城下町ヴェルグスト
旧帝暦 一六七五年 四月五日 ブラウンベルグ選帝侯国
政治軍事を執り行うブラウンベルグの中枢たるヴェルグスト。
東と西に街を隔てて、オーデン川とシュプレス川という壮大な二つの河川が流れており、その狭間には、平坦な地形の湿地帯が広がっていた。
ヴェルグストの市街地は高く分厚い城壁と深い水堀に覆われ、街のすぐ傍を流れるシュプレー河の支流が、楕円形の中州を形作りながら街中を横切っている。
中州の中央にはヴェルグスト宮殿が構えられ、囲むように門閥貴族の邸宅や諸外国の大使館が並んでいた。その外周部の運河沿いには、聖職者や豪商など富裕層向けの豪邸が所狭しと点在する。
どの建物も煌びやかな装飾が施され、見上げんばかりの高層建築群。それらは家主が誇る富と権威の象徴であり、封建社会らしい古風な街並みを形成していた。
宮殿から一直線に伸びる大通りを、アレンスを含めた数人の護衛たちと歩く。
しっかりと舗装された道を二〇分も足を進めると、運河に架けられた橋を渡り、街の中央部で交差する十字路に出た。
さすがに商業区画の中心ともなれば、街の通りを行き交う馬車や人でごった返している。その脇に広がる建物は、庶民向けの集合住宅や露店の他に、物資集積拠点の倉庫等。
富裕層の区画ですれ違ってきた、いかにも貴族や宮中人という装いの者は見られず、主に一般人の行商人や露店商、それらの商品を求める客に、宿を探す旅人。また、運河沿いの立地であるせいか、漁師、船大工、水運業者なども少なくない。
そして、殊更気になったのが外国人の多さと多様性だ。
人種の差異は遠目ではっきりと認識できないが、耳に届くヴァルツ語(帝国勢力圏における第一言語)一つ取っても、聞きなれない方言が数多混じっており、頻繁に隣国のポーレフランドやスヴェーリングの言葉はもちろん、フランセル、ブリステン、ルシアという遠方の言語も飛び交っている。
「思えば、こうして城下町をじっくりと眺めるのは、初めてになるのか……それにしても、ブラウンベルクは帝国勢力圏において辺境にあるせいか、街の規模の割に外国人の姿が多いな」
人ごみを掻き分けるように進みながら、お忍びらしく地味目な衣服のユーリヒトが、前を歩くアレンスに疑問を投げる。
「だが、それだけでは、ここまで多くの商人や運送関係者が、僻地であるヴェルグストに出入りする説明が付かないが……どうしてなのか、アレンスは知っているか?」
「それについては、アドルフ殿下が取り組んだ戦後復興政策の成果と言えるでしょう」
視線を前に向けたまま、アレンスがはっきりとそう返した。
「終戦後に即位した殿下は、国土復興の要として、商取引を柱とした経済発展を掲げましたので」
目立った特産物や名産品も少ないブラウンベルグの荒廃した地域経済を再生させるには、戦後復興政策の柱として産業基盤である街道や運河などの整備に取り掛かるとともに、各種の規制緩和を行い国内外の商人を誘致して、商取引を促進するほかなかった。
「その御蔭でほんの数年前までは、ユーリヒト様の仰る通り、辺境の僻地でしかなかったこの街も、三年前に完成したシュプレス運河の恩恵で、ここ近年は目覚ましい発展を遂げています」
終戦直後の旧帝暦一六六七年に着工され、およそ五年の歳月を経て完成した、全長約二五キロにも及ぶ、シュプレス運河。
ヴェルグストを起点に、オーデン川とシュプレス川を結ぶことで、両河川沿いに点在する街々に陸路を挟むことなく水上運送が可能となった。以後、大幅な運送経費の削減が可能となり、旧大陸屈指の一大交易都市へと変貌したヴェルグストは、大いに経済的繁栄を謳歌したのだ。
「また多種多様な人種が存在する理由としては、交通の要衝として稼いだ富を元手に、殿下が大規模な難民・移民の受け入れ政策を掲げたことも影響しておりますか」
二〇年戦争という史上空前の大戦は、参戦国と帝国諸侯に深刻な財政悪化をもたらした。
