おしゃべりなモノと雪の女王
森向こうから隣に引っ越してきた四人家族は、有り体に言うなら「風変わり」だった。
母親とされる女性の歳は三十半ば。長い黒髪に赤い瞳、すらりと背の高い彼女は女だてらに狩人を生業としているらしい。この国土の半分を森に囲まれた国では確かに重宝される職業だった。
だが、立派な猟銃を下げて猟に向かうのに、持ち帰ってきた獲物には銃創が見られなかった。一緒に狩りにでかけた狩人仲間が言うには、手際よく罠を張って獲物を追い込んでいくそうだ。その女狩人が銃を扱っているところを、今のところ一度も見たことがないという。
それでも腕は確かで、今日は随分と大きな猪を狩ってきた。彼女の家だけでは食べきれないし、かといって命を頂いたのだから、粗末にするのも具合が悪い。
そんな理由で、彼ら一家は周囲の家の人間を招いて、豪勢な猪料理を振る舞うパーティを計画した。
ただ、問題は場所であった。彼らが引っ越してきた家はあまり庭も家も広くなかった。
そこで、この家の子どもふたりと父親が「庭を貸してくれないか」とこの家を訪ねてきた。確かに、ガーデンパーティをするくらいの広さの庭は持っていたし、お近づきのご挨拶に、と言われれば悪い気はしなかった。
そうして、あれこれ準備をして三日後の夜、三十人ほどの集まるパーティが催された。
メインの猪はさばいた肉に軽く味付けをして炭火で焼いたり、腸詰めの燻製をこしらえたりとバリエーションに富んでいた。猪をさばいたのは狩ってきた母親自身だそうだ。今も麦酒片手に歓談しながら、肉を手際よく焼いている。
メイン以外にも、みずみずしい野菜のサラダや焼きたてのパン、りんごのパイなど色とりどりな料理がテーブルに並んだ。これらを作ったのはこの一家の娘とその父親だという。母親は肉料理こそうまくなったが、それ以外の料理は娘のほうが上手だ、と苦笑していた。
「こんにちは! お姉さん」
そう話しかけてきたのはその一家の娘。珍しいことに、いつも一緒にいる兄は近くに見えない。
「お庭を貸してくれてありがとう。お姉さんは楽しんでくださっているかしら?」
彼女の手には柑橘系のジュースがある。屈託なくよく笑う娘だ。少しぶっきらぼうな印象のある兄とは対照的。
「えぇ。とても。こんなに賑やかなのは久しぶりだわ」
伴侶の男が命を落としたのは随分と前だった。連れ添うようになってすぐのこと。それ以来、基本屋敷に一人で住んでいるのだと言えば、娘は少し寂しそうな顔をした。
「お話の相手がほしいときはないのかしら?」
「ひとりが長いと、そういうことも忘れてしまうのよ」
まだあなたには早いかもしれないわ、と娘の頭をなでてやる。十にも満たない彼女にとっては理解が及ばない話であろう。
「グレーテル」
そう呼びかけたのはこの一家の父親。隣には彼女の兄がいる。
その一家の父親は、少し背が低い中性的な顔立ちの青年だった。その手には取り分けてきた食事が山になって載っていた。それなりの重量になっていそうだが軽々と片手に持っている。
ててて、とグレーテルは兄のヘンゼルの隣にならんだ。ヘンゼルは彼女のために取ってきたらしいりんごのパイを彼女に渡していた。パイの皿を渡す代わりにジュースのコップを引き取っている。美味しそうにパイを頬張る妹を見る視線からみても、兄妹の仲はいいらしい。
「この度はお声がけいただいてありがとうございました。素敵なお子さんたちですね」
「えぇ。よくできた子どもたちです」
子どもふたりを見て、父親の方を向き直せば、その手にあった山盛りの食事は皿の上からきれいに消えている。
少しの挨拶の後、父親は子ども二人を連れて別の参加者のもとへ向かった。去り際に、グレーテルはこちらへ手を振ってきたので振り返す。
