第七幕 第三場
舌なしが立ち去り数時間が経過した。激しく降っていた雨も、だんだんとその勢いを弱めていく。
おれは居間でずっと舌なしのことを考えていた。舌なしはおれに会いにきていたわけではなかった。つまりはおれと舌なしは、なんの関係もなかったことになる。よくよく考えてみれば、もしもおれに会いにきていたのなら、その声ですぐに本人とわかるはずだ。わざわざあんな質問につき合う必要もない。
だとしたらかつておれが入院していた部屋にある、あの黒いレインコートを着たマネキンはいったいなんだったのだろうか? ただの偶然の一致とは考えにくいのだが……。
ほかにも気になる点がある。おれが奥村ヒロと名乗ったとき、舌なしはあきらかに敵意をむき出しに激怒していた。そう考えると、舌なしはこのおれ奥村ヒロを知っている可能性がある。だけど知らないふりをしたのか?
これはどういうことだろう、とおれは思った。それに最後に伝えてきた嘘だ、ということばも気になる。おれが嘘をついた、ということだろうか?
……わからない。どれだけ考えても、筋道の通った解答は見つからない。これ以上考えても、舌なしから自分の喪失した記憶がわかることもないだろう。
おれは暗鬱なため息をつくと、ソファーから立ちあがり窓に歩み寄る。もしかすると、舌なしがまた見張ってはいないかと、カーテンのレースを引いて外へと目を向ける。だがそこにはだれの姿もなかった。森の木々が雨風にあおられ、ざわめいているだけだ。
おれが外の様子をうかがっていると、家の固定電話の音が鳴り響いた。おそらくは、あの女だ。松下アヤカにちがいない。
おれは急いで固定電話のもとへ向かう。松下アヤカはおれの友人を装っていた山崎ケンの恋人だ。いま現在、松下は行方不明でその原因はおれにあるらしい。だから山崎はおれに居留守番の仕事を引き受けるよう仕向けた。だからこそおれはこの家にいる。そしてそこへ行方不明のはずの松下から電話がかかってくる。話をまとめてみると意味不明だ。
おれが電話の前につくと、ちょうど留守電に切り替わるところだった。松下とおれは、以前にこの精神科の家に入院していた。だから自分という人間の記憶の空白を埋めるための、手がかりになるかもしれない。もう居留守番なんてどうだっていい。その約束は舌なしの訪問に応答し、すでに破っている。なら自分のすべき道はひとつだけだ!
「もしもし先生」女の声が聞こえてきた。「わたしです、松下アヤカです。どうして電話に出てくれ——」
おれは意を決した表情で受話器を手にする。「もしもし、聞こえますか」
「……だれ、あなた?」松下は困惑した様子だ。「先生じゃない。どうしてなの。先生をだしてよ」
「その先生とやらは、この家にはもういない。死んだんだ。患者のひとりに殺されてな。だからきみが先生と話すことはできない」
「……死んだ?」松下の声音は驚きに打たれている。「そんなことを言わないでよ。もしそうだとしたら、だれがわたしを助けてくれるのよ」
「松下さん、よく落ち着いて聞いてください」おれはなだめるような口調になる。「おれの名前は奥村ヒロ。あなたと同じで、過去にこの精神科の家に患者として……いたらしい。だからあなたらな、おれのことを知っていますよね?」
しばし間が空く。「そんな名前、わたしは知らない」
「知らない?」予想外の反応におれは眉根を寄せた。「そんなはずない。おれはあなたのことを知っていたはずらしい。だからあなたもおれのことを知っているでしょう?」
「……知るわけないでしょう」松下は声の調子を落とした。「わたしはずっとあの部屋にいたの。あそこであいつらから自分の身を守ることで必死だったの。ほかの患者に構っている暇なんてなかったわよ」
「そうですか」おれは気落ちしてしまう。「……なら質問を変えましょう。松下さん、あなたは山崎ケンなる人物を知っていますよね」
「当然よ。こうなってしまったわたしを支えてくれた人よ。彼のおかげで先生を紹介してもらえたんですから」
「その山崎さんが言っていましたよ、あなたは自宅のマンションから失踪してしまい、いま現在は行方不明だと」おれはそこで声を強める。「だから松下さん教えてください、あなたはいまどこにいるんですか?」
「わたしならこの家にいるわよ」
おれは顔をしかめた。「嘘を言わないでください。いまこの家にはおれのほかに、猫しかいません。ほかに人はいません」
「それでもわたしはここにいるわ」松下は言い切った。「でも自分がどこにいるのかまではわからない。そういう意味ではわたしは行方不明なのかもしれない」
