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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

西の不死、東の不死

二度目の遭遇、否、初の訪問

作者: ろんじん

 メモーリアの海に沿って、大陸は南北に長く伸びている。北の大都市アウロラ帝国の港を船で出て、真っ直ぐ南の端へ行くだけでも二ヶ月はかかる。それに端と言っても、それはメモーリアの端と言う意味で、半島を内側に折り返せば大陸はまだまだ続いていた。

 南端からやや西側へ逸れたところには、楽園と称される緑豊かな島があった。過ごしやすい気候で人気の観光地だ。またアウロラへ北上する商船の経由地でもあった。

 富める者は豊かさを消費しにこの島を訪れ、貧しい者は豊かさを求めこの島を目指す。

 だがこの島へ行くには一つ注意が必要であった。

 楽園から少し北へ上がった海域は、常に深い霧で覆われていた。ただでさえ迷いやすい大海原で、空も視界も覆われてしまえば船はたちまち遭難してしまう。それにこの海霧の中には、不死の伯爵がいるとも噂されていた。その伯爵は何百年も昔の貴族で、船一隻分の人間を惨殺した狂人だ。その彼が亡霊となった今も、霧の中で船を棺に変えるべく待ち構えているらしい。

 霧の伯爵の恐ろしさは、童歌としてあちこちで語り継がれていた。


 今、一隻の船がゆらゆらと流されていた。

 船は南で採れた香辛料やコーヒーなどを乗せた大きな商船だが、大海から見れば池に浮かぶ一枚の木の葉だ。そのちっぽけな木の葉が、ざぶざぶと海に流され霧の中へと消えていった。

 普通ならここで水夫たちが騒ぎ出す。船長や航海士が声を張り上げ、霧の外へ出ようと試みる。しかしこの商船はやけに静かで、誰一人甲板に上がって来なかった。それだけではない。船の中からは、物音一つしなかった。

 ざぶり、ざざぶ、と波音だけを立てて船が進む。

 その鼻先あたりにずしん、と重たい何かがぶつかり、船は大きくゆったりと揺れて停止した。古ぼけた型の船が接弦したのだ。その古い船から、商船へ一人の男が乗り移ってきた。腹にずっぷりとカトラスを突き刺した、古い貴族の出で立ちをした物憂げな男である。

 男は腹に剣が突き刺さっているにも関わらず、血一滴垂らしていなかった。それどころか悠々と甲板を歩いている。

 サルヴァトーレ・マッツォレーニ。噂の伯爵に違いなかった。

 伯爵はいやに静かな甲板を見回し、僅かに首を傾けた。

「誰もいないのでしょうか……?」

 彼の悲し気な声が霧に紛れて消える。

 幸せの中で皆揃って死ぬ。それが彼の思い描くハッピーエンドだった。それだけを願い、何年も、何百年も、彼は出会う船を棺桶に仕立てて自殺を繰り返していた。今日こそは、今回こそはと思い、何度も船員を皆殺しにしてきた。

 けれど、そのささやかな願いは未だ遂げられずにいた。

 伯爵は静かすぎる商船を、本当に誰もいないのかと思いながら歩いた。もし一人二人でも残っているのなら、どうだろう、一緒にハッピーエンドを迎えられる相手はいないだろうか? そんな、いつもの淡い期待を抱きながら、部屋を一つ一つ見て回った。

 ランプにはちびた蝋燭が灯っている。まだ人のいた香りがあり、掃除用のバケツには水が汲まれたままだった。

 きっとどこかに隠れているに違いない。

 伯爵はそう思い、【食堂】と看板のかかった部屋の扉に手をかけた。ドアが、ぎぎぎ、ぬちゃり、と妙な音を立てて開かれる。それと同時に飛び込んできた鮮やかな光景が、悲哀に沈む伯爵の目をぐっと開かせた。

 室内を埋め尽くす赤、赤、赤。壁も、床も、天井もテーブルも、すべてがペンキをぶちまけたかのような大胆さで、赤く染まっている。まだそうなってからあまり時間が経っていないのか、壁の赤は所によって滴り、天井の赤はぽたりと零れてきた。