ひとりになって、参加者に挨拶する彼らを自然と目で追っていたとき、気づいたことがある。
あの父親は、その華奢な身体のどこに入るのかというほどによく食べた。別に食べ方はきれいであるし、不快な感じはまったくない。子どもたちにも慕われているようで、良い父親ではあるようだった。
その日のパーティは盛況のうちにお開きとなった。そしてこの日を堺に、独り身である彼女のもとへ兄妹がお菓子を持ってやって来るようになった。
兄妹の父親からは、よければふたりの話し相手になってくれないか、と頼まれた。お菓子はその手土産、ということらしい。屋敷に一人で子どももいなかった彼女にとっては、悪い話ではなかった。
*****
「お姉さん。ひとつ聞きたいことがあるの」
午後のお茶をともにしながら、妹がそう口にした。
「この町には、双子のお姉さんお兄さんはいない?」
「?」
「本で読んだの。女の子と男の子の双子は珍しいんですって。お姉さん、見たこと無いかしら?」
一度お会いしてみたいの、と妹は言った。兄はその隣で「やれやれ」というふうに肩をすくめている。
「すみません。夢見がちなんです。この街に来てから、見るものみんな珍しいみたいで」
「幼い子はみんなそうよ。けれど、ごめんなさいね。この街で双子をみたことはないわ」
すべての人間と顔見知り、というつもりはないが、それでも男女の双子は見たことがなかった。まして男女ともなれば、彼女も意識のうちにとどめていたことだろう。
残念、と沈んだ様子の妹の頭を兄がなでてやった。仲のいい兄妹だと思う。
兄は口数こそ多くなくとも聡明で、妹は話し上手なことに加えて家事が得意だった。よければ料理や掃除を教えてほしい、とせがむ彼女は、どうやら自分のことを母親のように思っているらしかった。
「うちの母は家で娘と一緒に料理や掃除をするタイプじゃないので、そういうことに憧れているんです」
妙なことを言い出してすみません、と兄はひとつ苦笑気味に告げた。
子どもの相手は嫌いではなかったし、兄のことを思えば妹との関係も良好にしておいたほうがいいとも考えた結果、妹に付き合って料理や掃除をして時間を過ごした。
妹は兄に似たのかとても察しの良い娘だった。
初めて案内した部屋でも段取りや手順よく掃除をし、料理も随分と手際が良かった。
焼き上がったパンを家へ持ち帰れば、彼らの両親もとても褒めてくれたという。
そうしてここへ通うこと、三日。
屋敷からの帰り際、玄関を背に自分を見上げた妹は不思議な事を言いだした。
「ねえ、お姉さん。どうして嘘をついたの?」
その少女は怯えたような目でこちらを見ていた。隣の兄は妹を後ろへ下がらせる。
「リデルもラトウィッジも、ここへ来たはずよ。『みんな』言ってたわ。この子もよ」
妹は手にした置き時計を顔の前に掲げた。その時計の影から覗かせた片目がじっとこちらを見ている。
「……何を言っているの?」
「私、みんなに聞いてみたの。双子のお姉さんとお兄さんがこなかった? って。そしたらみんな答えてくれた。ご主人さまが閉じ込めたって」
この屋敷に住むのは自分ひとり。この少女は一体「何」を言っているのか。
けれど、彼女はなおも言い募る。
「この子たちに聞いたの。お掃除の仕方だって、お料理だって、みんな親切に教えてくれたわ」
少女がその時計を差し出すように前へ向ける。
要領を得ないその会話をつなぎ合わせたのは、兄のヘンゼルの言葉だった。
「グレーテルは、触れているものと会話ができるんだよ」
*****
長く使い込まれていたパン焼きのかまどからは、おじいさんの声がした。優しいおじいさんは、どれくらいの火加減にしたらいいのか教えてくれる。
大きな鍋は少し怒りっぽいお姉さんの声がする。いつも同じスープばかり作るんじゃない、とこの間は叱られてしまった。新しいレシピを教えてくれるという。
