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ELEMENT2019春号  作者: ELEMENTメンバー
テーマ創作「蓋」
3/15

また蓋がなくなりました(作:霜月透子)


 自転車のチェーンケースがカチャカチャ鳴る。家には母親が乗らなくなったママチャリしかないんだから仕方がない。自分の自転車は原付バイクを買った時に手放した。高校の時だから、かれこれ十年も前になる。それ以来自転車に乗る機会なんてなかったけれど、案外普通に乗れるものなんだなと妙に感動する。

 大通りから逸れて、歩道もない裏道に入るとすぐに、板金工場や寂れたスナックの先に三階建てのビルが見えてきた。二階の窓の横には『磯貝プリント株式会社』の看板がある。看板の真下に自転車を止めていると、三階の窓が開く音がした。


「石井くん、手を怪我しているのに自転車に乗ったら危ないでしょお」


 パートの大塚さんだ。


「大丈夫ですって。一応、原付はやめて自転車にしてるし」


「ハンドル握るのは同じじゃない。営業車を運転しなくても自転車に乗ってたらだめよー」


「だからぁ、車の運転もできるんですってー」


 捻挫の治りかけた左手首をプルプルと振って見せると、大塚さんは自分の手が痛むみたいに顔をしかめた。僕は笑って、重いガラスドアを押した。

 入ってすぐの階段を上ると、二階は仕切りのない事務所フロアが広がっている。一階は作業場、三階は社長や専務のオフィスだ。

 磯貝プリント株式会社は、七十代の磯貝社長を筆頭に、家族経営から始まった小さな印刷会社だ。従業員は八十人程度。うち正社員は二十人ちょっとで、あとはパートとバイトの人たちで成り立っている。


 最後の踊り場を越えたあたりで、上から「よお」と声をかけられた。顔を上げると、磯貝社長がマグカップ片手に立っていた。給湯室から社長室へ戻るところなのだろう。


「あ。おはようございます」


「おはようさん。石井ちゃん、また自転車で来たんだって?」


「あー。大塚さんかあ。伝わるの、早いですね」


「事故ったらあぶねぇぞ。せっかく手が治るまで内勤にしてるのによ」


 僕の仕事は営業だ。といっても、呼び出しのかかった得意先を回るだけのルートセールスだから気楽なものだ。そして、手首の捻挫はちょっとひねっただけのもので、しかももうほとんど治りかけている。湿布を貼ってはいるが、少し違和感があるだけで痛みはない。だけど社長は完全に治るまで車に乗るなと言った。


「全然問題ないですよ。今日からだって営業に出ますよ?」


「完全に治るまでおとなしくしてろ。おまえの担当の外回りは健一がやってるんだから心配するな」


 健一というのは社長の息子で専務の磯貝健一だ。小さな会社とはいえ、下っ端社員の仕事を専務に代行してもらうのは落ち着かない。

 どうにか営業の仕事をさせてもらえないかと言葉を選んでいると、社長は事務所に向かって野太い声で叫んだ。


「おおい、つかっちゃん! 今日もこいつを見張っといてくれや」


「はーい。任せといてー」


 奥のキャビネットの影から、声とともに作業服の腕が上がった。

 かくして、今日も僕は大塚さんの見張りつきで雑用をこなすことになる。




「あれ? 蓋がある」


 午後イチで給湯室に入るなり、大塚さんが動きを止めた。ミーティングルームで打ち合わせ中の取引先の人たちへのお茶を用意しに来たのだった。

 僕が見たところ、給湯室の様子に昨日までとの違いはない。ステンレス製のシンクと水切りかご。左手にある食器棚の上段には来客用の湯飲み、コーヒーカップ、ティーカップが並び、下段には従業員各自のマグカップが並んでいる。その下、腰の高さの部分は棚になっていて、そこに茶葉やコーヒー豆などが入っている。茶筒やインスタントコーヒーの瓶やお菓子の缶などに蓋はついているが、あって当たり前である。


