第七幕 第五場
山崎ケンとの通話のあと、おれは居間へと移動していた。真実を知りたければテレビを見ろ、と指示された。その目的もわからず、言われたとおりにテレビをつけるとソファーへと腰掛ける。適当にニュース番組にチャンネルを合わせると、それをぼんやりとながめるようにして見る。特に気になるようなニュースは報道されていない。
おれはため息をつき精神的疲労から目頭を揉みほぐすと、窓へと目を向ける。すでに夜の帳はおり、あれだけ激しかった雨は、いまや小雨へと変わっていた。
このままでは居留守番のタイムリミットがきてしまう。それまでに自分の身に起きている問題を解決しておきたいのだが、もはやすべての手はつくした。あとはこうしてニュースに耳を傾けているぐらいしか、できることはない……。
長くて短いような一週間だったな、とおれは思った。最初はただの単純な居留守をするだけのはずだったのに、それがこんなことになるなんて想像もしていなかった。すべては友人のふりをしていた、山崎ケンに仕組まれたことだった。その企みが明らかになっても、いまだその真意がわからず、おれはこうして振りまわされている。おかげで死ぬほど疲れた気分だ。
「——によりますと、発見された遺体はその所持品から、市内に住む奥村ヒロさんのものと思われ——」
それを聞いた瞬間、おれはすぐさまテレビに視線をもどした。画面ではどこかの雑木林を背景に、リポーターがしゃべりつづけている。
「人が死んでいるとの匿名の通報があり、警察が実際に現場へ向かい確認したところ、首を吊っている奥村さんの遺体を発見。警察はこれが自殺なのか、それとも事件性があるのかも含めて現在調査中であり、詳しい死因を調べるために解剖を——」
おれは信じられない思いで画面を見つめていた。いま目の前のテレビからは自分の死亡ニュースが伝えられているではないか。テロップには奥村ヒロ、二十五歳、死亡と表示されている。これはいったいどういうことだ?
「……何を言っているんだ」おれは呆然と口にする。「おれが死んだ?」
わけがわからない思いだった。おれは生きている。なのにテレビではおれが死んだと、報じられている。それがすごく不快で、とてもおそろしかった。
「……ああ、そうだ思い出した。たしかおれ詐欺師にだまされて財布も盗られたんだよ。だからこれは……あれだ。詐欺師が金だけ抜き取って財布を捨てたんだ」おれは顔をこわばらせながら、自分に言い聞かせるように言う。「それを自殺願望者の馬鹿が拾って、そのまま自殺しちゃったんだな。だから財布の身分証を見て警察が勘ちがいしてるんだよ。だっておれはここにいるのに、死んでいるはずがないじゃないか」
そうだ、そうにちがいない、とおれは決め込んだ。こんな馬鹿げた話があるはずない。自分がすでに死んでいるなんてこと、ありえるはずがないんだ。
「まったく警察もおっちょこちょいだな。あとで警察に電話して訂正してもらわ——」
突然、家の固定電話が鳴り響き、おれをぞくっとさせる。背筋を凍らせながら、電話のある方向へと、そのおびえた顔を向けた。
「……おかしいな。たしか電話機コードは抜いたはずだよな?」
おれはがたつく足でソファーから立ちあがると、ふらつきながら電話のもとへと向かう。近づくにつれ、息が荒くなり視野もかすみはじめる。そのせいで間接照明だけの室内が暗く感じてしまい、おかげで物にぶつかり倒れそうになってしまう。まるで酩酊しているかのようだ。
おれは固定電話の前に来ると、床に落ちていた電話機コードを拾いあげる。それは確実に電話からははずされており、いま目の前で電話が鳴りつづけていることが、とてもこわかった。こんなのありえない。ありえないことばかりが起きている。これはおれが見ている幻覚かなにかなのだろうか?
