俺の天明4
今日は朝から雨が降っていた。
この世界でも極稀に雨が降る。
雨が降ると、桃花様は無理に仕事をさせずに休んでいいと言う。
そのため、雨の日は何もせずに家に篭もる。
しかし、そうは言っても特にやることは無い。
休めと言われても寝る以外に思いつくことはなく、だからといって眠くもないのに寝るのは拷問に近い。
桃花は雨が降ってもいつもと変わらず、気だるげに長椅子に寝そべり右手に持った煙管を吹かす。
そのため、暁風はとりあえず桃花の邪魔にならない場所で椅子に座りお茶を飲んでいた。
シトシトと垂れる雨。窓から除く桃の木からも、葉っぱを揺らして雨が滴っている。
静かな部屋に雨音だけが響き渡る。
「雨、止まないですね」
と、何となく世間話をもちかける。
桃花は煙管を吹かしながら、「そうねぇ」と返した。
また、話すことがなくなり、雨音と暁風のお茶を啜る音だけが部屋に響く。
「雨にはね、浄化の力があるの」
桃花はそんな事を口にする。
「浄化、ですか?」
「そう、雨は邪な気を祓うの。
悪い方へと傾けば、元に戻るように収束していく。世の中が均衡を保つように、力が働くのよ」
暁風は「へぇ」と相槌を打つ。
「つまり、今はその邪な気?ていうのが充満している状態ってことですか?」
桃花は煙管を吹かして、「そういう事ね」と返答した。
普段生活していて、特に変な感じはしなかったけれど、もしかしたら、気づかないだけで悪い空気が溜まっていたのかもしれない。
「全然、気づきませんでした。その邪な気が溜まるとどうなるんですか?」
と聞くと、桃花は「さあ?」と首を傾げる。
「でも、良くないことになるわ」
「さあ?」と言って首を傾げた割には確信的な言い方だった。
「何においても均衡が大事なのよ。どちらか一方に傾くのは良くないの」
暁風の不思議そうな顔を見てそう答えた。
(つまりは、邪な空気に傾くのも良くないし、清浄な空気になりすぎても良くないということか)
「まぁ、ひとつ言うことがあるとすれば、邪気は人間が生み出すものなのよ」
暁風は、目をぱちくりさせる。
人間が生み出している。
今いるこの世界には人は存在していない。
いるのは人であった存在だ。
この世に人間がいる世界は現世の世界だけ。
「つまり現世の世界で、その邪気が溜まっているってことですか?」
桃花はまた、煙管を吹かして「そうねぇ」と返す。
「邪気は、どうやって生まれるんですか?」
そう聞くと、桃花は少し悩まし気な表情を浮かべた。
「仕方の無いものなのよ。誰も、望んだわけではない。でも、全ての幸不幸は裏表。縄をより合わせたように絡み合っているの」
そう言いながら桃花は縄を組み合わせていく動作をする。そうして、紐を解くようにように手を離し、「そういうものだから」 といった。
暁風は、桃花の言葉を上手く呑み込めずに首を傾げてしまう。
(良い事があるから悪い事も起きるということか?でも、それっておかしくないか?)
よく分からず眉をひそめた。
「黒があるから白がある。太陽があるから影ができる。そして、その逆も同じことが言える」
桃花にそう説明されたがピンと来ず、暁風は「うーん」と顔を顰めた。
「つまり、悪い気が流れると良い気も流れるということですか?」
「流れるわよ。多少はね。
でも、時間がかかるのよ」
そう言うと、もう一度煙管を吸い込み吐き出した。
桃花が「だって」と口を開く。
「失ったものは、元には戻らないでしょ?」
今まで前を見ていた桃花が、いきなりこちらの目を見てそう言った。
思わずドキリとすると、桃花は微笑を浮かべて視線を落とした。
「大丈夫よ。だから人は涙を流すでしょう。きっと、それも同じことなのでしょうね」
(涙…)
人は、悲しい時も悔しい時も、嬉しい時だって涙をながす。
涙を流すことに理屈なんて無い。ただ強く、感情が揺さぶられるからこそ流れるものなのだから。
涙を、俺が最後に泣いたのはいつだっただろう。
死ぬ前?死んだ時?いやもっと前から。
「もう、涙の仕方は覚えてません」
視線を落として、湯のみに映る自分の顔を見つめる。
桃花は暁風に対して、「そう」とだけ呟いた。
桃花はそっと窓の外に視線を移す。
「だから、雨が降るのかもしれないわね」
暁風も外の雨を見つめる。
シトシトと滴る雨。
何となく、外で降る雨は、悲しげな気がした。
チリンチリンと音が鳴る。
(鈴の音色?いや、違う。風鈴の音だ)
チリンチリンと風鈴が風に煽り、音が鳴る。
足元に鞠がころがってくる。
小さく跳ねた鞠はそのまま転がり、俺の後ろで止まった。
ふわりと胡蝶が舞う。
驚いたように振り返ると、紫の着物を着たおかっぱ髪の女の子がいた。
女の子はしゃがんで鞠を拾う。
足元の砂利と草履が擦れる音をたてながら、女の子は立ち上がり、こちらへ振り返る。
小さく笑い声を上げた女の子はまたこちらに駆け出す。
『お兄ちゃん』
女の子が俺とすれ違う瞬間にまた風鈴の音がチリンとなった。
女の子を追いかけるようにもう一度振り返れば、そこは見慣れた、いや、懐かしい家があった。
縁側に向かって駆け出した女の子は誰かに抱きついている。
女の子はその誰かに頭を撫でられ幸せ気だった。
(あぁ、これは夢なんだなぁ)
知っている。だって俺の記憶の中のあの子はあんな幸せそうな顔をしていない。
(あぁ、嫌だなぁ)
何度見たって、思い出したって、嫌なものは嫌だった。
雨が降る。ベタベタと体にまとわりつくような雨。
どこか遠くでゴロゴロと雷の音が聞こえる。
空から降る雨は赤く、まるで血のようだ。
足元を見ればさっきの女の子がいる。
もう冷たく、瞬きすらしない。
口も動かないのに声が聞こえるのだ。
『助けて、お兄ちゃん』と。
(『失ったものは元には戻らない、でしょ?』)
分かっている。もうこれは全て過去なのだから。
もう元には戻らない。だってそれが彼女の運命だったのだから。
_______でも、でも、それなら
「俺は、俺たちは何のために生まれてきたんだよ」
赤い雨が屍たちに降り注ぐ。
夢の中でも涙は流れない。頬を伝うのは赤い雨だけ。
(『だから雨が降るのかもしれないわね』)
(あぁ、そうか、この雨は…俺自身の涙なんだ)
もう涙の仕方は覚えていない。最後に泣いたのもいつかは覚えていない。
でも、俺はずっと心の中では泣いていたのだ。
ずっと忘れられない、この悪夢の中で。
________きっとこの雨は永遠に止まない。
暁風はどんよりと、暗く濁った空を見上げる。
________だって
「だって『失ったものは、元には戻らない』でしょう?桃花様」
それなら、この雨は一生止まないし、止まなくたっていい。
そうしている方が、楽なのだから。