「なんの蓋ですか?」


「全部よ」


「全部って?」


「全部は全部よ。これや、これや、これや、これもっ!」


 大塚さんは茶筒や瓶や缶の蓋をパーカッションのように軽快に叩いた。


「いやいや、蓋はあるでしょ、普通。なかったらなんのための蓋ですか」


「でも今朝はなかったんだもの。だからとりあえずと思って、ラップをかけておいたのよ」


 容れ物という容れ物にかけておいたというラップはすべて外されて、足元のゴミ箱に捨ててあった。何枚ものラップがくしゃくしゃにして捨てられているものだから、もこもこと膨らんでビールの泡みたいになっている。

 大塚さんは、それでなにかがわかるわけでもないだろうに、片っ端から蓋を開けては閉めていく。


「大塚さん、蓋がなくなったならともかく、戻ってきたならいいじゃないですか。とりあえずはお茶を持っていかないと」


「そうだった、そうだった」


 僕がトレーと湯飲みを用意しながら促すと、大塚さんも慌ててお茶の用意を始めた。




 ミーティングルームにお茶を出した後、給湯室に戻って出しっぱなしだった茶筒や急須を片付けていると、ガサガサとレジ袋らしきものの鳴る音が近づいてきた。


「ただいまー」


 専務の磯貝健一だった。


「お疲れさまです」


 僕は深くお辞儀をした。僕の担当区域まで回ってもらっていると思うと、自然と頭を下げていた。


「おかえりー、健一くん」


 一方、大塚さんは専務に向かって「くん」付けである。社長も専務も『磯貝』なので紛らわしいというのがその理由だ。役職で呼び分けるという選択肢はないらしい。

 専務も慣れたもので気にする様子もない。


「大塚さん、頼まれたの買ってきたよ」


「ああ、ありがとね」


 大塚さんは専務からレジ袋を受け取ると、中からラップを二本取り出して戸棚にしまった。


「え。大塚さん、専務にこんな買い物を頼んだんですか?」


「そうよお。だって外に出るついでじゃない。ねえ?」


 最後の「ねえ?」は専務に向けて放たれた。専務は、いいんだいいんだ、というように片手を振りつつ給湯室から出て行った。


「ちょっと人使い荒くないですか? 仮にも専務ですよ」


「石井くん、専務のことを『仮にも』とかいっちゃうんだ?」


「あ、いや、それは、言葉のあやっていうか……って、そういうことじゃなくてですね」


「だってねえ、ラップの消費が早いんだもの。蓋がなくなるたびに使うでしょう」


「は? なくなるたび? 蓋がなくなったのって、今日が初めてじゃないんですか?」


「そうねぇ、もう三日間くらい続いているかしら」


「そんなに?」


「そんなに、よ。しかもご丁寧に蓋という蓋が全部ね」


「僕、今日初めて知りましたよ!」


「タイミングが合わなかったのねぇ」


 大塚さんは、まるで僕が不運であるかのように言う。


 たまには蓋の一つや二つがなくなることもあるかもしれない。蓋を開けたところで誰かに呼ばれたりしたら、どこかその辺に置き忘れてもおかしくないし、その蓋を見つけた誰かがもとに戻すこともあるだろう。

 だけど、一斉に蓋という蓋がなくなって、また一斉に戻されるというのはそう何度もあるとは思えない。何度もどころか、ただの一度あっただけでも不可解だ。


「それ、誰かが蓋を外しているってことですよね?」


「もちろんそうでしょうね」


 大塚さんは、だからなに、と続けた。


「なにって、その人を突き止めてやめさせないと!」


「その日のうちに元に戻っているんだし、いいんじゃないの? まあ、茶葉とかが湿気ないようにラップかけなきゃならないのが面倒だけど」


「いやいや、だめでしょ。上の人間に言わないと。とりあえず、今村課長かな」


 僕の本来所属する営業課ではなく、大塚さんの上司にあたる庶務課長の名前を上げると、大塚さんは心底嫌そうに鼻にしわを寄せた。


「あの人に言うのだけはやめてよ。ラップの消費量を知ったらなんて言われるか!」


「ああ。それもそうか……」


 僕らはそろってゴミ箱に目をやった。蓋が戻ってきたことで剥がされたラップが山盛りになっている。今村課長に見つかったらお説教が始まること間違いない。


 入社したてのころは、すこしばかり今村課長に憧れていたりもした。なかなかお得意様の情報が頭に入らなくて苦戦していたときも、今村課長の姿を見ると元気が出たものだ。既婚者だろうが、小学生の母親だろうが、ただ憧れる分には支障ない。テレビの中の女優を見ているようなものだ。

