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冬の日と自転車2~出発~

 そっと、戸を押し開けた。そーっと、外気が頬を撫でる。

(冷たい。けど、思ったよりも寒くないかも!)

 さすがに外では独り言を胸の内に留めておくサクラ。

 冬とは言え、まだ太陽は高く昇っているので、外気温は我慢できる範囲内。これから自転車に乗るのだから、体感的にはもっと快適になるだろう。風も出ていないから、冷たい風に撃たれることも無いし、向かい風に苦労することも無いだろう。

 外に出て、戸に鍵を閉める。ガレージから自転車を引っ張り出してきて、家の前に一度止める。前カゴにお弁当を入れたスーパーのレジ袋を突っ込んだ。

 そっとハンドルを握って、跨ってみようと、右足を上げる。

(あれ!あれれ!高ぁっ!)

 フレームがサドルに近い位置にあり、想像以上に足を振り上げないと、跨ることも出来ないことに気付いた。単純な話、自分の股関節以上に足を高く上げなければ乗れない。多くの人はあまり意識することなく、自転車に乗っているのだろうが、サクラはこの時、自転車に乗ることと、体育でやったハードル走や走高跳を重ねて考えていた。

 言うまでもなく、運動は苦手なサクラだが、ここで壁にぶち当たってしまっては……。

(アサガオに笑われちゃうぅーっ!!)

 それだけは嫌だった。だから、彼女は自転車とアサガオを重ね合わせ、妹に馬乗りになる自分を想像してみることにした。俄然やる気が出て来た。

(毎朝まいあさ叩きやがってぇっ!コノヤロウっ!)

 積年の恨みを晴らすように、ハンドルをしっかりと握り、グイッと右足を上げる。

(今日はわたしがマウントポジションじゃあぁー!)

 どこで覚えたのかもわからない用語を絡めつつ頑張って足を上げると、案外すんなり自転車にまたがることが出来た。サクラはこの時、妹をブチのめす想像をすると、自分が存外の力を発揮することを発見した。

 とりあえず、自転車のサドルに跨ることが出来た。

(目線たっかあぁー!)

 ギリギリ、両足が地面に着くくらい。確かに、初心者のサクラにとっては、少しサドルの位置が高めだったかもしれない。彼女は、座っているのに立っているのとほとんど変わらない目線の高さに対して、斬新な恐怖を覚えていた。

 しかし恐れていても仕方がない。とりあえず走り出してみることにする。右足からペダルに乗せて、踏み込んでみる。

(!!)

 音もなく車輪は回転し、自転車は前に進んだ。

(動いたぁああ!!)

 左足もペダルに乗せて、踏み込む。するとまた、音もなく自転車は進んだ。

(案外軽いものなんだねぇ……)

 軽い、というのはペダルの重さのこと。それもそのはず。彼女が乗っているのは六段変速付きの自転車。

(ああ、そっか。この右手のクリクリを回して、重さを変えるんだっけ?)

 見ると、ギアは1と表示されていた。サクラはとりあえず6まで回してみた。そして再びペダルを踏みこむ。

(重っおぉ!)

 今度は重すぎた。ギアを3まで戻して、もう一度ペダルを踏みこむ。今度はちょうどいい重さだった。とりあえずしばらくこのギアで行ってみよう。

(さあぁ!行くぞっ!)

 気合を入れて、サドルに座ったまま勢いよく漕ぎ出す。自転車はサクラの意をくみ取るように走り出した。止まっている時には感じなかった風が緩やかに流れる。サクラはウインドブレーカーのチャックを一番上まで上げた。

 このまま家のある住宅街を抜けると、少し大きめの県道に出る。県道を突っ切ると、およそ百メートル程の長い下り坂だ。坂を下りたら一面田んぼの農道に出て、しばらく走れば川の土手に辿り着く……、のは昔の話。

 サクラの住む町は再開発が盛んに行われており、昔は見渡す限り田んぼしかなかった場所も、現在では大型の物流施設が何棟も建設されていた。もう既に完成して稼働しているものも数棟あるし、未だ建設中のものも何棟もある。

 それらの物流施設を抜け、自然っぽい、というかコンクリートの人工建造物が姿を消すまでには、しばらく自転車を走らせなければならない。その、しばらく、がどれくらいの時間を要するのかは、今のサクラには未知数であった。

