俺の天明5
雨は次の日には止んでいたが、曇天の空は相変わらずで、雲翳の空に暗澹とした雲が動いていた。
とりあえずは雨も止んだため、今日はいつもと同じように仕事をした。
暁風は昨夜の夢見が悪かったのと、どんよりとした天気も相まって、あまり調子が芳しくなかった。
周りで一緒に働く兎達もあんまり調子は良くないらしく、烏兎に聞けば雨、というか水があまり好きではないらしく、ジメジメしていて嫌なのだとか。
あと、『最近の桃の味もなぁ、鮮度というか瑞々しさがないんだよなぁ』らしい。
桃の味に関しては兎と桃花にしか分からないことなので、聞いた事をそのまま鵜呑みにする事にした。
ただ、味のことで気落ちするのは烏兎だけなろうなぁとは思った。
まあ、兎にも角にも、調子が悪くとも五体満足に動くのなら仕事の内容が変わる訳では無いので、いつものように籠に桃を詰めて桃花の所へ届ける。
家へ戻ればいつもと変わらず、桃花が長椅子で煙管を吹かしている。
「ただいま帰りました」と言って、籠を桃花の傍に下ろすために近寄る。
ゆっくりと肩から籠を下ろした。
その間、桃花はじっと暁風の顔を見つめていた。
そうして口を開くと、「どうかしたの?」と言って、暁風の頬に触れようと右手を伸ばした。
思わず、暁風はそれを避けようと咄嗟に身体を後ろに引いてしまった。
その際、桃花が右手に持ったままだった煙管が手から滑り落ち、床にカランカランと音をたてて落ちていった。
暁風は気まずげに桃花の表情をちらりと見れば、桃花は少しばかり目を見張るような驚いた表情をしていた。
暁風は直ぐに目を逸らし、バツの悪い表情を浮かべる。
桃花の手を避けたのはほとんど故意だった。
実は、今日1日、暁風はずっと桃花と目が合うことを避けていた。
何と言うか、今は桃花と目を合わせたくなかのだ。
桃花のあの見透かすような目で見つめられたくも、触れられたくもなかった。
普段から桃花がこちらを向かない限り目を合わせて話すようなことは無いのだが、今日は暁風の方から意図的に合わせないようにしていたのだ。
なぜ、桃花の目を見れないのか自分でもよく分からなかったが、原因は分かっていた。
あの夢を見たからだ。
しかし、それは自分の問題であって桃花に一切の非が無いことだと分かってはいた。
ただ、これ以上触れても欲しくなく、地面を見つめながら直ぐに「すみませんでした」とだけ謝った。
桃花はゆったりと、寝そべっていた体勢から上体を起こした。
暁風はその間もずっと床の方を向いていたため、桃花の衣擦れの音だけを聞いて様子を伺っていた。
長椅子に腰かけた桃花は、腰を屈めて床に転がった煙管を拾う。
「私の方こそごめんなさい。不用意に触れようとしたわ」
桃花は拾った煙管の模様をなぞるように、撫でながらそう言った。
その口調はとても落ち着いていて、怒ることも咎めることもしなかった。
「いえ、俺のことは気にしなくても大丈夫ですので」
暁風はそう言って姿勢を直すと、桃花から距離をとるように後ろへと下がる。
桃花はため息でもつきたような表情だったが、何も言わず、籠の桃へと手を伸ばした。
そうしていつものように桃を食す。
二人の間に気まずげな、なんとも言えない空気が流れていた。
いつもの暁風なら、桃花が食事中の時は邪魔にならないよう、部屋の隅に立って桃を食べ終わるのをじっと、黙って待っていた。
けれど今日は不用意に口を開いた。
「俺の天命はまだですか?」
桃花は咀嚼した桃をゴクンと嚥下する。
数分の沈黙の後、桃花が口を開いた。
「まだその知らせはないわ」
暁風の中に自分では抑えきれないような、忿懣とした気持ちが渦巻いていた。
「俺は、俺は何時になれば消えることができるんですか」
暁風にも何故こんな言葉が吐き出されるのか分からない。
ただ、堰き止めていた何かが崩れていくように言葉が止まらなかった。
「天明ってなんなんですか?俺が天命を終えることができていないなら、死んだ妹や家族や、仲間たちも同じようにこの世界にいるんですか?」
思い出すのは、あの夢の中の屍たちだった。
妹だけじゃない、家族も、死んでしまった仲間達も悲惨な運命を辿って行った。
そして俺も同じように死んだ。
しかし、いまだに天命を果たせず、今もなお死後の世界へ行けない。
ずっと疑問に思っていたことがある。他の死んだ人達は何処にいるのか。
もし仮に、現世の世界で天命を終え、死後の世界へ行けているのなら、つまり_________
そんな暁風の問いに対して桃花は静謐な様子だった。
凪いだ視線がそっとこちらを向く。
「いいえ、居ないわ。彼らは天命を終えたから、恐らく、死後の世界へ行くことが出来たはずよ」
桃花の答えに、暁風はしばらく沈黙したあと乾いた笑い声を零した。
「それじゃあ、俺以外の奴らは、みんな、ああやって死ぬ運命だったってことですね」
桃花は暁風の質問に対して沈黙で答えた。
暁風は桃花から返答が無いことを感じ取って、もうこれ以上話すことはないと悟った。
「分かりました。桃、もう運んでもいいですか」
暁風は桃花の返答を聞く前に籠を引き上げる。
暁風の態度は普段と比べて明らかに粗暴だった。けれど、それに対して桃花は何も文句を言わなかった。
桃花はただ、静かだった。
桃花は、暁風が扉を開けようとした時にようやく口を開いた。
「暁風、初めて会った時に伝えた言葉、忘れないでね」
暁風はその言葉に一瞬動きを止めたが、何も反応を返すことなく家を後にした。
籠を背負った暁風はいつものように川へと向かう。
川へつき、いつものように川へ桃を流す作業をする。
背負っていた籠を下ろし、桃を川へと放った。
ボチャボチャと桃が川へ落ちる中、いつもより乱雑にひっくり返したせいか桃が一つ岸辺に転がった。
コロコロと暁風の足元に転がる。
暁風は足元に転がった桃を見つめた。
どうにも拾って流す気にはなれず、何だかむしゃくしゃした気持ちのまま、そのまま桃を足で蹴り飛ばした。
蹴られた桃は、勢いよく川へドボンと落ちて、流れていく。
蹴った後に何となく罪悪感が残ったが深く考えないことにした。
だって所詮はただの桃だ。