 だけど、それも束の間のことだった。

 今村課長は、なんというか、その、エコに熱心な人だったのだ。

 もちろん、いいことだと思う。僕だって地球を破壊する手助けよりは大切にしていきたい。だけど、いきなり徹底的にやれと言われてもなかなか難しい。それに、だいたいにおいて手間がかかることだったりする。


 以前、今村課長は、昼食にコンビニ弁当を買ってきた従業員に対し、割り箸をもらうなと言ったことがあった。


「お箸くらい持ってこられるでしょう」


「まあそうですけど、割り箸って間伐材ですよね。そういうのを利用するのって、むしろエコなんじゃないんですか?」


「製造過程でたくさんのものが消費されているのよ。個別包装されているその袋だって石油だし」


「ちゃんと分別して……」


「廃棄する際には、小さいからってきちんと分別していないでしょ」


「……」


「そもそも、その割り箸が間伐材で作られているとは限らないのよ。本来は間伐材を使っていたけど、需要が上回ったせいで、割り箸用に伐採することもあるの」


 なんて言われ続け、ついには誰も事務所で昼食を取らなくなった。


 飲み物を買ってくることに関してもその調子だった。ペットボトルだの缶だのはリサイクルすればいいと思っているんでしょうけど、そのリサイクルにもエネルギーが……云々。そして渋々こうしてマイマグカップが給湯室に並ぶようになったわけだ。


 今村課長の言うことはもっともだ、でも、そこまでやりたくはない。きっと誰もがそう思っているのだろう、今村課長の目があるときだけ消耗品の使用を控えるようになった。

 それでもかなり資源の無駄遣いを抑えた職場になっていると思う。結果的に今村課長のエコ活動は成功しているといえる。

 ただ、そんな今村課長にこのラップの大量消費が見つかったら、どれほどの小言が待っていることか。


 証拠隠滅とばかりにゴミをまとめようとしていると、当の今村課長がバインダーを抱えて廊下を通り過ぎていった。


「うっわー。あぶねー」


「戻ってくる前に片付けちゃいましょ」


 大塚さんとゴミ箱を挟んで向かい合った瞬間、背後から声がかかった。


「なにが戻ってくるんですか?」


 通り過ぎたはずの今村課長が給湯室の入口に立っていた。大塚さんがゴミ箱に覆いかぶさり、ごほごほと咳込んでいる。そして、今村課長から見えない角度で僕のことをバシバシ叩く。取り繕えということらしい。