 美しい赤の部屋の真ん中で、黒髪の男が伯爵に気付いて振り向いた。

 伯爵も、見覚えのあるその顔にまた目を丸くする。

「サルヴァトーレ! お久しぶりです!」

「貴方は……、玉霊さん?」

 男、玉霊は伯爵に名前を呼んでもらえ、嬉しそうに笑った。口や手についた赤を、落ちていた服で拭き取りながら近づいて来る。彼は顔の左半分を布で隠した、遥か東国から来た宝玉の不死者だった。本体は美しい一粒の宝石で、体はすべて人の死体を繋ぎ合わせて作っている。以前、たまたま彼を乗せた商船が霧の海に迷い込み、そこで伯爵と面識を待ったのだった。

 伯爵は、不死になって以来初めて体験する【二度目】というものに驚きを隠せないでいた。

 この霧の海に入った者は、ほぼ伯爵の手によって殺されている。稀に逃げ延びた者がいても、彼らは霧と伯爵を恐れもう二度と帰ってはこない。この中で同じ顔を二度見るということは、今までに一度もないことだった。

 玉霊は不死であるため、自由なままに伯爵の前から姿を消した。どちらに陸があるかも分からない海霧の中に、小舟一つで旅立ったのだ。

 霧の外へ出たならば、もう二度と会うことはないだろうと、伯爵はそう思っていた。彼は、こんな右も左も分からないような深い霧の中に、好き好んでやって来る人間を知らない。玉霊は人と言えない存在だが、それでも、こうも気楽な顔つきで戻って来るとは露ほどにも思っていなかった。

「いやあ、すみません。本当は全部、手土産のつもりだったのですが……」

 やや決まりが悪そうに喋りながら、玉霊は伯爵を赤く染まっていない椅子に案内した。

「とても具合の良さそうな腕を見つけまして。古い腕と交換しようとしたら、バレてしまいました」

 あはは、と愉快そうに笑いながら隣の部屋に消え、直ぐにボトルとグラスを持って帰ってくる。

 伯爵は状況がまったく理解できず、ただ部屋のあちこちに折り重なる死体を見て尋ねた。

「この船は、これで全員なのですか?」

「そうですね。騒ぎになって、全員に知れ渡ってしまったので、全員片付けました」

「……そうでしたか…」

 元の造形が崩れた血肉の山を伯爵は悲し気に見つめた。

 また今日も、幸福への道は開かれなかったのだ。

 そんな伯爵の憂いはお構いなしに、玉霊はボトルの封を開けてグラスに注ぎだした。淡く黄色がかった白ワインだ。血生臭い部屋の中で、グラスの縁にだけそっと爽やかな香りが漂った。玉霊はその香りを楽しみ、伯爵にも勧めたが、伯爵は美しい眉間に皺を刻んで難色を示すだけだった。

「飲食はしておりませんので…」

 そう言ってグラスを押し戻す。

「何と! 貴方、まだそんなことを? ここは霧の中で分からないかもしれませんが、ワタシが以前ここを出てから、もう季節が一巡りしたのですよ? この間もずっと飲まず食わずでいたのですか?」

「私は終わりを望んでいるのです。もし望みが叶うのであれば、それが餓死でも構いません。それなのに、食事などをしてしまっては……」

「勿体ないっ!」

 カトラスの柄を落ち着きなく触る伯爵の手を、玉霊が強く掴んだ。驚いた伯爵の体がびくりと跳ねる。誰かに掴まれるなんて、一体いつ以来のことか。そもそも喋るのだって久方ぶりだった。霧の中ではいつも独りで、剣で腹を刺したり首を切ってみたりする事しかしてこなかった。

 たまに船と出会っても、やることは変わらない。全員の胸を突く。それでハッピーエンドを迎えられれば願いが叶うのに、いつも自分だけが目を覚ましてしまう。

 他人との付き合い方など等の昔に忘れた伯爵は、強引な誘いを断る術を持たず、されるがままにグラスを握らされた。

「餓死とは! 飢えで死ぬ者がすることです。それで死ぬなら貴方は既に死んでいる! まったく、頭が固いですね! 餓死の望みなどないのに食事を遠ざけるなんて、ただ自ら楽しみに目を背けているだけですよ! ほら、嗅いでごらんなさい。この葡萄酒のみずみずしい香りを! 葡萄酒自体は東にいた頃にも飲んだことがありましたが、こんなに芳醇な香りを感じたことはありませんでした。貴方も、この地域出身であれば葡萄酒を飲んだことはあるのでしょう? 思い出してごらんなさい。甘く爽やかな香りを、喉を潤す味を、胸を酔わす酒の美味さを! どうせ飲んでも飲まなくても、貴方と死の距離は変わらない。それなら世界を楽しめば良いのです。ほら、今はワタシに付き合って一口」