 とは言え、県道までは十分もかからないはず。とにかく前を見据え、進む。自転車に乗るのはずいぶんと久しぶりだったが、案外ペダルを漕ぐという動作自体は身体が覚えているもので、結構遠くまで余裕で行けるかもしれない。

 住宅街の家々が横目に通り過ぎていく……。いつもの通学とは逆方向なので、同じ住宅街でも見慣れない家々が次々現れては消えていく……?風になったかのように、颯爽と走り抜ける自転車……、を想像していたのだが……。

(思っていたよりも、遅い……)

 一生懸命ペダルを漕いでいるつもりではあった。実際にサクラの脚はクルクルと勢いよく回転し続けている。しかしそれでも遅い!歩いているのと変わらない、とは言わないが、ちょっとイメージと違う。ノロノロノロノロ進んでいる気がする。

 実際には、女子高生の乗る自転車としては普通のスピードだったのだろうけれど、サクラの頭の中では、自転車に乗れば楽ちんで凄いスピードが出るものだという理想が出来上がっていたので、理想と現実のギャップ第一号というところだったのだろう。

(ぐぬぬぬぬっ!!)

 とは言え、理想に燃える女子高生であるサクラは、もう一度ギアを6まで回してみた。うん。やっぱりちょっと重いけれど、走り出してからなら、漕げないこともない。もう少し軽めの5にギアを戻してペダルを漕ぐ。ギアが3の時よりも勢いよく車輪が回る気がする。理想の通り、とはいかないが、さっきよりもずっとスピードが出て来た。

(よし!このまま行くぞ!)

 しばらく住宅街を走り、県道が近づくにつれて、車が出てくるようになった。そんなに広い道ではないので、サクラの自転車の直ぐ横を車が通り過ぎていく。前から来てすれ違ったり、後ろから来て追い抜いて行ったり。

(ちょっと怖い……。わたしのことちゃんと見えてるのかな……)

 普段から自転車に乗る人はあまり意識しないだろうが、自分の直ぐ近くを車が通り抜けるのは、結構怖いものである。もし小石を避けてよろけた時に、丁度車が来たら……。

(ちゃんと真っ直ぐ走らないと、危ないんだね……)

 交通というものが成立するための最低限の条件を、サクラは改めて認識した。真っ直ぐ進む、周りを見る。多くの人は意識しないでやっていることでも、家にいる時間がやたらと長い人間にとっては、新鮮な緊張を孕んだ感覚を伴う。

 

 しばらくして県道に着いた。コイツを突っ切ってすぐ坂を下る。横断歩道の信号は赤だ。サクラは自転車を止め、サドルから腰を浮かせて両足を地面に着けて待機する。まだまだ体力には余裕がありそうだ。疲労はほとんど感じていない。ふと思いつき、ギアが5のままだと発進するのが大変だろうから、ギアを2に戻しておいた。

 信号が青に変わり、自転車を発進させる。右足からペダルに置いて、サドルに跨る。踏み込んでゆっくり発進する。さすがにギアが2だとほとんど抵抗は無い。

 横断歩道を渡り切ると、すぐに下り坂だ。坂を行き来する車はいないようなので、そのまま下って大丈夫そう。スピードがみるみるうちに上がる!さっきまでとは比べ物にならない風がサクラの額に当たり、髪が後ろに舞い上がる。

(うひゃぁあーっ!!これこれー!この感じだよおー!)

 かなりスピードが出て来たので、サクラの理想の自転車像に近づいた。

(ちょっと寒いけど、きもちぃいー!)

 百メートルほどの坂だったが、あっという間に下りきってしまった。平地へ着いたので、再びペダルを漕ぎだす……、と!あれ!?

「うえぇえっ!!」

 出ているスピードに対して、ギアが2では軽すぎた。ペダルを踏み込んでも、空回りするばかり。足元の地面を、急に抜かれたような感覚に陥る。虚空に放り出されたような不安定な感覚で、予想外にバランスを崩した。

(ううううぅ!危ないっ――!危ないっ――!)

 転倒する恐怖を感じたが、それよりも。

(今車が来たら……!!)

