こうかいさきにたたず
「本当にごめんなさい……さっきのはですね、あの、決してローウェル様を犬と思ったわけではなくて」
もう何度目になるかわからない無礼を、大天使ローウェル様はやはり笑って許してくださった。もはや神だった。
「いいってば。それより、頭洗ってくれて本当にありがとう。すごく気持ち良かった」
「本当ですか……?」
「うん」
満足そうに笑うローウェル様に、私はほっと胸を撫で下ろした。良かった。どうやら、初日解雇は免れたようだ。
私は椅子に座ったローウェル様の背後にまわって、彼の濡れた長い髪を拭きあげる。
「失礼しますね」
「ん」
ローウェル様のそれは女性にも劣らない、絹のような手触りをしていた。
結局その日はローウェル様の身体を拭いて差し上げることしか出来なかった。
ローウェル様の私室の続き間には立派な浴室があるにはあったのだが、屋敷同様、何年も掃除をされていなかったそこは、使い物にならなかったのだ。せっかくの陶器の浴槽は薄汚れ、窓も閉めきられていたせいでひどい匂いに満ちていた。
と、同時にそれは、ローウェル様が何年も浴室を使用されていないことを意味しているわけで――ローウェル様は入浴があまりお好きではないのだろうか?
主人の好みを把握するのも仕事のうちだと、さりげなく尋ねてみた。
そうして、後悔した。
「そういうわけじゃないけど――こんな目だから、手がかかるしね」
諦めたようなその口調に、私の胸はぎしりと痛んだ。
また、失言。
自分の鈍感さが本気で嫌になる瞬間だった。
なんて馬鹿な質問をしてしまったんだろう。
「……すみません」
「ああ気にしないで。七つの頃からだからもう慣れてるし」
「事故ですか?」
「ううん、病だった」
なんてことないように言うのは、それ以上話を掘り下げて欲しくないからだろうか。
「……」
彼の後頭部しか見えなかった。けれど確信した。ローウェル様は今、あの、どこか他人事のような微笑みを浮かべているのだろうと。
彼の長い髪を梳かしながら、朽ち果てた屋敷の隅に目を走らせる。
行き届いていない掃除。天井の蜘蛛の巣。蝋燭の立てられていない燭台――。
それらから推察できる厭な予感に気分が落ち込んだ。
もしかして
目を患われたという七つの頃から、ローウェル様はこのお屋敷にいれられたのだろうか。
たった一人で、
まだ、子供だったのに?
ご両親は?彼の家族は?
“決して、表へは出ないでくださいませ”
トリルさんの反応から察するに、表の屋敷の人たちはローウェル様とほとんど関わっていないのだろうと思えた。
それってとても、淋しくはなかっただろうか。
いや、淋しくないわけがない。
数時間前に会ったばかりだ。
ローウェル様の気持ちなんてわかるわけがない。
でも、想像してみることは出来た。
目が見えない――それってどんなに不便だろう。
何処になにがあるかもわからない。
昼か夜かもわからない。
誰がそこにいるのかもわからない。
――ひどい恐怖ではないだろうか。
そんな日常を受け入れるまで、ローウェル様はどれほどの努力をなさったのだろう。
どんな考えに至って今ここにいらっしゃるのだろう。
私はローウェル様の髪を傷めないように丁寧に布で覆った。
「痛くないですか?」
「ううん――気持ちいいよ」
ローウェル様は少し気の抜けた声で言った。眠いのだろうか。
撫でるように彼の髪を拭きあげてみる。
「なにかされたいことがあったら、どんどん仰ってくださいね。私は、そのためにここにいるんですから」
「ん……ありがとう」
どのくらいこの職場にいられるかは分からない。
けれど、ローウェル様となら上手くやっていけるような気がしていた。
借金まみれで、醜い顔をした、こんな私でも。
次回は元気だけが取り柄のヒロインさんの生い立ちと、ローウェルの素顔の予定です。