「し、しかし…」

「香りだけでも良いから!」

「あっ」

 力説とともにグラスをぐっと顔の前に突き出され、伯爵は思わず両手で受け止めた。膝の上にあったカトラスが抑えを失い床に落ちる。カラン、という乾いた音が部屋に響く。伯爵のすっとした鼻先に蠱惑的な美酒の香りが触れた。

 自ら飲むには至らない。けれども、長い間忘れていた香りに目が離せなくなる。そうして伯爵がただじっと小麦色の中身を見つめていると、黒い手袋をした指先がつ、とグラスの底を押した。薄っすらと開いている唇の間へ、ほんの少し酒が流れ込む。それが静かに伯爵の喉を下りていくと、同時に伯爵の目からは一筋の涙が伝った。

「美味しいと思いませんか? この葡萄酒」

「……美味しいと、思って良いのでしょうか…。私のような、死ぬことすらままならない存在が。美酒に感涙するなど、許されるのでしょうか……」

 流れ出した感情は止め処なく、はらはらと伯爵の頬を濡らした。

 玉霊がまた指先でそっとグラスを傾けてやると、今度は、ごくりと大きく葡萄酒を飲み込んだ。忘れていた、もはや思い出すこともできない昔の味に、ただただ涙が零れる。死を望んでいるはずなのに、まだ喉を潤す喜びを感じることに情けなくもあった。

 伯爵が泣きながらグラスを空けると、玉霊は自分も飲み干して、それから両方にワインを注ぎ足した。


 二人は二杯目をちびちびと飲んだ。

 途中で玉霊は思い出したように立ち上がり、ナイフを片手に死体の山へ向かった。そこで何か作業をし、帰ってくる。テーブルに置かれたのは薄切りの肉が盛られた皿だった。伯爵がそれを横目に無言でグラスを舐めていると、玉霊は肉に塩と胡椒を振って塩炒りのナッツを添えた。

 一応、フォークが二本用意される。

「ワタシの好きなつまみなんです」

「……以前、お会いした際にも、食べていらっしゃいましたものね」

「あのときは空腹で齧り付いていましたね! ふふふ、今回のこれは、ちゃんと血抜きをしてあるのですよ。普段は丸齧りなんてしないんですから。つまみ食いはしますけど、結構料理もできるのです」

「でも、人を食べれば正体が明るみになるのでは?」

「そうですね。牛や豚のようにはいきません。病気や怪我で死んだ人間の肉なら入手し易いのですが、これは不味いです。でも美味い健康的な肉を捌けばすぐ騒ぎになるし。……だからここに来たのですよ」

「え?」

「貴方なら、ワタシが人の薄切りをつまみ始めても騒がないでしょう?」

「そんな理由で」

「重要なことです」

 玉霊はそう返しながら上機嫌で肉を食べた。

 彼の言い分をまとめると、人肉で一杯やるために霧の中へ帰ってきたらしい。

 伯爵は目の前でよく食べ、よく飲み、そして時折こちらのグラスにまで注ぎ足す男の顔を、何とも言い表しようのない気持ちで眺めた。体よく言えば酔狂で、悪く言えば気違いだ。たかが酒盛りのために深い海霧の中へ戻って来るなんて。ここから逃げ出そうとする者は数多くいたが、自らやって来る者など一人たりともいなかった。

 けれども玉霊は、酒とつまみが揃って興が乗ったのか、椅子の上に妙な具合に足を組んで座り、旅の記憶を喋り出した。港町の様子、農村の様子、大都市の様子。何に驚き、何に感動し、何を思ったのか。彼がいた東国との違いも交え、一方的な会話は途切れることを知らない。目玉がくるくると動き、唇がにっと笑い、顔が半分しか見えないにも関わらず、彼の表情は豊かだった。

 ボトルが空いても、皿が空いても、玉霊がさっと立っては次を持ってくる。遠目にもそこだけごっそり減っているのが見えたので、彼が食べているのはもも肉だと分かった。伯爵は終わらない旅行記を聞きながらワインを舐めていたが、玉霊が途中で注ぎ足すので、実際どの程度飲んだのかよく分からなかった。

