七年後
旧帝暦 一六七三年 一月二七日 ブラウンベルグ選帝侯国
「――目覚めても、昨日と同じ、何の変哲もない世界、か」
朝日が顔を出し、地平線を照らし始めた頃。
ホーエンベルク家において半世紀前からの居城たるヴェルグスト宮の城館に囲まれた中央には、左右対称に飾られた並木と広大な芝生の中庭。
それを東側にある一棟の三階から、一人の少年が見下ろしていた。
「本当に、何たるクソゲーだ……」
年の頃は、小さな背丈と幼い顔立ちから、七、八歳程度だろう。
鮮やかな銀髪と、知性が宿る灰色の瞳。
なにより、ホーエンベルク家特有の意匠が施された礼服が、彼をブラウンベルグの君主に連なる系譜であることを示していた。
「……戦略SLGは、神の視点で操作するから面白いのだ。選帝侯国の皇太子などいう気苦労が絶えない当事者への転生など誰が望んだというのかッ!」
儚げな美少年は――その容姿や服装からは、想像できない現代的な俗物的発言を繰り返す。
そう、ユーリヒト・ヴェルヘイム・フォン・ホーエンベルクは、転生者である。
「せめて【サモンズ・レギオン】で選択した国家の太子に生まれ変わるのが分かっていれば、ロマンを押し殺してもう少しマシな国家を選択することも……」
言いかけて、続く言葉を呑み込んだ。
「いや、改めて思い返すと、明確にマシと断言できるほどの上等な国家なんて存在したか? 時世を考慮すれば、大国や小国に関係なく禄でもない未来しか想像できんぞ」
【サモンズ・レギオン】に酷似した動乱の世では、大国の王子であれば安泰という単純な話でもない。
ゲームのモデルである近世ヨーロッパ同様、未だ旧大陸では中世を象徴する王権神授説に基づいた封建社会と絶対王政が主流である。
だが同時に、知識層や資本家も増大し、平民階級の勃興も著しい。それに伴い、中世以前には存在しなかった啓蒙思想や資本主義も萌芽しつつある。
――ならば遠からず行きつく先は、前世と同じく大規模な内乱と革命騒動だ。
無論、魔術なんて概念が存在する以上、同一の歴史を辿ることはない。しかし、世界が変わろうと、人の感情や政治力学そのものは不変なのだ。
史実の近世ヨーロッパと酷似する地形や政体を見る限り、対局や時流という世界史的な流れはそう違わないだろう。
「それに、ゲームと違ってワンクリックで国家方針を決定し、改革を断行、というわけにもいかない。そうした意味では、発展途上の国家特有の身軽さはある種の長所ではあるか」
何の因果か王侯諸侯の一人として転生したユーリヒトからすれば、脅威となるのは何も他国の存在ばかりではない。むしろ、近世以降の時代は、市民運動が活性化し、無知蒙昧な愚民から国民としての主権に目覚めた平民との付き合い方こそが、特権階級として生まれたユーリヒトの命運を左右しうる。
そうした内向きの問題に限定すれば、大国ではなく中小国を選んだのは好都合ですらあった。
「とはいえ、過ぎたことをいつまでもグダグダ言ってても仕方ない。記憶を取り戻してから、既に一週間が経つのだ」
ユーリヒトは生まれた瞬間から、自らが転生者であることを自覚していたわけではない。そもそも、三歳以前の幼少期は、他の幼児と大差なく自我意識すら目覚めていなかったのだから。
ただ、そんな物心が付くかつかないかの年頃でも、脳裏に深く刻まれて離れない記憶がある。
それは宮中の家臣たちが事あるごとに言っていた、ある言葉。
――御身は偉大なるホーエンベルク家の一粒種。
次代の君主として、いずれ父の後を継ぎ、七選帝侯家の一角たるブラウンベルグを率いるに相応しい人間とならなければならない。
ユーリヒトも成長に伴いそう思って、日々を帝王学や宮殿儀礼などの勉学に勤しみ、明確な自己もないまま君主として必要な研鑽に励んでいた。
しかし、ある時を境に潮目が変わる。
それは七歳の誕生日を一ヶ月前に控えた、ある日の出来事だった。
この年になるとある程度の肉体も発達し、座学以外でも軍事的鍛錬の一環として、馬術の授業が始まった。