「えっと、いや、あっ、大塚さんが……そ、そう! ランチの食べ過ぎで『戻しそう』になって……いてっ!」


 バシッと大塚さんに尻を叩かれた。


「まあ。大塚さん、大丈夫? トイレに行く?」


 今村課長はツカツカと給湯室に入ってきて、大塚さんの背中に手を置いた。


「あ! いや、僕が連れていくので大丈夫です!」


「石井くんは男性だから女子トイレの中まで入れないでしょ」


「じゃあ男子トイレに連れていきます!」


「なに言ってるのよ。大塚さんは女性なんだから、男子トイレに連れてったらだめでしょ。さ、大塚さん……」


 誤魔化しようがなくなり、大塚さんがゆっくり振り向く。僕の方からはゴミ箱の丸められたラップが丸見えだ。今村課長のはっと息を吸う音が聞こえた。


「ちょっと、あなたたちっ……」


 やべっ。

 大塚さんと顔を見合わせる。


「レジ袋は断りなさいって言ってるでしょ!」


「へ?」「は?」


 今村課長は、磯貝専務がラップを買ってきた際のレジ袋を握り締めていた。


「あ……すみません……」


 反射的に謝ってしまう。


「……まあいいわ。次から気を付けてよね」


 寛大にも、今村課長はそのまま給湯室を出て行った。

 大塚さんと顔を見合わせる。


「大塚さんをトイレに連れていくんじゃなかったでしたっけ?」


「そうよねぇ。てっきり連れていかれるかと思ったけど」


「レジ袋に気を取られて忘れちゃったってことですか?」


「そうなんだろうねぇ」


 おそらく罪状としてはラップの大量消費の方が重いだろうから、うまいこと逃げおおせたと言える。僕たちは、はあ、と声に出して大きく息を吐いた。



      *



 翌朝、また蓋がなくなっていた。今度は僕が第一発見者だ。


「おはようさん」


 磯貝社長が給湯室に入ってきて、食器棚に向かう。


「おはようございます。コーヒーですか? 淹れますよ」


「いいって、いいって。それくらい自分でやるよ……って、ありゃ。また蓋がなくなったの?」


「またって、社長も知ってたんですか?」


「昨日、つかっちゃんから聞いたよ。実際になくなってるのを見たのは初めてだけどな」


 放置するようなこと言っていたのに、ちゃんと報告してくれたんだな、と感謝しかけて、いや、単に例のおしゃべり癖が出ただけだろうと思い直した。それでも、磯貝社長の耳に入っているなら話は早い。


「この件、どうにかしないとまずくないですか?」


「そうだなあ。一時的にせよ、口に入るものが蓋のない状態じゃあ、衛生上よくないだろうしなあ」


 はたしてそこが一番の問題なのかわからないが、ひとまず「ですよね!」と答えておく。ところが磯貝社長は、恐ろしいことを言った。


「今村ちゃんにでも相談してみるかー」


「いやいやいや、それはなしでしょう。たしかにラップの消費量が多いからといえば、真剣に取り組んでくれそうですが」


「だろ? 今村ちゃんのエコ意識はすごいからな。ほら、あの人、子供いるだろ?」


「はい。小学生でしたよね。女の子でしたっけ?」


「そうそう。その子が赤ん坊のころなんてよ、布おむつ使ってたんだぞ」


「え? いまどき?」


「だよなあ。昔はみんな布おむつだったけど、今じゃほとんど使わねえだろ」


「なんか、すごいですね」


「今村ちゃんって、すごいんだよ。ちょっと口うるさく感じるだろうけど、頑張り屋なんだよな。だから、この件も頼めば一生懸命調べてくれると……」


 話がつながったことに気づいて、僕は慌てて遮った。


「いやあ、でも、やっぱ今村さんはちょっと……」


「そうかあ? じゃあ、石井ちゃん、なんかわかったら教えてな」


「えっ! 僕ですか?」


「だって、みんなは通常業務があるだろ」


 それを言われてしまうと返す言葉がない。


「まあ、そうですね……」


「でさ、蓋を隠したやつがわかっても、本人を問い詰めるのは待ってくれや」


「なんでですか? 早くやめてもらわないと困るじゃないですか」


「そうなんだけどよ、なんか理由があるんじゃないかな。ただのいたずらなら、わざわざ元に戻すこともないと思うんだわ」


「たしかにそうですね」


「だろ? その理由を解決しないことには、蓋がなくならないことで、その人が困るかもしれないしな」


「……社長、いい人すぎませんか?」


「まあな! じゃあ、よろしくな、石井ちゃん!」


 淹れたてのコーヒー片手に去っていく磯貝社長の後ろ姿を見送って、『いい人』っていうのは皮肉だったんだけどな、と苦笑した。


 とりあえず、蓋のなくなった容れ物にラップをかけなければ。たしか大塚さんは戸棚にしまっていたよな、と記憶をたどる。

 戸棚を開けると、何本もあって驚いた。けれども、手に取ってみると、昨日専務が買ってきた二本を除いて、残りはすべて使用済みの空き箱だった。今村さんの目から隠しているのだろう。こんなに空き箱があったら、大量に使ったことがばれてしまう。今村さんがいないときを見計らってこっそり捨てるしかない。


 どうせまたすぐに蓋が戻されるんだろ、と思って、かなり適当にラップをかけていく。

 大塚さんは大した問題じゃなさそうに言っていたけど、やっぱりこんな面倒なことが続くのはごめんだ。社長になんとかしてもらうつもりが、カウンターくらって僕が犯人捜しをする羽目になってしまったし、ここは覚悟を決めて解決してしまおう。


 僕は廊下に出て、給湯室に近づく人がいないことを確認すると、事務所を見渡した。

 始業の九時まであと二十分。まだ人は少ない。みんなぎりぎりの出社だし、営業は客先に直行する場合もあるから、いつも通りの光景だ。いつもと違うのは、大塚さんがいないことくらいだ。僕より先に出社したようだが、朝イチで振り込みがあるため、すでに銀行へ向かったとの伝言メモがあった。