 車に当てられる恐怖の方が上回り、サクラは冷静さを取り戻した。パニックに陥って事故にあうのだけは勘弁。アサガオに心配かけるのだけは嫌だった。

 足の動きを止め、ハンドルをしっかり握り、ギアを一気に6まで上げる。すると、車輪の回転に比べてペダルの動きがゆっくりになる。ペダルの抵抗が強くなると、足元が安定してバランスを取りやすくなった。

「ふうううぅー!」

 ひとまず安堵のため息をつく。

(無暗にスピードを出すのはやめよう……)

 そっとブレーキを引いて、徐々に減速していく。

 ティー字路に突き当たり、左折すると小さな橋が掛かっている。コイツを渡ると、かつての農道に入る。ここまで来れば、昔は一面に広がる田んぼと、幾筋もの小さな用水路くらいしか見当たらないものだった。しかし今、サクラの目に映っているのは、学校の体育館の十倍、いや二十倍はあろうかという巨大な建物群と、建設途中の巨大な骨組み。それにクレーンなどの建設機械とダンプカーやトラック。

 サクラは思わず自転車を止めた。

(昔来たのは小学生の頃だったかな……?もうずいぶんと変わっちゃったんだねぇ……)

 彼女が以前ここを訪れたのは小学生低学年の頃。授業で田植えの体験を行ったり、野鳥の観察に来たり、用水路でザリガニや魚を捕ったりした時だった。あの頃はまだ、田んぼでお米を育てており、農道も泥だらけで、ちょっとあぜ道まで踏み込めば、バッタが跳ねたり、帰るが跳ねたりしていたものだった。

(いつの間にこんなになったんだろ??ちょっともう、イメージが違うねぇ……)

 感傷に浸るほどの思い出があるわけでもないが、落ち着いてサンドイッチを食べるような雰囲気では決してない。想像していたようなのどかな空気にありつく為には、もう少し自転車を走らせなくてはならないようだ。

(とりあえず、建物がなくなるまで走ってみよう!!)

 サクラは用水路の小橋を渡って左折し、かつての農道に自転車を走らせることにした。するとすぐに、前方の物流施設から、巨大なトラックが頭を覗かせた。

(えっ!!)

 トラックは前からサクラの方に向かってくる。

 かつて農道だった頃には、この道を通ったのはせいぜい軽トラックくらいのものだった。当然車がすれ違うのがやっと、というほどに狭い。田んぼをつぶして物流施設を建設すると同時に、道路の拡張工事も行われてはいるようだが、残念ながら建設のペースに間にっているとは言い難い。自然、狭い道路を巨大な物流トラックや建設用のダンプカーが走り抜けることになる。当然整備された歩道なんてものはない。

「え……!来るっ!来るよっ……!」

 轟音を立てて、正面からトラックが迫ってくる。サクラは思わず悲鳴を上げ、自転車を止めた。同時に、サクラの体スレスレを巨大な鉄の塊が、特にスピードを落とすことも無く通過していった。エンジン音の残響と、自家用車とはまた違う排気ガスのニオイが残される。

「あ……、危なぁああ——!!こわぁあ――!」

 危機一髪。とりあえず安堵の声を上げる。トラックの運転手の方は慣れたものなのか知らないが、すれ違うサクラの方はたまったものでは無かった。 

(この道はダメだね……)

 これから何台ものトラックとすれ違いながら道を進んでいくと考えると、身震いした。方向転換をしよう……、と思ったのだが、引き返したところで同じ道が続くだけだし、川の土手へ近づくにしても、もう少しこの道を進んでから右折するしかなかった。

(行くしかないんだね……)

 そうと決まれば、早めにこの道を逸れて右折する道を見つけるしかない。狼狽えている間にも、またトラックがやってくるかもしれないと考えると、急いで自転車を走らせる気になった。

(急いで安全な道まで出ようっ!)

 そう考えて、サクラはペダルを踏む足に力を込めた。気持ちスピード速めで前へと進んでいく。スピードが出て来たところでギアを5に入れた。これでスピードを維持して走れるはず……。と、思ったのだが。

 ギアを5にしてしばらく走っていると、また別の問題がサクラを襲った。

 疲労、である。

 言うまでもなく、サクラは末期的な運動不足であった。スポーツなんて今までほとんどしたことは無かったし、今だって通学で少し歩く以外には、全くと言っていい程身体を動かす機会なんて無い。

(うそ……、でしょ……??)

