俺の天明6
__________また、血の雨だ
頬を赤い雨が伝う。
空を見上げれば、曇天の空に暗雲が立ち込めていた。
どこか遠くで雷が鳴っている。
足元に視線を戻せばいつもと同じ、屍達が死屍累々として転がっている。
何も話さないし、微動だにさえしない。
ただ、雨だけが降り続く。
雨音に耳を澄ますと、声が聞こえてきた。
何やらザワザワと煩く、叫び声のようにも聞こえてくる。
有象無象とした声が徐々に頭に響いてくる。
暁風は必死に耳を抑えて聞こえないようにした。
すると、いきなりはっと驚いたように足元に視線を向けた。
そうして、怯えた表情で足元の屍を見つめる。
赤い血溜まりに紫の着物を着た、おかっぱ髪の女の子が、虚ろな目をしてこちらを見つめていた。
唐突に声が聞こえた。
『お兄ちゃん、助けて』
暁風は引き攣った声を上げる。
口は動かないし、動きさえしないのに声だけが聞こえる。
耳を必死に抑えて目を閉じても、声は聞こえてくる。
有象無象の声は止むことなく、暴風雨となって頭に響き渡っていた。
気がつくと、外を歩いていた。
汗をかいた体に、ひんやりとした夜風が吹いた。
結んでいない長髪が夜風で煽られる。
何処かで聞こえた野太い叫び声が頭の中でこだましていた。
それが、誰の叫び声かは覚えていない。
足元の草をザクザクと踏み歩きながら、しばらくして空を見上げた。
夜空には満天の星空が輝き、今まで雲で隠れていた月が顔を出す。
それと共に月明かりに照らされて、瑞々しく実った桃が姿を現した。
暁風はその、手の届く距離にある桃に引き寄せられるように手を伸ばした。
ぼんやりとした状態のままそっと桃に触れ、そのまま実を摘もうと、グッと桃に手をかけた。
「それだけはしてはいけないわ」
唐突に声がした。
澄んだ声が胸にスっと入ってくる。
暁風は、はっとして手を離し、後ろを振り返る。
声のした方を見れば、月明かりに照らされた桃花が、そこに佇んでいた。
やんわりとした光に照らされる桃花は、幽霊のように儚げで、どことなく恐ろしく感じた。
桃花の姿を認めると、何だか自分が悪いことをしていた気になった。
桃花の表情はいつもと変わらないはずなのに、怒っているように感じられる。
暁風は、気まずげに足元に視線を落とした。
そして徐々に、ぐったりとするように、ズルズルと木の根元に崩れ落ちた。
立てた膝の上に額を押し付け、口を開く。
「もう疲れました。生きることに」
声には覇気が無かったが、静かな夜の山では良く聞こえた。
そうして、ぽつりぽつりと零すように話し出す。
「俺、妹がいたんです。父さんも母さんもいて、きっと、あれが幸せだったんです」
思い出すのは、自分が幼い時の記憶。
それは暁風にとってかけがえ無い記憶で、どれだけ時間が経っても、絶対に忘れない大切な思い出だった。
けれど、それと同時に思い出すのは辛い記憶だった。
「でも、あの日、野盗が家族を襲ったんだ。俺はその日のその時だけ、偶然、家にいなかったんだ。家へ戻ったら、もうそこは知らない景色で、妹が、鈴風が、外で死んでたんだ」
鮮明に思い出す。血溜まりの中に妹がいた。
動かずに、ぐったりとして、
「虚ろな目をこっちに向けて、青白くて、冷たくて」
赤く小さい口から、
「『お兄ちゃん助けて』って」
暁風は、怯えたように縮こまる。
「暁風、それは幻聴よ」
桃花はそっと口を開く。
「幻聴なんかじゃない。ずっと、ずっと…」
耳に残る声は妹の声だった。
苦しげで、死にそうで、必死に縋るような声だった。
鈴風を助けたかった。寂しがり屋で甘えん坊なたった1人の大切な妹なのに、妹へ伸ばした手は空を切ったように掴めなかった。