その授業中に馬の手綱を誤り落馬した際、頭の打ちどころが悪かったせいか、半月ほどの昏睡状態に陥ってしまう。
そして、一週間前に再び目覚めた時には、前世の記憶を取り戻していた、別人に等しい自分となっていたのだから、目覚めた直後の驚愕は一言では語りつくせない。
こうして、朝早く自室前にある窓から、外の世界を眺めつつ、胸の内を吐き出しているのも、異なる記憶によって苦しむこととなった、あの日以来からの日課である。
「そろそろ現状を受け入れて、前向きに行動しなければ……現実も戦略SLGと同じで、配られた手札に文句を言ったところでどうしようもない。ただでさえ、今生における自らの立場は、危うく難しいもので、細心の注意払わなければ明日の生命すらも保証されない世界なのだ」
一つ嘆息して、ユーリヒトは諦念の瞳で虚空を見上げた。
だが、背後から歩み寄る一つの足音が、思いを馳せていた思考を現実に引き戻す。
まだ薄暗い廊下にコツコツと反響する、どこか聞き覚えのある軍靴の音。
「――これは、お早い起床ですね、皇太子殿下」
背後から声をかけられ、ユーリヒトは振り返る。
歳は三十代前後だろうか。ブラウンベルグの象徴である暗青色の軍服。
それを優雅に着こなした見覚えある紳士が、廊下の途中に立っていた。
「アレンス伯爵か。いきなり話しかけられて驚いた」
「そう仰るほど、驚いたようには見えませんが。もしそうなら、謝罪しましょう」
声の主は、ヘルムート・フォン・アレンス。
ブラウンベルグの君主、選帝侯アドルフの従兄弟であり、ホーエンベルク家の親類としてユーリヒト誕生に列席した侍従武官である。また、つい先日、アドルフからユーリヒトの養育係として傅育官を任ぜられた三人のうちの一人でもあった。
「それでユーリヒト様は、こんな時間にお散歩ですか?」
「まあ、そんなところだ」
おざなりに言葉を返すと、アレンスは苦い顔を浮かべて言う。
「……病み上がりなのですから、余りご無理をなさらないでください」
「多少、散策していたぐらいで、いちいち大袈裟な言い方だな。私は余命いくばくもない重病人ではない筈だが?」
心配げな双眸を見返し、ユーリヒトは肩を竦めて告げる。
「意識を回復して、それなりの月日も経った。医者の話でも、身体に異常は見られないと言っていたではないか」
「……確かに、そう伺いましたが、同時にこうも仰られていたではありませんか。いくらか記憶に混乱が見られ、精神的にも大きく疲弊している様子である、と」
「――ッ!」
アレンスの指摘に、一瞬だけ眉を顰める。
記憶を取り戻した直後は、人目をはばからずに取り乱した覚えがあったからだ。
「傅育官の一人としてあの場に居ながら、皇太子にお怪我を負わせた私が言うのも憚れますが――」
ユーリヒトが負傷した光景を脳裏に思い出したのか、アレンスは忸怩たる面持ちで口にした。
「目覚めたばかりのユーリヒト様は、まるで別人のごとく錯乱しておりました。僭越ながら、こうして向かい合っている今ですら、どこか悲痛な面持ちで、仕草の端々に以前までの子供らしい印象が感じられません。恐らくですが、そうなった原因は、何も落馬だけではないのでしょう」
「……」
「その胸の内を、今すぐ打ち明けてくれとは申しません。ですが、ユーリヒト様は一皇子ではなく皇太子のお立場。御身は、ご自身だけのお体ではございません。くれぐれもご無理などなさらぬよう、ご自愛頂きたい。万が一があってからでは遅いのですから」
「……私のことは私が一番分かっている。心体問わず、何かしらの病を抱えているわけではない。それでも仮に、万が一があった時は、その時だろう。七年前と違い、私も替えのきかない存在ではなくなったのだ」
かつて嫡子に恵まれなかったホーエンベルク家は、今や三男四女をもうけており、ユーリヒトが居なくとも後継者のことで憂慮する心配はない。
「ユーリヒト様、その様な言い方は――」
「別に間違ってなかろう。私の前だからと言って取り繕う必要はないぞ」
言い募ろうとしたアレンスの言葉を遮り、ユーリヒトは険しさを帯びた双眸を向ける。