鉄のフライパンはグレーテルよりも幼い子どもの男の子の声。まだ作られたばっかりで、グレーテルのほうが言葉を教えてあげるくらいだった。
勝手に話しかけてくることもあれば、よくよく聞いてみないと声が聞こえないこともある。けれどどうやら、長く使われているものほどおしゃべりだった。
他の人には物の「声」が聞こえないらしい、とグレーテルが理解するのは早かった。グレーテルの話を信じてくれたのは、兄のヘンゼルを除けば、今一緒に暮らしている「箱庭調査局」の人間だけである。
ただ、声を聞くためには必ず触れていなくてはならず、一度にいくつもの声は聞こえない。そして、物が話したことが本当のことかどうかはわからない。物の中には嘘をつくものだっている。
だから、グレーテルは時間をかけて様々な物の声を聞いた。物は組み合わせて使うものでもなければ口裏を合わせたりしない。みんながみんな意地悪な物でないことを祈る部分はあったけれど、それでも成果は十分だった。
*****
「なぁ、あんた。あの双子をどこにやったんだ?」
そのヘンゼルの言葉は最後まで告げられなかった。ヘンゼルの見える視界に、ぽつりぽつりと石が落とされる。
目的地までの、正しいルート。そしてこれが見えているそのときは、自分たちに何か危険が迫っているということ。
とっさに妹を抱えて女主人の脇を転がるようにすり抜けた。
先程までヘンゼルたちがいたところは真冬の森のように凍りついている。こちらへ振り返るその眼差しは、出会ったその時から変わることのないどこか穏やかそうなものだった。それがなおさら不気味さを抱かせる。
彼女の指先がこちらを向けば氷の礫が飛来する。刺さった壁がまたたく間に凍りついていく。
「あまり逃げるものではないわ。氷漬けにはしたくないのよ。美味しくないからね」
「やっぱり魔女の家だったか」
ヘンゼルの腕の中で、グレーテルがポケットから小さな笛を取り出した。思い切り吹けば甲高い音がする。
直後、家の外から聞こえた一発の銃声。この館の凍りついた扉を粉々に吹き飛ばした散弾は、館の女主人にかすり傷ひとつ負わせることはできなかった。
「はてさて生きてるかい? うちの可愛い子どもたち」
まだ煙の上がる猟銃を片手にした女性と、相変わらず人好きのする笑顔を浮かべた青年がそこに立っていた。
*****
リデルとラトウィッジの双子が「冒険」から帰ってこない。
「箱庭調査局」局長、ヴィルヘルムから言われたのは一週間前のことだった。
「やれやれ、またかい? 次はどこに迷い込んだのさ」
呆れた様子の声を上げたのはすらりと背の高い女性。その傍らには猟銃が一丁。グレーテルは初めて見るその猟銃がとてもきれいに見えて、無意識にちらちらとそちらの様子を窺っていた。
「アガーテ。見せてあげたら? おチビちゃんがご執心だよ」
狩人アガーテと一緒にここへ現れた青年が、猟銃を指さして彼女に進言する。中性的で華奢なその青年は、グレーテルと目が合うとにっこりときれいな笑みを見せた。
「お嬢ちゃんにはちょっと早いんじゃないかねぇ。間違って撃っちまったら、そこのお兄ちゃんの頭が吹っ飛ぶかもしれないよ?」
アガーテはそうクツクツ笑う。グレーテルは首を横へ振った。
「ちがうの。撃ったりしたいわけじゃないわ。ただ、お話を聞いてみたいなって」
「グレーテル」
兄がそうたしなめる。はぁい、とひとつ返事をして、それでも少し名残惜しくて、もう一度猟銃を見た。
「グレーテルくんはきっと、その猟銃と話がしたいのでしょうね。彼女は「魔法」の力で、モノの声が聞こえるそうですから」
兄は、グレーテルに「魔法」を使わせたくないようだった。「魔法」を使うには「魔力」というものが必要で、失った魔力はご飯を食べたり眠ったりすることで回復する。それでも使わないことに越したことはない、と兄からいわれたのを覚えている。
