マリモに乗って
ある朝、アパートの前に大きなマリモが転がっていた。見たこともないほど大きい。ミウは急いで着替え、髪を結った。トーストを食べて歯を磨き、ドアを開けて廊下へ出た。
外の階段を降りると、案の定マリモが道を塞いでいる。押してもつねっても、マリモはびくともしない。寄りかかるとふかふかして気持ちがいい。つい二度寝しそうになったが、どうにか思いとどまった。早く出かけなければ、バイトに遅れてしまう。
「おーい」
ふいに誰かの声がして、ミウは辺りを見回した。
「こっちだよ、マリモの上」
「上?」
「アパートの屋上から飛び移れるよ」
なるほど、と思い、ミウは階段を上った。息を弾ませて走り、ようやく屋上にたどり着く。
屋上の周りは銀色の柵に囲まれているが、低いので簡単に越えられる。マリモのてっぺんがすぐそこにあり、女性が二人腰掛けていた。
「ミウ、こっちこっち」
手を振っているのはバイト先の先輩、むぅにぃだ。ミウは手を振り返し、何してるんですか、と言った。
「友達がマリモを買ったから乗せてもらったの。ミウもおいでよ」
「こんにちは。あたし、中谷美枝子」
むぅにぃの隣で、もう一人の女性が朗らかに笑った。こんにちは、とミウも言った。
「水野未生です。むぅにぃ先輩と一緒に宇宙ドーナツを売ってます」
「乗って乗って。こっちで話そうよ」
ミウは屋上の縁から勢いをつけて飛んだ。むぅにぃと中谷の間に着地すると、深緑の毛に体が埋もれる。少しも痛くなかった。
「バイト先まで乗っていけるよ」
むぅにぃが言った。中谷は慣れた手つきで毛を引っ張ったりつついたりしていたが、しばらくして首をかしげる。
「おかしいわね。動かなくなっちゃった」
「えっ。ちょっと貸して」
「だめよ。むぅにぃは免許持ってないでしょ」
ミウも覗き込んだ。中谷は毛をレバーのように引っ張り、周りの部分をボタンのように押している。
「それで動くんですか?」
「いつもはね。今日はどうしちゃったのかしら」
いくら引っ張ってもマリモは動かなかった。むぅにぃは携帯電話を出し、桑田に聞いてみるよ、と言った。
「バイクのことなら何でも知ってるし、最新型のマリモにも詳しいよ」
「そうかしらねえ」
むぅにぃが電話をかけると、男の声が聞こえた。
「もしもし。おれ、デミグラ・ハンバーグ定食」
違うってば、とむぅにぃが言う。
「ご飯じゃなくて、ちょっと困ってるの」
「ああもう、あたしに貸して」
むぅにぃと中谷が電話を取り合っている横で、ミウは足元の毛をそっとかき分けてみた。そして手当たり次第に揉みほぐした。
ぐらり、とマリモが揺れる。中谷が悲鳴を上げ、むぅにぃは携帯電話を取り落とした。
「ミウちゃん! 何やってるの」
「すみません。動かせるかもしれないと思って」
「わ、わ、つかまって」
マリモはさらに揺れた。前進しているというよりは、その場で波打っているようだ。ミウは毛にしがみついた。転がった携帯電話から、まだ昼飯には早いんじゃねえか、と叫ぶ声がする。
ミウが動こうとした瞬間、誰かが足首をつかんだ。見つけたぞ、と声がして、ざわざわと揺れる毛の中から黒髪の頭が現れる。
「こんなところにいたのか。帰ろう。今すぐ帰ろう」
顔を出したのは若い男だった。くっきりとした目鼻立ちに、黒々とした髪と眉が印象的だ。赤いジャージを着ているが、腕にも背中にもマリモの毛が絡みついている。
「ご家族?」
中谷が怪訝そうに言った。ミウは首を振る。
「私、兄がいるけどこういう顔じゃなかったと思います。多分」
「じゃあこの人は誰なの?」
むぅにぃと中谷は赤いジャージの男をじろりと見た。男は一瞬怯んだが、今度はミウの腕をつかんで引き寄せた。
「帰るぞ。晩御飯はマグロだ」
「嫌。デミグラ・ハンバーグ定食がいい」
ミウが言った途端、マリモがぼよんと跳ねた。男の手がミウから離れ、あっという間に体ごと弾き飛ばされた。
「今よ!」
中谷が毛を引っ張ると、マリモはそのままぽんぽんと跳ねて前進した。男は転げ落ち、マリモの下敷きになってしまった。
むぅにぃは後ろを見て、もう追ってこないね、と言った。
「ミウちゃん、大丈夫?」
「あ、はい。知ってる人かもしれないけど、多分知らないので大丈夫です」
マリモは軽快に跳ね、道を渡って公園を横切り、家を飛び越え電柱の上まで飛び、電線で弾みをつけて空まで飛んだ。
「やっぱり最新型は違うわね」
「ちょっと繊細すぎない? 異物が入り込んだだけで動かなくなるなんてさ」
「あのまま動いてたら大変じゃない。あんなもの乗せて飛べないわよ」
むぅにぃと中谷が話している横で、ミウは携帯を拾い上げた。落ちたと思ったが、途中の毛に引っかかっていたのだ。電話はまだ繋がっている。
「おい、むぅにぃ。事故ったのか?」
「もしもし。桑田さん、ですか」
ミウは耳に携帯を当てた。
「桑田さんってデミグラ・ハンバーグ定食なんですか。食べたい」
「何だよ、むぅにぃじゃねえのか。どこにいるんだよ」
空です、と答えながらミウは行く手を見つめた。白い虹がかかり、遠くの景色がぼやけて見えた。宇宙ドーナツの店はまだまだ先だ。
マリモは雲から雲へと跳ねていく。柔らかい毛に包まれて、このままずっと揺られていたくなる。だけど今日もバイト先ではたくさんの客とドーナツが待っている。星の粉で揚げたドーナツは少し酸っぱくて、食べると目の中がチカチカする。
「私はデミグラ・ハンバーグ定食のほうが好きだけどなあ」
ミウはつぶやき、マリモを撫でた。マリモは喜んで、ミウたちを乗せたまま三回転半をして飛行機雲をまたいだ。