「王侯諸侯が少しでも多くの男系後継者を残すのは義務であり使命だ。ついぞ今日までその義務を果たせなかった、クローナ第三帝国の皇帝一家――ラースマリア大公国の統治者たるハイゼンブルク家に目を向けてみろ。一年前に三人目の子を懐妊したベアトリーチェ皇妃だが、生まれたのはまたしても、女の子であったという話ではないか」
クローナ第三帝国を含めた旧大陸の殆どが採用する古代クローナの継承法では、男系継承しか認められていない。
「……しかも、彼女は産後の肥立ちが悪く、長く床に臥せっているという噂もある。皇妃の齢は、既に三〇の終わりに差し掛かっていたか。彼女がこれから、男系後継者を産める可能性は、それほど高いものではないだろう。そして、イリア教の庇護者を公言している皇帝に、側妃を迎えるという選択肢は存在しない」
旧大陸全土に遍く布教されているイリア教。その教義の一つに、信徒は二人以上の正妻を持つことは許されていない、という決まりがある。
「帝国の臣民からすれば、継嗣問題など雲の上の出来事に過ぎん。されど、国家が王家の枠組みを超えた公共の集合体であるという意識が成熟していない時代だ。それだけに、その後継者の資質や有無で、自らの運命が翻弄されることも大いにあるのだから、民心が抱く不安と懸念の程は察せられる。何と言っても継嗣問題は、戦争勃発の一因として、余りに有り触れたものだからな」
「……」
目を伏せて沈黙を守るアレンスに、ユーリヒトは静かな口調で話を振る。
「尤も、先の大戦の生き証人である伯爵に、今更語ることでもないだろうが」
「……先の大戦――今では二〇年戦争と呼称されている戦役ですか――あの戦役が、只の国内戦から国際戦に発展した一因は、元を辿ればありふれた諸侯間の遺領を巡る継承戦争が、引き金となったのでしたか」
旧帝暦一六四五年二月九日。
反皇帝派と親皇帝派という対立軸の国内戦として始まった二〇年戦争は、ある諸侯間の小競り合いを契機に、史上最大規模の国際戦争へと拡大した。
「大戦終結から、既に約八年の歳月が経ちました……私が新任将校として大戦に従軍したのが、国際戦争に発展した一〇年目の年であった事を思うと、時が流れるのも早いものです」
「……あの戦役の犠牲者は、帝国勢力圏だけでも、軽く五〇〇万人を上回る無辜の民が巻き込まれたのだったか?」
先の大戦に際して、ブラウンベルグを含めた帝国諸侯領は、周辺諸国の草刈り場となり、かなり悲惨な略奪と虐殺になったという。
「ええ、若かりし頃の私も、この目で数多の惨劇を目撃したものです。あの光景は、全て脳裏に焼き付いて生涯忘れることはないでしょう」
「……そうか」
二〇年戦争時代の恐ろしさ、悲惨さは、歴史書に数多く書き記されている。その時代を間接的な口伝や文章でしか知らないユーリヒトでは、想像も及ばない経験をしたことだろう。
「たしか継嗣問題を引き起こした諸侯の規模は、ブラウンベルグより遥かに小さい国であったのだったか?」
「ええ、比べるのも烏滸がましいほどの小国でした」
「……既に戦乱の機運が高まっており、継承権を主張した片方の当事者が、ブラウンベルグと同じく選帝侯家であったとはいえ、そんな小国の継嗣問題ですら、空前絶後の大戦を誘発した一因となったのだ。ブラウンベルグより、遥かに大きなクローナ第三帝国――いや、ラースマリア帝国の継嗣問題など、下手をせずとも二〇年戦争の再来となりかねん」
大陸屈指の超大国である第三帝国の継嗣問題が、このまま大人しく収まりなど付くはずがない。必ずや、帝国全土――否、旧大陸全土を巻き込んだ災厄を撒き散らすであろう。
ふと視線を窓の外へと移したユーリヒトは、昇りゆく朝日を見つめながら言う。
「……私もホーエンベルク家の嫡男だ。一個人の資質どころか、生まれた性別一つで、国家の運命を左右しうる立場である」
「……」