 営業の島で、磯貝専務と数人の従業員が打ち合わせとも雑談ともつかない話で盛り上がっている。そのうちの二人が、手にマグカップを持っている。給湯室の水切りかごにスプーンがあるから、インスタントコーヒーを自分で淹れたのだろう。

 ほかには、と飛び飛びに埋まっている席を眺めていく。朝食と思われるサンドイッチにかぶりついている女性事務員が机上にマグカップを置いているのが見えた。


 今朝、給湯室に入ったのはこの三人か。

 昨日は蓋が戻されていた。ということは、犯人は、昨日僕より後に帰った人か、今日僕より先に出社した人の仕業ということになる。


 始業前だというのに早くも大量の封入作業をしていた今村課長が顔を上げたので、慌てて給湯室に姿を隠した。不審に思われて蓋の紛失に気づかれたら面倒だ。

 階段を伝って、二階の作業場から印刷機の音が聞こえ始めた。起動するまでに時間がかかるから、先に電源を入れたところなのだろう。二階にもすでに何人かはいるということだ。給湯室は三階だが、二階の従業員もここを使っている。今朝も誰かが入ってきたかもしれない。


 これでは容疑者が多すぎる。しかも、蓋の紛失は今朝起こったとは限らないのだ。昨夜かもしれない。そうなるともうお手上げだ。

 動機がわかれば犯人が絞り込めるかもしれないが、いたずら以外の目的が思い浮かばない。いたずらだとしても、これだけの数の蓋を外して戻すなんて、手間がかかりすぎではないだろうか。そして、それで多少なりとも困るのは僕と大塚さんくらいなものだ。ほかの人が第一発見者になる日もあるかもしれないが、おそらくその人はまず大塚さんに声をかけるだろうし。


 ということは、犯人は、大塚さんに恨みがある? もしくは、僕に?

 まったくもって心当たりがない。大塚さんだってそうだろう。だが。

 僕は湿布を貼った左手を見る。

 営業部に迷惑をかけているのは確かだ。それで恨みを買っている? まさか。たとえ僕のことを恨んでいたとしても、営業の人たちは、こんなことをするほど暇じゃないはずだ。


 終業開始のチャイムが鳴った。

 僕は頭を振って、ひとまず仕事モードに切り替えた。




 郵便物の仕分けをして、各担当者の机上に配っていると、バタバタと大きな足音が階段を上ってくるのが聞こえ、事務所の入り口で止まった。


「い、石井くんっ……!」


 朝から銀行との往復で体力を使い切ったのか、ドア枠と膝に手をついた姿勢の大塚さんが立っていた。


「おはようございますー。振り込み、お疲れさまでしたー」


 離れたまま挨拶をして郵便物の配布を続けようとしたが、大塚さんが事務所に入ってくる気配がない。改めて入り口を見ると、せわしなく手招きをしている。『僕?』と自分を指差すと、大塚さんの手招きの速度が上がった。一体なんだろうと思いながら、郵便物の束を自席に置いて事務室を出た。

 大塚さんに左手首をつかまれて給湯室へ連れていかれる。捻挫した方の手である。


「お、大塚さん。さすがに引っ張られると痛い……」


「あ。ごめん」


 大塚さんは投げ捨てるように手を放した。それから、僕を給湯室の奥の角に押し付けると、一旦廊下を見渡しにいって、すぐに戻ってきた。それからなぜか戸棚の中をひっかき回していたかと思うと、僕の横の壁に片手をついた。