グレーテルとしては、少し難しい話だった。「魔力」というものを考えたこともなかったし、「お話」ができるのは楽しいことだったから。
「猟銃とのお話はまた今度にしていただきたいですが、ふたりの捜索には、グレーテルくんの「魔法」が役に立つかもしれません」
グレーテルは首を傾げた。ヴィルヘルムは、グレーテルに「たくさんいろんなモノのお話を聞いてきてほしい」と言った。
ヘンゼルはグレーテルを双子の捜索へ連れて行くのを嫌がったが、ヘンゼルの「魔法」はグレーテルがいないと使えないこと、それと違ってグレーテルはその制限がないため、グレーテルが嫌でなければ一人でも行かせる、と言われて渋々承諾した。
リデルには「迷い込む」という性質があるらしく、正しい帰り道からいつの間にか違う町に入り込んでしまうことがこれまでもいくらかあった。今回もそのせいだろうとは言われていた。
「迷い込んだその先の町がどういう場所でも、ある程度は自力で帰ってこられるような力を持った子たちです。ただ、それは完璧でもないものですから。どうか、みんなで帰ってきてください」
皆に神の祝福がありますように。そうヴィルヘルムは十字を切って、グレーテルたちを送り出した。
*****
二発目の銃声に耳をふさいだグレーテルを抱えあげ、ヘンゼルがアガーテたちとは別の方へ逃げる。
「ランプさんが言ってたわ。このお屋敷、地面の下にもお部屋があるって」
ここへ通った数日で、館の地図はヘンゼルが作成済みだった。その地図を見て目的地を定めるのはグレーテル。目的の場所がわかれば、あとはヘンゼルの「魔法」が役に立つ。
見え始めた石をたどりながら、凍りついた廊下を行く。
意外にも、その地下への扉はすぐに見つかった。その部分だけ氷は融け、ただの木製の扉がむき出しになっていた。引き上げれば石造りの階段が現れた。中は暗くてよく見えない。念のためにヘンゼルが先に降りる。
物置として利用されていたらしいその部屋は不思議と暖かかった。きっとここが凍りつかなかったのはそのせいだ。
地下室へ降りていけば、その原因はすぐに判明した。
壁には小さな暖炉が埋め込まれ、炎がくすぶっている。
ただの物置には不釣り合いなその暖炉の前に、かたや顔の下半分を氷漬けにされた双子の姉と、かたや両腕を折られた双子の弟が転がっていた。
「っ、おい、お前ら……!」
駆け寄るヘンゼルとグレーテルの方へ、双子の弟――ラトウィッジがどうにか顔を向けて声を上げる。
「待っ……それ、消さないように」
文章が欠けたら消えてしまう。そう自力で身体を起こすことはできないらしい彼が言った。視線の先には、いびつながら何かしらの文章が床に綴られているのが見えた。いつものペンでもインクでもない、赤黒いその文字。
グレーテルが大回りで双子の姉――リデルのそばへ駆けていく。意識がなかったらしいリデルも、グレーテルが上半身を抱き起こしたことでゆっくりと目を開けた。かろうじて呼吸はできているらしいが、それでも随分と弱っている。
ラトウィッジは封じられたその口をどうにか解きたかったようだが、満足に動かない上にまっとうに書く場所も少ないこの場所では諦めたらしい。
「……アガーテもいっしょ?」
ふたりだけでここまで来たとは思っていないらしいラトウィッジの問いに、アガーテだけでなくスコルも一緒だと伝えればひとつ吐息をこぼした。
「少し危ないけど、仕方ないか……あと何発残ってるかな」
「?」
「それでも、アガーテだけよりよっぽど綺麗な話になりそうだ」
ラトウィッジは自分の体を起こしてくれたヘンゼルへもたれかかるように体重を預けた。吐いた息は彼の状態の悪さを現している。
