おわりよければ
◇
「なるほど」
ローウェル様のお兄様が本宅へ帰った後、私はローウェル様の簡単なご事情を知った。
魔力がほとんどない私には、縁のない話だったのだ。
「それでずっと魔力を提供されているワケですか」
言いながら、茹でたアスパラを口に含む。うん、今日は大成功だ。塩加減もちょうどいい。
「そうなんだ。献血みたいなものだと思ってるけど、採られた後はいつも頭がくらくらして困る……ん、これ美味しいね」
白身魚のスープを飲み込んだローウェル様が口元をほころばせる。
私はにんまりと口角をあげる。シンプルに見えて、結構手が込んでいるのだ。
「お口にあって良かったです……!でも、血も抜かれちゃったのなら、レバーの方が良かったでしょうか」
明日は肉料理にしようと決心する。
と、ローウェル様が言った。
「なんでもいいよ。フラネルの料理は好きだ」
向かいの席でにこりと少年のように微笑まれる。
本当に可愛い男性だ……。
一緒に食事を、と誘われたのはその日が初めてだった。
「兄がごめんね」
ローウェル様の私室で、小さな円卓に食事を並べると、開口一番にローウェル様はそう言った。
そうしてお兄様との関係を教えてくださったのだった。
ご当主であらせられるローウェル様のお兄様は、渋面のまま館を出て行った。艶やかな黒髪と綺麗なお顔立ちに、最初はドッペルゲンガーかと誤認してしまうほどローウェル様と似ている気もしたが、ようく見れば微妙に違っていた。
「兄とは二つ違いで、俺がこうなる前は一緒に遊んだりもしていたんだけど」
病で倒れてからは、ローウェル様はこの旧館に移されたのだと言う。
「でも、医学は日々進歩していますから、きっとローウェル様の瞳も良くなりますよ!」
「そうかな?」
「そうですよ」
自信を込めて言えば、ローウェル様は「そうだと良いな」と瞳を細められた。
「フラネルの顔を、見てみたい」
私は「ええ!」と大きく胸を張った。
「こんな顔で良ければ、いくらでもどうぞ」
日々は穏やかに過ぎていった。
私はローウェル様の身の回りのお世話をさせて頂きながら、古びた屋敷を、少しずつ、少しずつ整えて行った。幸い、時間はたっぷりあった。
埃だらけの図書室を開拓し、ローウェル様のお側で朗読して夜を楽しんだ。
雑草だらけだった庭には草花を植え、ローウェル様の手を引いて散歩をした。
良い匂いがする、とローウェル様は微笑んでくださった。
それだけで、私の労力は報われるような気がした。
相変わらず、借金の取り立ては続いていたし、失敗はあったけれど、十六年の人生の中で、それが私の絶頂期だった。
こんな日々が続けばいいのに。
私は両手を太陽に伸ばして大きく伸びをした。
ローウェル様にとっての最大の幸運が、音を立ててやってきていることも、気付かないまま――。
◇
それは、ローウェル様と暮らし始めて半年が経った頃。
ひと月に一度だけ顔を見せるお兄様が、その日は背後に数名のお供を連れていらっしゃった。お兄様を始め、皆物々しい雰囲気を醸し出している。
「なんだろう」
複数の足音に、ローウェル様も困惑を隠せずにいらっしゃった。
「俺から離れないで」
と、私に耳打ちしてお兄様たちを客間に迎える。
人数分の紅茶が揃う前に、お兄様が話を切り出した。
「朗報だ。お前の目が治るぞ」
ソーサーを持つ手が震えた。
思ってもみなかった展開に、私は思わずお兄様を振り向く。お兄様は、訝し気に私を一瞬見やる。部外者を見る瞳だった。
「治るって?」
ローウェル様が続きを促し、お兄様の視線が私から外される。
お兄様の右隣を陣取っていた頭の寂しい男が言った。
「ええ。治りますとも。画期的な魔術が確立されたのです。大量の魔力を使用するため、治療費が高額にはなりますが」
「弟のためだ。惜しむつもりはない」
お兄様はきっぱりと断言する。
惜しむつもりがないなら、お屋敷だって綺麗にしてあげてたら良かったのに。私は紅茶を配りながら、心の中で不満を燻らせた。
しかし他の人間には、お兄様が弟思いの優しい兄に見えたのだろう。
「いやはや、素晴らしい兄君をお持ちだ」
魔法医学界の権威らしい男性が、ゆっくりと頷く。
「これは一面記事になりますな」
「ええ。楽しみにしておりますよ」
彼らは好き勝手な談笑をすると、手術は一週間後だと告げて、館を後にした。
「良かったですね」
私は七名分の紅茶を下げながら言った。
ローウェル様は客間の椅子に腰かけたまま、戸惑いを隠せないでいらっしゃった。
「うん……嬉しいけど、まだ実感が湧かないよ」
「そうですよねえ。いきなり言われてもですよねえ」
でも、お兄様の仰っていた通り、朗報には違いないのだ。
ローウェル様の瞳が見えるようになれば、素晴らしいことばかりだ。
おひとりでお散歩も出来るし、好きな本も読める。
私がいなくても。
「そうだ。来週からは本邸にお移りになられるんですよね。色々と、準備しないとですね」
だからそれを淋しいと思う私は、歪んでいる。
「本当に、良かったです」
私は、必要とされたかった。
◇◇◇
夜。
誰もが眠りについた頃。
磨き抜かれた鏡には、美しい青年と醜い少女が映り込んでいた。
赤茶色に変色した古傷は、少女の肌によく浸透している。
光を失った青年は、気付けない。
少女は努めて明るく言った。
「いよいよ明日ですね」
明日、青年は光を取り戻す。少女の正体に気づくだろう。
「うん……少し怖いよ」
だから、と青年は少女の手を求めた。
「握っていてくれる?」
「ええ」
勿論です、と少女は微笑んだ。
青年は少女の小さな手を握りしめる。水仕事を終えたばかりの少女の手はひんやりと冷たかった。温めてあげたくて、捕らえた手に力を籠める。
「やっと君の顔が見られる」
聞こえなかったのか、呟きに返答はなかった。
そうではなかった。
少女は泣いていたから、答えることが出来なかった。それだけだった。