そんなことを考えていると、やがて電話が留守電に切り替わった。
「いつまでそうしているつもりなの?」その声は松下アヤカだった。「電話に出てよ」
おれは電話機コードの先っぽと、固定電話を交互に見やる。「……ありえない」
「いつまでもコードばっかり持ってないで、受話器を取ったのならどうなの」
そのことばでおれははっとすると、あたりを見まわす。「見ているのか?」
「聞こえないわよ。ちゃんと受話器を持ってしゃべってよ」
おれは電話機のコードを離すと、おそるおそるその手を受話器へと置いた。だがそれを持ちあげられない。電話に出てしまえば、何かおそろしい目に遭いそうで、こわくてしかたがない。
「……あなたがこわいのはわかる。けどね、こっちもこわいのよ」松下はその声を振るわせた。「わたしだってあんたとしゃべるなんて、ほんとうはいやなの。けどそうしないといけないから、だから勇気を振り絞ってこうしているの。あなた一応、男なんでしょう。だったら電話に出たらどうなのよ」
しばし逡巡したのち、おれは覚悟を決めた。ここまできたのなら、もう迷う必要はない。いま自分の身に何が起きているのか、はっきりさせるべきだ。おれはおのれを鼓舞すると、ゆっくりと受話器を持ちあげた。
「……もしもし、松下アヤカだな?」おれは緊張した顔つきで問いただす。
「ええ、そうよ。そっちはたしか……だれだっけ?」
「奥村ヒロだ」
「そう、そんな名前だったわね」
「……あらためて聞きたいがある。おれの名前に聞き覚えはあるか?」
「前にも言ったけど、その名前に聞き覚えはない。けど、あなたが以前にこの精神科の家にいたというのなら、もしかすると見かけたことがあるかもしれない。あなたの特徴を教えてくれる?」
「長髪でひげを生やした男だ」
しばし無言の間がつづく。おそらく松下は記憶を思い起こしているのだろう。
「……わからない」松下は言った。「けど、あなたの存在を感じたことがあるような気がするの。いまこの状況にあるから、わかるような気がする。あなたは以前、わたしがいた部屋をのぞいたことがあるんじゃないの?」
そう言われ、おれは夢で見た出来事を思い返す。おれは松下がいる部屋をのぞいたていた。あれは実際に体験した出来事を、夢で見ていたのではないだろうか?
「……もしかするとあるのかもしれない」おれは言った。「どこかであなたの話を聞いて、興味本位であなたがいる部屋をのぞいた……ような気がする」
「だからあなたはわたしのことを知っていたんだ。わたしが知らないのに」そこで長々と間を置くと、松下はとげとげしい口調になる。「だからわたしにつきまとっていたのね。自分が死んだあとに」
おれは顔を青ざめさせた。「……それはどういう意味だ?」
「もう自分でも気づいているんでしょう?」
「だからなんのことだ!」おれは不安をかき消すかのように、思わず声を大にする。
小さなため息が聞こえた。「あなたはもう……死んでいるのよ」
そう言われ、おれは大きく目を見開いた。そんなことありえない、とわかっている。だがテレビでも自分の死亡ニュースが伝えられ、そしていま松下からも自分の死が宣告されたことで、その自信がゆらいでしまう。
「……そんなのありえない」おれはどうにかことばを振り絞る。「だっておれはここにいるんだ。生きてここにいるのだから……死んでいるはずない」
「それはあなたがそう思い込んでいるだけ。実際にはすでに死んでいるの」
「……そ、そんな馬鹿な話は信じないぞ」
「事実から目をそらさないで。自分がいったいだれなのか、その目でたしかめてそれを受け入れてちょうだい。そうすれば真実がわかるわ」
「たしかめるって……どういうことだよ?」
「あなたは、ほんとうに奥村ヒロなの?」
「ああ、おれは奥村ヒロだ」
「ほんとうにそうなのかしら?」松下は挑発するような口調になる。「あなたはさっきこう言ったわね、自分は長髪でひげを生やした男だ、と。それがまちがいだとしたら?」
自信を喪失していたおれは、それをたしかめるように自分の長い髪を手ですくと、あごひげに手を添えた。だがそこにあるべきはずのひげの感触はない。つるつるの肌があるだけだ。思わずはっとすると、すぐ近くにある窓に目を向けた。そしてそれを鏡代わりにするべく、カーテンを引いた。その瞬間、信じられないものを目にした。そこに映っていたのは女だ。その女の髪は長く、右目の下に泣きぼくろがあるではないか。
「……松下アヤカ?」おれは愕然となる。「どうしておれが松下アヤカなんだ?」
「もうこれでわかったでしょう」松下はそこでことばを切ると、声を強めた。「だからわたしをカエシテ!」
おれはおうむ返しする。「カエシテ……かえして……返して!」
そのことばの意味を理解した瞬間、堰を切ったかのように失われていた記憶が洪水のごとく押し寄せる。その荒波にのまれ、おれは受話器を離して両手で頭を抱えた。悲鳴にもにた雄叫びをあげる。
やがてすべてを理解したおれは、苦しげに胸を押さえると涙をこぼす。
「おれは……奥村ヒロじゃない」おれはつぶやいた。「おれは……おれは……おれは……おれは……おれは……おれは……おれは……」
だが自分の名前を口にする前に、そのときがやってきた。急速に意識が遠のき、そのまま床へ倒れ込むと気を失ってしまった。