「紙と、ペンを探して。あとくくりつける紐も。あと一手で、チェックメイトだ」
「お前、その腕――――」
「分かってる。だから、最後まで手伝ってもらうことには、なるよ」
ラトウィッジには今の状況の大半が理解できているらしかった。それでも、話をするのは時間が足りないから後回しにするつもりらしい。代わりにヘンゼルが頼まれたのは、自分をあの主人の眼前まで連れていくこと。グレーテルはリデルと一緒にここへ置いていけという。
「心配しなくても、グレーテルちゃんは大丈夫だ。あの人は、同性に興味がないらしいから」
ラトウィッジの言葉をすべて理解はできなくても、ヘンゼルはため息をつく以外にできることもなかった。この町に降りてきた以上は一蓮托生。全員が揃って帰るには、ラトウィッジの策にかけるよりほかにない。
*****
気を抜けば歯の根が噛み合わずガタガタと鳴るような、零下の館。
瀟洒な館はこの町一番の豪族の家だった。つい先刻までは、の話だが。今は見る場所すべてが氷に覆われた極寒の館と化している。
「まいったねぇまったく!」
「アガーテ、何発撃った?」
隣を駆けるスコルが問う。窓越しにナイフを一本挑発に投げつけながら、アガーテはこの町での行動を振り返る。
「入口に一発、屋敷に一発、あのお館様に三発。五発だね」
「三発撃って死なないとは。珍しく無駄撃ちしてるじゃないか」
「失敬な。一発も外しちゃいないんだよ」
「撃った端から凍らせてなかったことにしちまうなんて、いくら「魔弾」があろうが意味がないさ」
迫りくる冷気は触れればたちまちに氷像と化す。それでもどうやら遮蔽物を超えてくることはできないと分かってからは、かの女主人の正面には決して立たないようにして建物の中を移動している。
かといって、完全にこちらを見失ってもらっても困るのだ。あくまで自分たちは「時間稼ぎ」にすぎない。
あの兄妹が、かの双子を見つけるまで。
「お前がとっとと「喰って」しまえば早いのに」
「そのために足止めをお願いしてるんだよ」
今のままじゃあ「食べる」前に氷漬けだ、と肩をすくめる。どっちも手詰まりか、と物陰に座り込む。
「ヴィルを連れてきたほうが良かったんじゃないかなぁ」
「それこそ無理をお云いでないさ。そもそもあいつは「移動」ができないだろ」
便利なんだか不便なんだか分かったもんじゃない、とクツクツ笑いながら、猟銃の薬室から空薬莢を弾き飛ばした。それを横目に、スコルは口角を上げる。
「今度は僕を殺さないでくれよ?」
「――――さぁ、どうだかね」
スコルの言葉に導かれて脳裏に蘇る記憶は、今なお鮮血の色をしている。アガーテは口元へ笑みを浮かべこそすれども、何も言わずに弾丸を込めた。
その時、こちらを追ってきていた女主人の見る先がこちらから逸れた。
「あちらは首尾よくやったようじゃないか。狩りは本来、追われるものじゃあなくて追うものだ」
「そうだねぇ。僕もそろそろお腹が空いたよ」
スコルがぐるぐると喉を鳴らす。相変わらず燃費が悪いな、と彼女は笑う。
地下室から上に運び出されたラトウィッジと、それを支えるヘンゼルの眼前にかの女主人が到来する。
「ずいぶんな歓迎をどうもありがとう。僕たちはそろそろおいとまするよ」
その眼光は鋭くこの館の主人を見ていたが、その背後にアガーテとスコルの姿を認めて少し破顔した。
「スコル。お腹の調子は?」
「絶好調にはらぺこ」
それはよかった、とラトウィッジが少し弱々しく笑う。
女主人がなにか言葉を告げようと口を開くよりその前に、ヘンゼルに腕を動かさせてラトウィッジが床に並べた紙に文字を綴る。
【その言葉は通らない】
【その吐息は通らない】
それはこの世界の法則を書き換える文章。すべてを掌握し支配するラトウィッジの文章は、その場所を書き換えるだけではなく、人に対しても有効なもの。