「えっと、大塚さん。なんだろ、これ? 僕、壁ドンされてるんですかね?」


 僕の軽口なんか耳に届いていないらしく、大塚さんはさらにもう片方の手も壁についた。完全に角に閉じ込められている。なんだ、これ。


「……わかったわよ」


「へ? 僕、まったくわからないんですけど」


「蓋よ、蓋」


「え。蓋の謎、解けたんですか?」


「蓋であって、蓋じゃなかったのよ」


「は? ますますわからないんですけど」


 大塚さんはにやりと笑う。


「銀行にヒントがあったわ」


 そう言って、撮影画像を表示したスマホを印籠みたいに掲げた。



      *



「ありがとうございました」


 今村課長があちこちを回って頭を下げている。


「いやいや、気にしないで」


「よかった、よかった」


 そんな声を返されている。

 僕と大塚さんは事務所の入り口でその様子を眺めていた。




「石井ちゃん、つかっちゃん、ちょっと」


 背後からの声に振り向くと、磯貝社長が顎をしゃくって三階に来るよう促した。僕たちは顔を見合わせてから階段を上った。

 社長室に入ると、磯貝専務が応接用のソファに座っていた。目の前のテーブルに、社長室にはふさわしくないオブジェが鎮座している。


「あら。かわいい」


 大塚さんがいつになく高い声を上げる。

 僕たちがよく見えるようにと、磯貝専務が立ち上がって応接セットから離れた。


「今村ちゃんの娘さんから。うちの会社にプレゼントだってよ」


 磯貝社長が嬉しそうに言う。


「よくできてますねえ」


 大塚さんが目を細める。

 そこにあるのは、おとぎ話に出てくるような西洋風のお城だった。




 一週間前のあの日、大塚さんが見せてくれた画像はキリンだった。いくつもの紙筒を繋ぎ合わせて彩色を施した、大人の背丈ほどもあるキリン。なんでも、銀行のロビーに展示してあったのだという。画用紙の作品プレートが付いていて、小学校名と3年1組一同と書いてあったらしい。

 それを見て、ピンときたそうだ。謎の人物の狙いは、蓋ではなく、ラップの芯だったのではないかと。

 そこまで言われても僕はなにもわからなかったのだが、一緒に大塚さんの推理を聞かされた社長と専務は「なるほど」と呟いた。小学校ではよく、図工の材料として空き箱やトイレットペーパーの芯などを持っていくことがあるのだという。今回はラップの芯が必要だったのではないかというのだ。


 今村課長に見つからないようにと戸棚に隠していた使用済みラップの箱は、すべて芯が抜かれていたことを大塚さんが確認している。あれだけ目ざとく口うるさい今村課長がラップの使用に関してだけ気づかなかったとは考えにくい。その前提で見張ってみたところ、今村課長が戸棚から芯を持ち去るのを目撃したのだった。


 容れ物の蓋がなくなれば、代用としてラップを使う。蓋が何度もなくなれば、ラップはどんどんなくなっていく。実際、戸棚には使用済みのラップの箱がたくさんあった。

 どの家庭でも、図工の材料は集めるのに苦労するらしい。それがましてや自宅でラップを使用していないとなると、入手経路がない。そこで目を付けたのが職場だった。

 ところが、ここでも問題があった。常日頃、資源がどうのと言い続けている手前、ラップの芯が必要だなどと言えるはずもなかったのだ。今村課長は困った。

 しかも、小学校からはひと月も前に知らされていたのに、途方に暮れているうちに一週間前にまで迫ってしまった。いまさら普段の言動に反することはできない。でもそのせいで娘を困らせるわけにはいかない。

 追い詰められた今村課長が思いついたのが、ほかの人に使ってもらおうということだった。本来ならば、他人の資源消費にまで干渉するところだが、そこだけは折れるしかなかった。

 今村課長はせっせと蓋を外し、誰かが――だいたいは大塚さんだったのだが――せっせとラップを使い切ってくれるのを待っていたわけだ。




 大塚さんの推理を聞いたあと、社長は今村課長を除く全員に社内メールを送った。全員とはいっても、作業場の従業員は社内メールアドレスを振り分けられていないから、正しくは事務室勤務の従業員だけということになる。それでもかなりの人数だ。そこに不要なラップの芯があったら持ってきてくれるようにと指示したのだ。もちろん、無理に使い切ることのないようにとの念押しをして。

 そして集まった芯を今村課長に渡した。課長は初めに絶句し、すぐ赤面した。それから、泣いた。泣きながら謝った。誰も責めなかった。社長なんて豪快に笑っていた。



      *



 あれから、今村課長のエコ活動が控えめになったかというと、そんなことはない。だけど、言う方も言われる方も無理のない範囲で相手を尊重するようにはなった。


 今村少女の作ったお城は今も社長室にある。


 そして僕は営業車を走らせている。



      (了)

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