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ひゃくぶんはいっけんにしかず


覆われていた包帯が解かれた時、最初に感じたのは眩しさだった。

耐え切れずにきつく両眼を閉じる。

その反応に、周囲からは安堵と感嘆の息が漏れた。成功、したらしい。


「ローウェル様……お加減は如何ですか」


トリルの神経質な声が右前方から聞こえ、俺はおそるおそる瞬きを繰り返した。光に慣れ始めた眼球が、焦点を合わせだす。正面に仏頂面の兄、その隣にトリル、後は、知らない面々が広い部屋にまばらに立ち尽くしていた。

気になったのは、その中にフラネルらしき人物がいないことだった。

他の仕事中なのだろうか。手術を待っていてくれると言ったのに。

と、眉間に深い皺を寄せた兄が重々しく口を開く。

「見えるのか」

俺はこくりと頷いた。

「見える……老けたね」

幼少の面影を残しながらも兄は確実に歳を重ねていた。

しかし、それは俺も同じことで。

「お前もな」

「……」

俺は椅子に腰かけたまま、意味もなく自分の両手や足やらを眺めまわした。ごつごつした大きな手も、光沢のある紳士靴も、まるで見慣れず、自分だという実感が湧かない。

「鏡をお持ちしましょうか」

兄が取り巻き達と握手を交わしている間を縫って、トリルが歩み寄ってくる。

「いや、自分で歩くよ」

言って、俺は杖をつきながら姿見の前へ移動した。

頭のてっぺんからつま先まで映しても余りある大鏡に、見知らぬ男が映りこむ。男は、笑うでも泣くでもなく淡々と俺を見つめ返していた。目は二つ、真ん中に鼻、その下に唇がひとつ。平凡な、なんとも面白みに欠ける顔だちだ。

彼女は、本当にこんな顔が好きなのだろうか。

こそばゆく思いながら、椅子に戻る。視界から伝わる情報量の多さに、脳が追い付けず、頭がぐらりとした。人並みに歩くには、時間が必要なようだった。

「激しい運動は控えてください。散歩などをして、じょじょに慣れていってくださいませ」

白衣をまとった医師らしき人物の説明をトリルが小さな文字でメモに取る。どうにも長くなりそうなそのやり取りに、俺は口をはさんだ。

「トリル」

「はい?」

「フラネルは?」

トリルは怪訝な顔をした。

「御用でしたら、私が承りますが」

「いや、フラネルに用があるんだ」

言いながら、胸が昂揚していくのを抑えることが出来なかった。

彼女はいったいどんな顔をしているのだろう。

掴んだ手の感触や、肩を貸してくれた時の体感では、自分よりだいぶ小柄な印象を受けたけれど。

「呼んできてくれないか」

彼女には本当に世話になった。

どんな礼をしてあげたら良いだろう。

何をしたら喜んでくれるだろうか。

年頃の女の子が欲しがる物がわからなくて、俺の妄想はそこで潰える。

ああ、とにもかくにも、失礼がないように振る舞わなくては。

緊張してきた俺を、トリルの冷えた瞳が貫く。

「お生憎ですが」

声には疲労と呆れとがこもっていた。

「フラネルでしたら、本日付けで退職しております」

「……」

「突然、辞めると言い出したのです」

トリルはやれやれと言うように、息を零した。動きが止まった俺に構うこともなく、色素の薄い唇をぼそぼそと動かす。

「全く。ローウェル様にご挨拶もなかっただなんて。これだから素性の知れない者は」

「……素性が知れない?」

低い声で聞き返すと、トリルはいささか罰の悪そうな顔をした。

「人手が足りなかったもので、紹介状なく雇用したのです。あの娘に限ったことではありませんし、旦那様もご承知にございます」

俺は眉をわずかに潜めるにとどめた。

失笑も漏れなかった。

俺の世話をしたがる者がいないことは知っていたし、上級召使をつけられずとも特にかまわなかった。更に言うならば、その条件であればこそフラネルに会えたのだとしたら、むしろそれは歓迎すべき事柄だった。

だが、今重要なのはそんなことではなく。

「フラネルは何処に?」

焦燥に、知らず早口になっていた。

トリルが委縮する。

「わかりません。なんでも、新しい職場を見つけたといって」

「新しい職場?」

頭に血が上るようだった。

「何処のどいつだ、彼女を雇ったのは。いくら払ったら彼女はもう一度戻ってくれる」

「……っローウェル様、落ち着いてくださいませ」

声を荒らげた俺に驚いて、兄達が振り返る。

「どうした」

「わかりません、突然使用人はどこだと」

「後遺症か?」

「兎角、鎮静剤を」

俺は抵抗したが、大の男三人もの力に敵うわけもなく易々と取り押さえられた。握りしめた拳は大人のそれなのに、腕力は子供並みだった。

ベッドにうつ伏せに押さえつけられ、荒々しくシャツの袖をまくり上げられる。手際の良い医師が、黒鞄から注射器を取り出し、躊躇なく俺の腕に針先を刺した。

「……っ!」

せっかく手にした視界が回る。

自分の非力が情けなく、口惜しく、苦しかった。





社交界は、色と音に溢れている――。


「ほら、あちら」

「ローウェル様よ」


豪奢なシャンデリア。

天井画の素っ裸の天使たち。


「素敵ね」

「ええ。永いことご病気を患っていらしたそうだけれど、完治されたそうよ」


色味鮮やかな食事に

見目麗しい花のような令嬢達。


「お兄様が、ずっと看病されていたのだとか」

「ウェンデル伯は弟思いでいらっしゃるのね」


娘たちの軽やかなささやき声を、意識から追い出す。

どの声も、違う。

俺が聞きたかったのは、あの奇妙な叫びや、明るい、屈託のない声。


フラネルの声だった。



光を取り戻してから、半年。

フラネルとは会えず仕舞いだった。

ほうぼう手を尽くしたのだが、職務経歴書をたどっても、職業斡旋所を訪ねても、誰も彼もがわからないと首をふった。

たった一言、礼を言いたいだけなのに。

何処にいるのだろう。

元気でいると、いいのだが。


俺はこの半年、体力を取り戻しながら、上流階級の訓練を受け、つい先日社会復帰を果たした。

社交界でも顔見知りができ始め、新しい人生が始まろうとしている。

兄との微妙な確執は続いているが、世話になった恩義もあり、また売名行為とはいえ視力を戻してくれたことには少なからず感謝もしていた。

いつかは、兄の仕事の補佐が出来るようにと勉強を続けている。


世界は美しく

空の青さひとつをとっても

涙が出るほどだった。


ただ、ひとつ。

常につきまとう悩み。

胸にしこりのように残るのは、フラネルのことだった。


トリルに聞いた話では

フラネルは

薄茶の髪に、青い目を持っていたという。

そうして顔には、ひどい痣があったと。

彼女の言っていたソバカスだろうと思ったけれど

トリルはそんなに可愛らしいものではなかったと渋面を作った。


そんなの、どうだって構いやしないのに。


俺はフラネルを探し続けた。

ただ、ただ、彼女に会いたかった。

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