その例に漏れず、ブラウンベルグも巨額の軍事支出に喘いでいたが、戦後先代ブラウンベルグ選帝侯ゲルハルトの跡を継いだアドルフは、いち早く財政再建を果たし、矢継ぎ早に戦争難民の積極的な受け入れを開始。
大戦の惨禍によって、ブラウンベルクは民の数を少なからず減らしており、国力を回復し、更なる興隆を成し遂げるには、発展の基盤となる人口の補填と確保が早急に求められたからだ。
「尤も、アドルフ殿下が迎え入れたのは、戦争難民だけではありません」
「というと?」
「裕福な異教徒に新たな産業を興しうる実業家や教鞭を執れる知識人など、殿下はブラウンベルグの未来と成り得るそれらの人材を広くお求めになりました」
寒冷な気候で土地が痩せ細っており、森林や湿地帯が多いヴェルグストの地理関係上、農作物の収益性は弱く、農耕による発展など望むべくもない。
そうしたヴェルグスト一帯の土地柄を踏まえると、必然的に貿易、商業、学術都市として生き抜くほかなく、アドルフは戦後の混乱で生活苦に喘いでいた文化、産業育成に不可欠な人材を招聘し、復興の一助として大いに役立てた。
「例えば、そうですね……あちらで演説している者も外から移住してきた知識人の一人でしょう」
視線を向ければ、道端に人が密集している一角があった。どうも演説が執り行われているのか、通りすがりの住民も足を止めている。
聴衆たる近隣住民の前には、木箱の上に立ち、ひときわ大きな存在感を放つ壮年の男性。
「聞いてほしい!――私が生まれ育った領邦の村は、国境地帯の係争地となり、敵のみならず味方であるはずの軍隊からも、何もかもを奪い尽された末、最後には焼き払われた! これは天災や疫病などと同様に、ただ耐え忍ぶことしか許されない理不尽な現実であろうか!?」
歳は三〇代半ばぐらいか。庶民としては上等な衣服を身に纏い、立ち振る舞いが洗礼されていることからも、それなり以上の社会的地位を誇る人物であることを窺わせる。
「――答えは否! 戦争とは人災であり、涙を呑んで我慢する必要などない! 我々は黙ってそのような境遇に甘んじる必要など一片たりともないのである!」
額に汗を滲ませた男は、よく通る声を張り上げて血気盛んに訴えた。
「元来、人間は生まれながらにして平等に創られているのだ! にも拘らず、ごく一部の支配者たちが望んだ私的な戦争によって、個々の生命や自由を理不尽に奪われる無体など許されて良かろうはずがない! そうではないか、諸君!?」
鋭利な眼光で取り巻きを見回しながら、声高らかに宣言する。
「そのことを、特権に胡坐をかき、人災を撒き散らしながら腐敗の一途を辿るばかりの坊主と貴族どもに、訴えなければならない!!」
想像していたよりも過激な演説に、ユーリヒトたちは思わず立ちつくしてしまう。
「彼は啓蒙主義者か……近年民衆の間で支持され始めている開明的な思想だと、耳にした覚えがあるが……」
「――申し訳ございません、ユーリヒト様。只今止めてまいります」
「いや、待て! そんなことをする必要はない。上から押し付けるように演説を取り締まった所で何の意味がある?」
慌てて駆けだそうとしたアレンスの動きを、ユーリヒトが手を横にして制す。
「それでは、抜本的な解決にならないどころか、更なる不満を募らせて、より一層の反発を強めるだけだ」
すると、背後で控えていた近衛の一人が、堪らず口を挟んだ。
「しかし、皇太子殿下! あのような反乱分子と成り得る者を放置しておく事など――」
「口を慎め! 彼のような知識人は、此度の政策によって移住してきた者の一人だ。あの者を拒絶することはとどのつまり、父上が実施した政策の批判に繋がることを理解しているのか?」
「……ッ!」
神妙な面持ちのユーリヒトの指摘に、近衛の表情が微かに強張る。
「そもそも、父上が実施した政策はどれも寛容な精神が必要となるものばかりだ。一個人の思想にいちいち目くじらを立てても仕方なかろう」