 ただずっと忘れていた、ほろほろとした心地よさが彼を包む。

 死ねたわけでもないのに不思議と穏やかな気持ちになって、伯爵は静かに玉霊の話を聞いていた。

 肉をつまみ、ナッツをつまみ。ワインで喉を湿らせてから再びナッツをつまみ。そうして順々、気ままに食べる玉霊の手から、ころりと一粒のアーモンドがこぼれ落ちた。それが伯爵の方へと転がって、食べてくれと言わんばかりにぴたりと止まる。伯爵はその実をそっと拾い上げ、まじまじと眺めた。

 茶色い雫のような形に見覚えがある。だが味も、食感も、だいぶ前に忘れてしまった。生前は、確かにこれをつまみに酒を飲むこともあったような気がする。しかしもう遥か昔のことである。名称以外、特に思い出せることはない。

 しばらくの間、伯爵は躊躇うように粒を指先で転がしていた。

 それに気付いた玉霊の口が急に静かになる。

 けれども伯爵は粒を眺めるばかりで、いつまで経っても口の中へ入れる気配がなかった。

 アーモンドを片手に酒も止まった伯爵を見て、じれた玉霊の指先が、伯爵の指ごと粒を摘まんだ。

「眺めていたって百年も昔の記憶は蘇らないでしょう? さっさと食べてごらんなさい」

「でも…」

「その整った歯は何のためについているのです?」

「うっ」

 ガリッ。

 唇に押し当てられたアーモンドの先端を、伯爵は観念して僅かに齧り取った。固い実が歯に磨り潰されて小さな欠片に分かれていく。それから咀嚼が一段落して口を開くと、言葉が出るよりも先に残り全部が放り込まれた。

 思わぬ追加に伯爵が犯人を睨む。

「……全部食べるつもりはなかったのですが」

「半分だけ残すなんて、勿体ないじゃないですか。それに一粒と言わず、もっと食べてください。一人で食べるのは寂しいです」

「飲んでいます」

「それなら、猶更食べたって良いでしょう? ワタシ、ちゃんとつまみがたっぷり乗った船を選んで来たのですよ」

「本当にこれだけのために来たのですか?」

「人をつまみながらの酒盛りに、付き合ってくれる相手を貴方しか知らないので」

「呆れた!」

 伯爵は思わず大声を出していた。それは自分でも驚くほど大きな声で、叫んだ後で何やら恥ずかしくなり、口元を押さえてしまった。

 恥じ入る伯爵とは反対に、玉霊は怒鳴られたにも関わらず楽しそうに笑った。アナタでも大きな声が出せるのか、と素晴らしい発見をしたかのように喜んだ。

 玉霊は一頻り笑った後、また酒と肉を楽しみだした。

「……貴方が蛇に思えてきました」

「蛇?」

 一方の伯爵はうんざりした表情で、テーブルにグラスを置いて言った。あからさまに、雰囲気がとげとげしい。だが玉霊はそんな事よりも、伯爵が切り出した話に興味を持った。聞けば、蛇とは人間に智恵の実を食わせた悪魔のことだと言う。楽園で幸せに暮らしていた人間は、これを食べたばっかりにそこを追放されたらしい。東国では聞いたことがない神話だった。

 玉霊は伯爵の説明を聞き終えると、目を輝かせて立ち上がった。

「素晴らしいっ! 何も着ず何も考えず獣同然だった人間が、衣をまとい善悪を考慮するようになった話ですか! その導き手が蛇なのですね! ならばワタシは喜んで貴方の蛇になりましょう! 不死は永遠に続く愉しみですが、その一方で永遠に続く退屈でもあります。この世に愉しみを見出せなければ苦痛でしかありません。そう、丁度、今の貴方のように。世界には様々な快楽がありますが、まずは飲食の楽しみから思い出しましょう。いえ、思い出さなくても結構。新たに見つければ良いのです。この葡萄酒は美味しかったでしょう? このアーモンドの歯ごたえは、貴方に噛む喜びを教えてくれたでしょう? そうして見つけていけば良いのです。この世には、楽しいことがたくさんあります。そりゃあもう、数え切れないほど、遊びきれないほど! その上、楽しみは人間によってどんどん更新されていく。彼らは他のどの生き物よりも退屈を嫌い、ひたすら新しい快楽を生み出す存在なのです! ワタシたち不死者にとって、これ程都合の良い存在が他にいるでしょうか? 世界は広いし、楽しいことで溢れているのです。ワタシは長年、東国を旅していましたが、この西の果てまで来たことはありませんでした。不死で歩き回っていたワタシでさえ、ここは新天地なのです。霧の中に籠もっている貴方の外側に、一体どれだけの世界が広がっていることか。……ワタシは貴方の蛇になりたい。さあ、まずは飲食の愉しみを覚えましょう!」