 嘘ではない。自転車に乗る筋肉は、普段から乗らない人にとっては案外鍛えられていないもので、突然乗ると結構疲れたりする。運動不足の人間ならば、なおさらだ。

(まだ……、二十分くらいしか経っていないと思うんだけど……!?)

 二十分。この時間は長いのか、短いのか。確かに、アウトドアや自転車が趣味の人がサイクリングする場合、何時間も自転車を走らせて出掛けたりするだろう。そう考えると、たった二十分ごときで疲れるなんてしょぼい、と言える。しかし、自転車で二十分かけて通学する、とか自転車で二十分かけてスーパーに行く、といった場合、それは決して近い距離ではあるまい。二十分というのは、丁度一般人が、自転車でストレスなく移動できる距離、と言えるのかもしれない。

(太ももが痛い……!)

 自転車に乗っている時に、まず熱を持ち始めるのは太ももである。筋肉痛の代名詞でもある。

(お尻が痛い……!)

 お尻が痛くなるのはペダルを動かしているから、という理由もあるけれど、慣れてない人からすると、サドルに長時間跨っていること自体が結構きつかったりする。喰い込みが。

(こ、腰が痛くなってきた……!!)

 盲点だが、自転車に乗っていると腰から背中にかけて結構痛くなる。手足の筋肉痛は直ぐに治ったりするのだが、腰痛は結構長引くので辛い。

(ちょ、ちょっと!全身痛いんですけど!まだ開始三十分も経ってないハズなのに、全身がガタガタになってきてるんですけどーっ!!)

 自然、疲労と同時にスピードも落ちてきた。サクラにとって予想外だったのは、これほど疲れてきているのに、案外身体が温まっている気がしないことだった。太ももなど、部分的には疲労が蓄積して熱を持っているハズなのに、ハンドルを握る手や、むき出しで風の当たる顔はむしろ寒くなってきている。特に指先や耳に冷たい風が当たる。

「ぜぇっ……、はぁあ……!ぜぇっ……、はぁあ……!」

 息が完全に切れて来た。どんどんスピードが落ちる。もはやギアが5段では重すぎる。とても漕ぎ続けていられない。ギアを3に戻す。荒い呼吸を繰り返しながらペダルを漕ぎ続けるも、ノロノロとしか前に進んでいかない。

「はあぁ……っ、はあぁ……っ、はあぁ……っ!!」

 幸い二台目のトラックと鉢合わせる前に、右折する小道を見つけた。軽自動車がやっと通れるくらいの道だ。これならトラックはやって来れまい。右折してしばらく進むと、小さなトンネルを潜った。上には高速道路が走っている。トンネルの中は街灯など無く、昼間なのに真っ暗だ。

(と、トンネルって、こんなに暗いんだ……!)

「ぜぇっ!ぜぇっ!ぜぇっ!ぜぇっ!ぜぇっ!ぜぇっ!」

 サクラの呼吸が狭いトンネルで反響している。

(うるさいーっ!もっと疲れるー!)

 トンネルを抜けると、再び用水路があり、ところどころに小橋が掛かっていた。ここまで来れば、滅多に車に出会うことはなさそうだ。人の姿もほとんどない。

「あああぁあああ限界ぃいいー!」

 サクラは自転車を止め、休憩することにする。

「ああああっ!疲れたぁー!」

 自転車から降りるなり、サクラは地べたに座り込んだ。

(ひゃあー!無理無理無理無理!三十分でこれかあー!もう、腰っ!こしが!ぬあぁー!なんか腕までプルプルしてるよー!!お尻が……、お尻が割れそう……!!)

 全然清々しくない疲労だと思った。しかし、止まってみると、周りの景色が良く見えるようになってくる。気付けば、随分と川の近くまでやって来たらしい。だだっ広い河川敷がの枯れ草を、冬の陽光が照らしていた。

(ほぉおー!明るい!)

 遮るものたほとんど無い太陽の光を、直で浴びるのは久しぶりのような気がした。部屋の中で見る太陽の光とは全然違うし、住宅街で見る光とも、また一味違う。雑誌で見た大自然とは比べるのもおこがましいが、人工物だらけの街からほんの少しだけ離れてみるだけで、随分と太陽の印象が変わる。

(それに、空が広ぉおっぃいー!!)