放つはずだった言葉は虚空に融け、異変に放とうとした氷の息吹も現れるより前に霧散する。
【「雪の女王」は動かずそこへ佇む】
言葉を奪われ、指のひとつすら自由を奪われた、その女主人、雪の女王をラトウィッジの言葉が捕らえ留める。抗うことは許されない。彼の言葉が最後まで綴られたならば、そこから抗えぬことは女主人――「雪の女王」も理解せざるを得なかった。
【「雪の女王」は言葉を失う】
すべての動きを封じ込めるための「物語」を、ラトウィッジは組み立て終えていた。あとは、折られた両腕を自分の代わりに動かしてくれる誰かを迎えられるよう、祈るだけ。
その祈りは叶った。
【その動かない肢体の行き着く先は、狼の腹の中】
舌なめずりをしたスコルが、かの女主人の背後に立つ。歪んだ三日月の口元には、可愛らしい顔には似合わない鋭い歯が見える。
「いただきます」
食事の前の挨拶は、そう礼儀正しく丁寧に。
骨まで残さずその悲鳴の一滴まで、おいしく残さず一息に。
ぺろりときれいに食べ終えた。
「あぁ、おいしかった」
スコルが満足げに口笛を吹けば、雪飛沫がきらきらと舞った。
*****
調査局に無事戻ってはじめに向かったのは局長のヴィルヘルムのところだった。
あの「雪の女王」がいなくなったあとでも、リデルの口元を覆い隠した氷は融けることもなかった。どうするつもりなのか、とヘンゼルが問えば、理屈を分かっている全員ともが「ヴィルヘルムのところへ連れていけば問題ない」と口を揃えたからだ。
アガーテとスコルはヴィルヘルムの私室へ双子を送り届けると、その先のことには特に興味もない、というふうにふたり連れ立って部屋から出ていってしまった。
これはひどい、とヴィルヘルムはリデルの凍れる頬に手を当てた。そのまま横へゆっくりと手を滑らせる。
すると、彼がなぞったその軌跡に沿って、氷が融け白い素肌が戻ってくる。何をしようと融けることのなかったあの氷が嘘のようだった。
「治せるのは、これだけですね」
「だよね。僕は痛みも消してるし、ゆっくり治すよ」
まだ意識を取り戻さないリデルを心配そうにグレーテルが見ていたが、そのうちお腹が空いたら起きてくるよ、とラトウィッジが安心させるように笑った。
「あんたも何か使えるんだろうとは思ってたけど、いまのが?」
「えぇ。簡単に言うなら、「魔法」の無効化、が正しいですね」
それも応用ではあるそうだが、詳しいことを話すつもりはないようだった。ラトウィッジの両腕は魔法で作られた怪我ではないから治せない、ということらしい。
「……あのふたりは?」
「アガーテとスコルですか。彼女らの「魔法」を見るのも、そういえば初めてだったかもしれませんね」
ヘンゼルの脳裏には、先程見たあの「食事」の光景がある。凄惨というには淡白すぎ、残酷なはずなのに目をそらすことも許されなかった、あの光景。
「スコルは食べたものの「魔法」が使えるようになるんだって。大飯食らいの狼さんだけど、悪いやつじゃないよ」
昔、違う町で拾ってきたんだよ。そんなふうに、ラトウィッジは言った。
「心配しなくても、頭はいいし君たちのことも食べないよ。調査局の人間はだれひとり食べたりしない。僕と姉さんが許さないから」
「……なんだそれ」
「スコルとは、そういう「契約」をしてるんだ」
「それは楽しいお話かしら?」
グレーテルがリデルの横たわるソファのとなりにちょこんと座る。その瞳は好奇心に輝いていた。
本人がいないところで話しても良いものかな、とラトウィッジはヴィルヘルムの方を一瞥したが、どうやら止めるつもりもないらしかった。
「姉さんが話せばきっともっと面白いだろうけど、今は休ませてあげたいし。語り物は苦手だけど、我慢してね」
ラトウィッジはそう前置いて、狩人と狼の話を始めた。