 ワインがまた並々と注がれる。

 乾燥した果物やチーズなど、他の味覚が用意される。

 高らかに笑う悪魔を止めさせようと、伯爵は躍起になってその腕を掴んだ。けれどもその強引な動作さえ、今の彼を悦ばせるものだった。

 西の美しさとはまた異なる、東の美しい顔がにいっと笑う。

「……今日は、とてもいろんな表情をするのですね、サルヴァトーレ。泣いたり、呆れたり、怒ったり。この前は、悲しむ顔しか見られませんでしたが、今日はとても楽しいです。やはり腹に物が入ると違うのですよ。そうは思いませんか? 死ぬことを諦めろとは言いませんが、死ぬまでの間、もう少し世界を愉しんでみてはいかがです? ワタシは、百年ほど前から連れのいる旅というものに憧れていたのです。貴方なら、ワタシと同じ目線で世界を愉しめる…」

「玉霊さん……」

 掴んでいたはずの腕がいつの間にか掴まれ、伯爵は思わず後ずさった。だが玉霊はその歩調に合わせ前進し、二人の距離は縮まらない。どんどん下がるうちに伯爵の足が血で滑り、赤黒くなった床の上に倒れ込んだ。

 尻餅をついたまま言葉もない伯爵の上に、玉霊が膝を突いて馬乗りになる。いつ拾ったのか、その手には一本の短剣が握られていた。

「メモーリアのあたりでは、親しい間柄では愛称で呼ぶ習慣があると聞きました。貴方の愛称は、何と言うのですか?」

 白黒の反転した眼が弓なりに微笑む。

 人由来でない玉霊の容貌を、サルヴァトーレは初めて恐ろしいと思った。

 短剣が心臓の位置を探すように伯爵の胸を撫で下ろす。

 伯爵は真っ赤に濡れた両手でそれを掴み、自分の胸に突き刺した。深く、深く背中側まで抉るように短剣を抱え込む。今までに何千、何万回と味わった死の苦痛が体中に走る。伯爵は不死であるだけで、味が分かり、臭いが分かり、五感は生前のままであった。自ら胸を刺す度に、首を切る度に、気が飛ぶほどの痛みを感じていたのだ。

 いつかその痛みすら感じなくなることを願いながら、伯爵は独り自死を繰り返していた。

 抉った胸元から濁った海水だけが流れ出す。

「…サルヴァトーレの愛称は、トトー、です……」

 また死にそびれた感覚に襲われながら伯爵は激痛に目を閉じた。

 気を失った彼を玉霊がそっと受け止める。その顔は、やっと見つけた一番の玩具を抱える子供のようであった。

「トトー、ですか。良いですね。また会いに来ますよ、トトー。今日は半年分しか話を聞いてもらえませんでしたから。続きはまた今度。でもきっと、次までに話したいことが増えていると思いますけど。世界は愉しいですからね。やりたい事も、見たい物も、味わいたい物も際限なく増えていく……。いつか必ず、旅のお供もしてくださいね」


***


 伯爵がまた悲しい世界に目を覚ましたとき、そこはいつもの古い型の船であった。並走する船影はなく、ただ霧に覆われた海が広がっている。伯爵は妙な夢を見ていたのかと思ったが、立ち上がった折、一本の見知らぬ短剣が滑り落ちた。

 記憶が途切れる前のことをぼんやりと思い出す。

 とんでもなく酔狂な男の顔が蘇る。

 その顔が笑う様子を思い出した瞬間、伯爵はどっと疲れを感じて甲板に転がった。何もしたくない。生きていたくない。早く死んでしまいたい。命ある物にとっては至極簡単な願いのはずなのに、どうして自分だけはこうも例外なのか。

 伯爵の目に薄らと涙が溜まり、横向きになった顔にそって流れ落ちた。

 腰のあたりに妙な粒々を感じる。

 気怠い手つきでそれを取り出すと、小袋いっぱいにアーモンドが詰まっていた。

「……………もう会いたくない…」

 伯爵は袋を握りしめたまま、またしばらく眠りに就いた。




2018/12/11

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― 新着の感想 ―
[一言] ややコミカルなゴチックホラー的雰囲気が良いなと思った。普段こういう話は読まないので新鮮に感じた。
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