 空を見上げても人工物は一切見当たらない。普段の生活で、空を見上げるなんてことは、ほぼ無かったけれど、空がこんなにも広いものなのだということを、サクラは今初めて知った。雲がゆっくりゆっくりと流れていく。 

(ふぅーん。別にキレイな景色って訳じゃないけど、来てよかったかなっ)

 そう考えるとへとへとになった甲斐もあるように思えた。

(もう少し先まで、行ってみようかな!)

 そうと決まれば、サクラはスクッと立ち上がる。そして再び自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ始めた。

(だああぁあー!でもやっぱりつらーぁぃい!)

 再出発して一分も経たないうちに音を上げ始めた。

(しかも走り始めると、景色全然見えないしぃいー!)

 はっきり言って、疲れててそれどころでは無かった。自転車を漕ぐので精一杯。今のサクラには、自転車を運転しながら景色を楽しむなどという、余裕ある視野は無い。

 五分もしない内に、心は折れそうになっていたが、丁度その時、休憩するにはちょうどいい場所を見つけた。

 高さ二メートルくらいの石碑が立ち、周りに大きな岩が数個転がっている。岩は人間一人が寝そべるくらいの大きさはある。

(あー。もう、ここでいいやっ!)

 ここでお弁当を食べようというのである。

 サクラは自転車から降りて、石碑に近づいて行った。何の石碑かは解らない。何か書いてあるが、読めるわけがない。多分お墓のようなものでは無いだろうから、周りの岩に腰かけても大丈夫だろう。

 岩に座ってみる。うん。高さは丁度いい。ちょっと寒いけれど、そんなに長居はしないだろうし。指先が冷えているので息をハアハアして温める。

 ふと止めてあるある自転車に目をやった。

(どんだけエネルギー効率悪いんだよこの乗り物ぉーっ!自転車がエコとか言ってるやつ誰だよっ!)

 自然と出る文句。それだけ疲れていた。確かに自転車は燃料を消費しないのでエコなのかもしれない。それに、確かに歩くよりかは早い。しかし、疲労が尋常じゃない。歩くよりも少し速いくらいのスピードを得るために消耗する体力の面から言って、この乗り物のコストパフォーマンスは良いのかどうか。サクラの体力からすると、自転車は決してエコな乗り物ではなかったようだ。

 

「はあぁああー!」

 大きなため息をつきつつ、呼吸を整える為に、岩に寝転んでみる。視界一面が空だけになった。青白い、冬の空。

(空はおおきいなあ……)

 ガラにもないことをつぶやく。

(空って、丸いんだねえ……)

 四角い天井に慣れ過ぎたサクラには、空の丸さは不思議な造形に見えた。確か、小さい頃にプラネタリウムに行ったことがある。あの時見た人口の空はしかし、ずっと小さくて、上から下に迫ってくるような圧迫感があった。

 今サクラが見上げてる空は、広がり続けているようにさえ見える。

(あ、飛行機……)

 小指の先ほどしかない飛行機が、どこからともなく現れていた。ゆっくりゆっくり進んでいく。

(どこに行くんだろう……?)

 ヨーロッパ?それともアメリカ?目的地のわからない飛行機をしばらく眺めていると、小さな機体はやがて姿を消してしまった。ずっとずっと遠くまで見えているはずの大空なのに、あんなに小さい飛行機が見えなくなってしまうことが、なんだかサクラには不思議に思えた。鳥は姿を消さないのに。

(行ってみたいなぁ。ヨーロッパ)

 旅行なんて全く興味も無かったサクラはこの時、初めて海外旅行に憧れを抱いた。

(お父さんとお母さんが出会ったのは、確か海外旅行の山で、だったっけ……?)

 異国の山における、つり橋効果が、サクラの両親を結び付けた。そして姉妹が生まれた。自分もそんなロマンスを経験する日が来るのだろうか。

「そうだ、お弁当っ!」

 だいぶ息も整ってきたので、サンドイッチを食べることにした。自転車の前かごに入れっぱなしだったビニール袋を取ってくる。

 再び岩に腰かけて、スーパーの袋から、丸まったアルミホイルを取り出す。気付けばかなりお腹はペコペコだった。

 アルミホイルを開封すると、妹お手製のサンドイッチがあらわれた。大丈夫、形崩れはしていない。

(そうだっ!!)