暁風はまた、ぐったりとした様子で口を開く。
「その後も、俺、その野盗共に捕まって売っぱらわれて、どっかの金持ちの奴隷になったんだ」
家族を失い、生きる気力もなくなって、もう目の前が真っ暗になっていた。
そんなとき出会ったのがあいつらだった。
「そこには俺と歳の近い奴らが居て、そいつらと一緒に頑張ったんだ、生きるために。どんなに酷い扱いをされたって」
そこにいる奴らの事情は色々だったけど、互いが互いを頼りにした。
それを生きる糧にして。
「でも、結局はみんな、死んだんだ。戦の道具として駆り出されて、戦場のど真ん中で、周りでどんどん仲間が死んでいって」
訳が分からないまま、戦地の真ん中に立たされた。
武器を持たされ、向かってくる敵を倒せと言われた。
そうして、俺たちは捨て駒となって無惨にも殺された。
戦う隣で仲間が一人、また一人と減り、そうして俺も______________
「俺もその戦で死んだんだ。ほんと、犬死ってやつ」
死ぬ時は呆気なかった。
どうすることも出来なくて、砂埃と臭気と怒号が響いて、身体中が痛くて、苦しくて。
隣を見たら、死んだ仲間の顔があった。
最後に自分が叫んだのかもわからなかった。
もう何も聞こえなかった____________
ぐったりと項垂れた様子で暁風は蹲っていた。
微動だにさえせず、まるで魂の抜けた人形のようだった。
桃花が傍に寄ろうとも、まるで反応がなかった。
桃花はそのまま片膝をおり、暁風の傍でしゃがみ込む。
そして、暁風に語り掛けるように口を開いた。
「助けてあげたんでしょ?小さい男の子を。戦に行くとなって震えていた男の子の、身代わりになってあげたんでしょ?」
桃花はそう口にした。
_________そういえば、そうだった。
俺は元々、戦に行く日は別の仕事を任されていた。
けれど、戦に行くとなった時、その中でも1番小さくて、か弱い男の子が身体を震わせて泣いていたのだ。
どうしようもなくて、その姿が痛ましくて、代わってあげたのだ。
自分が戦に行くと、この子の代わりに。
桃花が立ち上がった。
そうして、歩きながら口を開く。
「運命はね、確かに決まっているの。生まれた時から誰しも。
運命は幾重にも連なって_________」
そう言って立ち止まると、右足でトンと地面を叩いた。
「枝分かれしている」
すると、桃花が地面を蹴ったところから、木の根が光だし、地面に幾重にも広がった木の根が光り輝いて伸びていく。
まるで地面が透明に透けたかのように、根っこだけが光っていた。
暁風は、驚いたように顔を上げ、周りをみわたす。
「こうやって、沢山の運命は寄り集まって重なり合ってできているの、そして」
そうしてまた、桃花は歩き出し、1本の木の前で立ち止まる。
木の幹を撫でながら口を開く。
「天命を果たして、魂が熟した時、初めて」
幹を撫でた手をそっと、上へ差し出す。
「身が落ちるのよ」
何かがぽとりと桃花の手に落ちた。
桃花の手を落ちてきたのは桃だった。
熟れた桃を口元へ運び、それを口に含む。
ゴクリと飲み込み、そっと口を開く。
「天命は確かに決まっていて、どんな運命を辿っても、必ずそこへ行き着くようにできている。それは、時に残酷で、抗うことも出来ない」
桃花がこちらの目をじっと見つめる。
暁風はその目をそらすことが出来ず、同じように見つめ返した。
そうして、こちらへ歩を進めながら話を続ける。
「決まった運命は変わらない。けれど、変えようとする事はできる」
桃花は暁風の元に屈みこむ。
「それは、とても勇気がいることで、簡単なことでは無いかもしれない。でも、それを乗り越えた魂は気高く、きっと美しいのだと思うわ」