「ではユーリヒト様は、啓蒙主義者を名乗る者どもの思想を受け入れるべきだと?」
「……そうは言っていない。だが、頭から拒絶するわけにもいかんだろう。仮に、彼らのような啓蒙主義者を、全てヴェルグストの街から追放したところで、啓蒙思想がこの世から無くなるわけではない。結局は一時しのぎにしかならず、最終的には時代の荒波に飲み込まれてしまうだけだ」
自然科学と合理主義が一定の成熟を迎えた時代。
生活水準と科学技術の向上によって近代的思考が根を下ろし、知識人の間では啓蒙思想が爆発的な勢いで浸透していった。その潮流は留まるところを知らず、啓蒙主義者の書籍や演説といった媒体を介して、庶民層の末端にまで普及するのも時間の問題だろう。
「第一、どうしてそこまで啓蒙思想を否定しようとする?」
「……なぜと仰られましても、啓蒙思想が我らの存在を脅かし、相容れない思想だからではないですか!?」
猛然と食って掛かる近衛に、ユーリヒトは内心で嘆息する。
「やはり、勘違いしているのか。言っておくが、啓蒙思想それ自体は、王侯や聖職者の存在そのものを否定する思想ではない。少なくとも、王侯貴族と啓蒙思想の共存は可能だ。否定しているのは、王権神授説という政治思想に過ぎないのだから」
「それは、どういうことですか?」
「いいか? 演説の内容を思い出してみろ。庶民を蔑ろにするなと主張しているが、彼は一言も王侯貴族を排除せよとは言っていないだろう?」
啓蒙思想がイコール民主政とは限らない。啓蒙活動の極致ともいえるフランス革命すら、初めは貴族と聖職者と平民が一同に参加する共和政を目指していたのであり、特権身分を完全に除いた民主政治を求めていたのではなかった。
極論を言ってしまえば、貴族政や君主政でも民意の支持が得られれば構わないのである。
(とはいえ、啓蒙思想に対する対応を誤れば、思想を利用した政治家が民衆を扇動し、王侯貴族を刺し殺そうと過激な行動に出る可能性も否定できないが――)
と、しばし思案顔を見せたあと、向かいの護衛たちに視線を向けた。
「どちらにせよ、庶民の権利は拡大せねばなるまい。中世の時代とは異なり、政治、経済、軍事にと各方面で平民階級の影響力は強まった。もはや、彼らの主張を完全に無視することなどできん」
重商主義という経済思想を獲得した旧帝暦一六世紀以降の旧大陸では、絶対君主制を標榜する諸王家が、対外主権と国防に欠かせない巨大な常備軍を維持するため、国富増大政策を採用し、徴税基盤となる民需の拡大を推し進める。
それに伴い、平民階級の身分でも富を蓄積する者が増大。対して、中産階級の財力や民権の著しい拡大により、上流階級の権威は相対的に低下した。
無論、民衆勢力の台頭は、王侯諸侯にとって憂慮すべき事態であった。だが、持続的な兵力を所有し始めた諸外国の脅威に対抗するためには、民間の利潤追求を容認するしかない。
まして、戦争の規模が拡大し、物資や資源の消費が大規模となると、もはや自国だけの自給自足が不可能となり、市場を介して国内外から人的、経済的資源の調達が不可欠となったのである。
そのような経緯もあり、国の君主である諸王家すら、戦争――或いはそれ以外でも――大規模な国家事業を行うためには、金融市場を支配する中産階級層と足並みを揃えなくてはならなくなっていた。
すなわち、資本主義の興隆であり、旧体制の支配階級以外にも権利の拡大や配慮が求められたのだ。
「……それに啓蒙思想は劇薬であると同時に、使い方次第で薬にもなる」
ぽつりと零れたその言葉は、周囲の誰の耳にも届くことはなかった。
「はい? 何か仰りましたか?」
「いや、何でもない。それより、いつまでもこの場に留まっていても仕方なかろう……街に足を運んだのは、どこか案内したい場所があったからではないのか?」
話題を逸らすように問うと、背筋を伸ばしたアレンスが道案内を再開して、ユーリヒトたちは素早くその場から立ち去った。