 ズボンのポケットからスマートフォンを取り出す。膝の上にサンドイッチを広げ、遠景に自転車が映るようにしてお弁当の写真を一枚撮った。

(ショボ……、映えねぇえーっ!!)

 取り立てて言うことも無い河川敷、ビニール袋とアルミホイルのお弁当、そしてジャージ。我ながらしょぼい写真だったが、コイツをアサガオに送り付けてやる。

「ピクニックなう!ピースサインの絵文字」

 写真付きでラインを送ってやった。

 すぐに既読になり、返信が来た。

「ショボ……!映えねぇえーっ!!ハートの絵文字……」

 サクラと全く同じ反応をしたアサガオに、思わず噴き出した。

「ぶふぅっ!!えーっと、サンドイッチありがとう!ハートの絵文字」

 つぶやきながら、妹にラインを送る。

 そしていざ、お弁当を頂くことにする。アサガオがいてくれたからこそ、自分は今この場にいることが出来る。そんな思いを噛みしめながら、一つつまんでかぶりついた。

 モグモグと咀嚼する。モグモグモグモグと。

「…………っ!?」

 美味しい。確かにもともと美味しかったし、空腹というスパイスも加わってさらに美味しく感じられる。

 しかし、自転車による疲労のせいで、カラカラに喉が渇いていた。だから、噛んでも噛んでも喉を通らない。

「の……飲み物持って来ればよかったー!」

 温かい紅茶でも持ってきていれば、身体も温まるし、のどの渇きも癒えただろう。

「じ……自販機……」

 あるわけがない、そんなもの。

(まあいいや、ゆっくり食べよう……)

 よく噛んで食べていると、再びスマートフォンが鳴った。見ると、アサガオからラインが届いていた。

「寒くない!?大丈夫!?ちゃんと帰って来られる!?心配そうな顔の絵文字……」

 アサガオに気を使わせ過ぎるのは姉として忍びない、という気持ちはあった。だから今度は、サンドイッチを頬張りながら、満面の笑みでピースするポーズを、自撮りして送ってやることにした。

「にぃいー!っとぉおー!姉は元気にやっとるぞー!」

 自分の健在ぶりをアサガオに示す。すると、グッジョブみたいな仕草をしている熊のスタンプが送られてきた。妹も安心してくれたんだろう。

(さてっ……)

 もうしばらく頬張っていると、お弁当も完食してしまった。アルミホイルを丸めなおして、ビニール袋に戻す。これ以上ない程にゴミらしいゴミとなったそれをポケットに押し込む。

 後ろ手を着いて、何を考えるでもなくボォーっとしてみた。別に何もしていないので、やっていることは普段と変わらないのだが、今日は家の中ではなく、外だ。それだけで、なんだかとても充実している気がする。別に何もしていないのだが。

 そうこうしているうちに、少し冷えてきた。特に指先が冷たい。身体の芯まで冷えてしまう前に動き出そう。

(どうしよう……、もう少し先まで行ってみようかな……)

 とも思ったが。

(んまあ、いいや。帰ろうっー!)

 やっぱりもう、家に帰ることにする。自分の体が、結構疲労していることを、サクラは自覚していた。家を出てから、一時間ほどが経過している。思い付きのピクニック、というか散歩にしてみれば、十分だろう。

「よっこいしょっと……!」

 掛け声で自分を奮い立たせ、もう一度自転車に跨った。

 一時間前とは全然違う感覚。もうすっかり慣れた、ような気がした。が、いざ漕ぎ始めてみると……。

「ばぁああぁー!やっぱり辛いぃーっ!」

 やはり自転車の運転は拷問だった。

(あぁー、足が痛いぃー。あぁー、腰が痛いー。うぇー)

 疲労に加えて。

(それに、急に景色が見えなくなったぁ……)

 さっき止まっている間は、あんなによく見えた景色に、視野が追いつかない。

 完全にデジャヴだった。

(はあぁ……!もうイヤーっ!死ぬぅーっ!)

 結局サクラは、内心で自転車をひたすら罵倒しながら、往路と同じ時間をかけて、家まで帰ったのだった。


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