人生最悪の目覚め
「……ぃ〜ちゃん」
線香の煙のような声が耳に届いた。
青年は踏み出そうとした右足をぴたりと止め、慎重に辺りを見回した。
誰もいない。
何もない。
茫漠とした白い世界が広がっている。
塩を敷き詰めたような大地。青を漂白したような空。空と大地は溶け合い、地平線はぼやけていた。
……気のせいか。
再び歩き出そうとしたとき、
「おに〜ちゃんっ!」
今度ははっきりと聞こえた。小鳥のような可憐な声だ。同時に、右肩に一人の少女が飛びついてくる。
同じ武装団に所属する仲間の少女だった。
小さな背丈。ふわりとしたブラウン色のショートヘア。幼さの残る顔立ち。
自分と同じ十六歳のはずだが、なぜか『お兄ちゃん』と呼んでくる。
「おにーちゃん。生き残ったらキスって約束。まさか、忘れたわけじゃないでしょーね?」
両手を腰にやり、ハキハキと言葉を投げてくる少女。どうやら、彼女が尊敬している女性先輩兵士の口ぶりを真似しているようだ。本人はそれで平静を装っているつもりなのだろうが、両頬は仄かに紅潮しており、照れを隠すときの少女の癖——唇をきゅっと軽く結ぶ仕草が表れていた。
自分を大人っぽくみせようと空回りする少女をみると、いつも和やかな気持ちになる。だが、今胸の中に沸き立った感情はそれとは相反するものだった。
なぜだ?
青年は目を擦り、敵を警戒するような目で少女をじっと見た。
なぜ、少女がいる?
模糊とした意識のなかに疑問符が浮かぶ。と同時に、おぞましい仮説が思い浮かんだ。
幽霊。
「えへへ……」
頭をかきながら少女が苦笑いする。いたずらっぽく舌を出し、やっぱり恥ずかしい、と表情で伝えてきた。
「おにーちゃん……ぎゅーてしてよ」
いつものように、上目遣いで甘い声を漏らしながら、幼子のようにねだってくる。
青年は息を吐くと、
「……」
おそるおそる、その身体を両手で覆った。掌を少女の背中にぴたりとあてる。
温かい。
そのまま少女を抱きしめた。
冷えきった身体に温かさがしみ込んでくる。
本当に幽霊なのか?
こんなに温かい幽霊がいるのか?
思考は空転するばかりだった。やがて、答えの代わりに強い願望が頭を支配した。
少女さえいてくれればいい。
たとえ幽霊であっても。どんな姿でも。少女さえいてくれれば自分は幸せだ。
「おにーちゃん……」
耳元で、少女がかぼそい声を漏らす。
「ぜったいに生き残ろうね」
「ああ。必ず」
人間の焼ける匂いが鼻をかすめたとき、青年は夢から覚めた。
*
夢を見ていた。
重い瞼を上げる。
ぼやけた視界に荒れ果てた世界が広がった。
「……」
残酷な現実を突きつけられ、青年は絶句した。
胸にあった少女の温もりも、当然ながら消え失せている。
日本列島の関東エリア。『廃墟ジャングル』と呼ばれている無政府地帯。三日前、この場所で大規模な『円盤爆撃』があった。
三日前までは数多の廃墟が競うようにして立ち並んでいた廃墟ジャングルには、今や一つとして建物が見当たらない。あるのは寒々とした瓦礫の海だけだった。視界を遮るものは全て崩壊し、視線は遠方の山裾にまで抜けていた。
もはや、廃墟ジャングルという名称はふさわしくないだろう。
瓦礫の海には、爆撃に巻き込まれた緒物——四脚歩行兵器、戦車、装甲車両、迫撃砲、自動小銃、その他紛争支援物資、負傷した武装団員や廃墟街の貧民、あるいはその死屍などが、波間にたゆたう漂流物のごとく散乱している。
青年もそのうちの一つとなり、路傍の瓦礫に背を預けながら、死が訪れるのをじっと待っていた。
怖いとも、寂しいとも、辛いとも、何の感情も浮かんでこない。
ただ、一つの強い後悔だけが、頭を支配していた。
『おにいちゃんはこれからも生きてね。わたしの分まで……』
それが少女の最後の言葉だった。
思い出す度に、困憊している身体が戦き、身体が裂けそうになる。
もしも……三日前に戻れたとして……。
青年は乾ききった下唇を噛み締めながら、何度も自身に問いかけた。
自分は少女を守れただろうか?