた。暁風が驚く間に、ゆっくりと自分の右手を口元に運びフーと息をふきかけた。
そうして桃花が吹きかければ、荒れ果てた木々が次第に元の美しい景色へと戻っていく。
暁風が驚きに目を見張れば、あっという間に元の美しい緑と桃の花が混ざりまう、幻想的な景色へと蘇っていた。
唖然とその光景を見つめる。
そこは確かに暁風が見知った景色だった。
景色も空気も香りも何もかも元通りになっていた。
「元に、戻ったんですか?」
「失った物は、元には戻らないわ」
え?と驚きながら桃花を見つめる。
「なら、何で...」
「一度失ってしまったものは永遠に戻らないわ。それが、世の理だから」
真剣な表情で彼女は言う。
「ただ、今生き残っている運命だけ、繋ぎ合わせたの」
もう一度景色を見渡す。
暁風に細かい違いなんて分からない。
けれども、確かにどこか歪で、足りない気がした。何がと聞かれても分からない。桃花の話を聞いて、ただそう感じただけだから。
彼女がそっと目の前の木々を撫でる。
その横顔は寂しげで、労わるように木々を撫でる動作は、何かに謝っているようにも見えた。