「七年前、ホーエンベルク家における初の男系後継者として、この世に生を享けた私は、さぞかし祝福されたのだろう。後継者に恵まれず、戦後復興も間もなかったブラウンベルグ六十万の臣民――その心の安寧に、私の存在が少なからず寄与したのは疑いようもない。戦後に生まれた新たな命としても、利用価値は多分にあったはずだ」
ユーリヒトの曽祖父、大選帝侯ユーリヒト・ゲルヘルムの活躍により、他の帝国諸侯と比較し、人的損害が抑えられたブラウンベルグですら、一〇万を下らない犠牲者を出している。
まして、二〇年戦争から八年の月日が流れた今でさえ、戦火に焼かれた領地が、完全に復興されているわけではない。ユーリヒトが誕生した直後など、さらに生々しい傷跡が放置され、人々は新たな希望を心より渇望していた事であろう。
「アレンス伯、卿は私の身体を、私のモノではないといったな?」
「はい、皇太子殿下。畏れ多くも、そう諫めさせて頂きました」
「だったら……否、そうであるからこそ、皇太子の立場たる者が、周囲に健全である事を示す必要があるとは思わないか?」
「そ、それは……」
「先ほどは、代わりなど居ると口にしたものの、世継ぎとなりうる弟二人は未だ幼い。嫡流の長子たる者が、いつまでも床に臥せっているのでは、民心に要らぬ不安を与えるだろう」
帝国諸邦の臣民は、継承問題が引き金となる戦争の恐ろしさをどこよりも知っている。それだけにブラウンベルグの民は、ユーリヒトの一挙手一投足を良くも悪くも注視していよう。
「それに、動乱の機運が収まっていない時代に、病弱の嫡子など有害でしかない。そうは思わぬか?
ブラウンベルグの嫡子は、病弱という噂を立てられてみろ。民心は大きく動揺し、隙を伺っている近隣諸国は、これを機に軍を動かすやもしれん」
主要な隣国との外交関係は悪くないが、国家に永遠の友など存在しない。
表向きは対立姿勢を表明していなくとも、変事となれば国益を優先して行動しよう。
加えて、この世界はゲームではなく現実なのだ。二〇年戦争のおり、幸運にも名君に恵まれ、帝国諸侯の中では、勝ち組と評されるブラウンベルグに対し、内心では面白くない感情を抱いている諸外国は決して少なくないだろう。
「第一、戦国の世では、先ず何よりも、国家指導者には軍事的才幹が求められる。そして、それは病弱な者に務められるほど、柔な立場ではないのだ」
一見、使命感と愛国心溢れる言葉を口にするユーリヒト。
しかし、これには自己保身から、そうせざるを得ない、という現実的な打算もあった。
(他国や民衆以前に、宮中人どもに、俺が虚弱体質と思われれば、どうなることか。他家に養子に出されるならいい方で、最悪殺されることもあり得る。何度もいうが、七年前とは異なり、もう唯一無二の男系後継者ではないのだから)
そうした背景もあり、記憶を取り戻した後も、将来有望な君主と他者から見られるよう、ユーリヒトは皇太子らしく振舞い続けていた。
尤も、家族や国を思う心も全くの出まかせというわけではない。前世の記憶が蘇る以前は、当たり前のように、皇太子としての義務と思想を教えられてきた経緯がある。
それだけに、これまでの言葉は、前世の大学生であった一条優理の小賢しい打算と、生まれながらにして将来の君主であることを強いられたユーリヒト・ヴェルヘイム・フォン・ホーエンベルクの使命感と愛国心が、複雑に混じり合ったものであった。
そんな事情を知るすべのないアレンスは、微かに物憂げな表情を作った。
「……自らの身命よりもブラウンベルグの行く末を、そのお歳で重んじる皇太子殿下のお覚悟には感服いたしました。それに比べて私の言葉が軽率であった事も事実でしょう……ユーリヒト様の深慮深さに頭が下がる思いです」
そう言って、いつになく真剣な声音で、先を続ける。
「ただ、一つだけ言わせていただきたい」
「なんだ?」
「君主は孤独であることは事実です。しかし、国は君主一人で支えられているわけではない。ましてや、ユーリヒト様は未だ皇太子に過ぎません。どうか、この言葉をお心に留めて頂けますと幸いです」
「……肝に銘じておこう」
それだけ言うと、ユーリヒトは衣服を翻し、アレンスに背を向けた。