そう言って暁風の目を覗き込み、そっと微笑む。
その目はとても優しくて、慈しむように柔らかで、温かかった。
暁風は何かがこみ上げそうになり、思わず泣きそうになって下を向く。
「……でも、でも俺は、妹を助けることが出来なかった」
そう、妹は助けられなかった。
“助けて“と、“お兄ちゃん“と呼んでいたのに、あの血溜まりの中で。
手を伸ばしたのに__________
「助けてあげられたでしょ、その時は」
「え?」と声を上げ桃花を見つめる。
「『お兄ちゃん助けて』と言われたのは、あなたの妹が誤って川へ落ちてしまった時でしょ」
そう言われて、思い出したのは幼い時の記憶。
野盗に襲われるよりもずっと前。
妹と2人で川辺で遊んでいた時だった。
鈴風がうっかり川で足を滑らせ溺れたのだ。
すぐ側にいたはずの妹がドボンと音を立て姿を消し、次に顔を出した時に必死な声で「お兄ちゃん助けて」と言ったのだ。
俺は慌てて手を伸ばし、鈴風の手を掴もうとしたが、その手は虚しくも空を切った。
手を掴めなかった俺は、咄嗟に川に飛び込んだ。
激しい川の流れの中、必死に妹の側へ行き、抱きしめることが出来たが、川から出ることは出来なかった。
そのまま川の勢いに流され、もうダメだと思った時、偶然にも暁風の服が、川岸から生えた枝に引っかかったのだ。
暁風は何とかその枝にしがみつき、ぐったりとした鈴風を抱き抱えながら、命からがら岸辺へと上がったのだ。
その後の記憶は曖昧だが、確か、偶然近くにいた人達に助けて貰って事なきを得ることが出来たのだ。
「だから、あなたはちゃんと妹を救うことが出来たのよ」
そう、桃花は諭すように話す。
暁風は、まるで迷子の子供のような、戸惑った顔で口を開く。
「でも、それは子供の時の話で……」
「そうね、それは前の時の話。けれど、確かにあなたは2人の命を救ったことに変わりないのよ」
そう言って桃花は暁風の手を握ると何かをそっと持たせた。
「それに、あなたのそばにいる時の妹も、家族も仲間も、みんな笑顔だったでしょ」
そう言われ思い出したのは、妹や家族、仲間たちの笑った姿だった。
もちろん、辛い人生だった。
忘れられないのは、みんなが死んでしまった時の記憶だ。
死んだ時も呆気なくて、決して幸福ではない。
それでも、そんな人生でも、確かな幸せがあった。
みんなが笑顔でいられる、その幸せのために、必死に生きた。
そっと手元の物に目をやる。
桃花が持たせたそれは桃だった。
手にある桃はじんわりと温かく、熱を帯びている。
思わず頬を涙が伝う。
ぽつりぽつりと零れる涙は、手に持つ桃に零れ、滴り落ちる。
桃花は、とめどなく流れる涙をそっと拭った。
「前に言ったでしょう。だから人は涙を流すんだって」
桃花は、フッと笑みをこぼす。
「雨が悪い気を浄化するように、涙も魂を浄化する」
桃花は、暁風の持つ桃ごと両手で包み込む。
「雨が止んで、雲が晴れたら、必ず陽が姿を出す」
暁風は、空を見上げる。
夜が明け、朝焼けの光が薄暗かった雲を明るくし、景色の造形を形作る。
山間から徐々に顔を出した陽は、上っていき、天から地へ降り注いだ。
思わず目を瞑り、そうして目を開け、手で覆う。
その陽はあまりにも眩しく、そして温かかった。
じんわりとするその温かさは、今、手に持つ桃と、まるで桃花様のようだった。
その温かさが胸にじんわりと広がっていく。
「桃花様、俺、俺……天命が下るまで、生きたいです。生きても、いいですか?」
桃花はそっと微笑んだ。
太陽の陽を背負う桃花は、神々しく、まるで仏のようだった。
太陽はあっという間に上りきったり、地上を照らし出す。眩しい光はあっという間に、辺り一面を鮮やかに彩った。