おれは疑問符を頭の上に浮かべる。「意味がわかりません。あなたはいまどこにいるんですか。周囲の状況はどうなっているんですか?」
「この家のどこかにいるんだと感じるんです。でもあたりは真っ暗で何も見えなくて、おそらくどこかに閉じ込められているんだと思います。わたしはそこから必死に呼びかけているんです」
「閉じ込められている?」おれはあたりを見まわす。「この精神科の家に、隠し部屋があるんですか?」
「それはわからない。けどわたしはここにいるんです」そう言い切った松下の口調は真剣そのものだ。「だから先生の代わりに、わたしを助けてください。そして見つけてここから出してください」
どうしたものだろうか、とおれは思った。嘘をついているようには思えない。だが松下はこの精神科の家に患者として入院していたんだ。本人が自覚なしに嘘をついているとも考えられる。相手のことばを鵜呑みにするのは危険だ。
「松下さん、よく聞いてください。もしあなたの話が真実だとするのなら、おれもあなたを助けたいと思っています」
「何よそれ!」松下は怒気を含んだ声で言う。「わたしが嘘をついているとでも言うの」
「いえ……、そういうつもりで言ったのではありません。ただこの家に隠し部屋らしき場所が見あたらないので、もしかしたら松下さんが別の場所とここを混同している可能性があるかもしれない、ということです」
「ぜったいにこの家にわたしはいるわ」松下は断言する。「だってたまにサクラの鳴き声が聞こえるんですもの」
サクラの鳴き声が聞こえる……、どうやら嘘ではないようだ。だとしたらこの家のどこにいるんだ?
「わかりました松下さん。あなたの話を信じます。だから教えてください、ほかにあなたがいる場所に、何か手がかりはないかどうか」
「手がかりですか。……わかりません。あたりは真っ暗で何もわからないんです」
「そうですか……」
どうすればいいんだ、とおれは思った。サクラの鳴き声が聞こえるだけでは、あまりにも手がかりが少なすぎる。そんな場所この家のどこにでもあてはまる……。
落ち着け、と自分に言い聞かす。山崎の話だと松下がこの状況下に置かれているのは、自覚はないがおれのせいらしい。だからこそ山崎はおれをこの家に向かわせた。松下を助け出すために。だったらおれに……どうしろと?
「……松下さん、この話があなたを助けるヒントになるかどうかはわかりません。けど聞いてください。山崎さんはあなたを助けるために、この家におれを向かわせた。あなたが行方不明になった理由が、おれにあるからだそうです。そのことから、あなたがいまいる場所を特定する手がかりになりませんか?」
「……あなたのせいなの?」松下は信じられないといった口調だ。「わたしがこんな目に遭っているのは、あなたのせいだというの?」
「……自分には記憶が喪失してて、それがほんとうなのかはわかりません。けど山崎さんはそう言っていました。もしそれが真実なら、もうしわけないことを——」
突然松下が甲高い笑い声をあげて、おれのことばをかき消す。そのせいで思わず受話器から耳を遠ざけた。いったいどうしたんだ急に?
「……そう、そういうことだったのね」松下は恨みがましい声で言う。「おまえのせいだったのか。すべて理解したわ。ねえ、わたしをカエシテよ」
「えっ、カエシテ?」よく聞き取れなかったので、おれは受話器に耳をあてる。「いまなんて言いました?」
「カエシテよ、わたしをカエシテよ。いますぐにわたしをカエシテ」
カエシテ、以前にも同じことを言われた。あれはたしか夢のなかでの出来事だ。
「早くわたしをカエシテ!」松下は怒りの声をあげると、まくしたてる。「カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ——」
おれは気味悪さから電話を切った。だがすぐに電話が鳴り響く。さきほどの突然発狂した松下がおぞましく、おれは電話に出る気にはなれなかった。すると電話は留守電へと切り替わる。
「わたしをカエシテ!」松下は怒鳴る。「カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ、カエシテ——」
おれは固定電話から電話機コードを引き抜いた。すると電話は止まり、あたりは静まり返る。おれは持っていた電話機コードを床へと投げ捨てると、頭を抱えてしまう。
「なんなんだよいったい……」おれは弱々しい声でそうつぶやいた。




