冥界の渡し船
砂が渦巻く巨大昆虫の住処から無事に脱出したカイは、またもや勢い良く次の場所へと転がり込む事になった。
何があるか分からない扉の向こう側にいきなり飛び込むというのは、普段なら非常に軽率な行為と言える。しかし今回は、あのおぞましい化け物が採餌行動に出ないうちに、と急いだ結果であり、危機を回避する為には止むを得ない事であった。
現にカイがあの場から脱出した瞬間、昆虫の恐ろしい顎が轟音を響かせながら、最下層の足場を薙いで行ったのだ。カイの判断と行動が少しでも遅かったら、流砂を漂う骸骨の仲間入りをしていたであろう。
扉に体当たりをして飛び込んだ先で、カイは一度大きく前転し、片足で地面を削りながら勢いを殺し、数歩分の距離を滑って漸く止まった。
止まったその場で目を閉じ、荒い呼吸を潜めて耳を澄ます──一瞬、視界に川の様な物が映った気がしたが、今は安全確認が先である──…………今のところ、魔物や危険な獣などの気配は無いようだ。
この場を安全と見なしたカイはそのまま寝転んだ。深呼吸を繰り返している間に感じ取ったのは、その場所の暗さと仄かな明るさ、そして土の匂い──しかも苔や黴が混ざった匂い──と流れる水の音だった。
起き上がって見ると、やはり目の前に大きな川が流れていた。
(……地下にもこんな所があるのか)
本来ならば、地下の空洞を流れる水脈と認識すべきだが、その光景が地上のものと余り変わらないので、カイは目の前の水の流れを川と捉える事にした。
川岸には松明を挿した台座が幾つも設置されていて、それが川に沿って延々と続いているので、さっきまで居た吹き抜けほどではないが、辺りが良く見える。
松明の光も、普段知っている物に比べて遥かに明るく感じた。ひょっとしたら魔法光かもしれない。
今までの出来事を踏まえると油断は禁物だが、取り合えず周囲を探索するのにとても良い環境と言える。
しかしその前に……
(何よりも、まずは水!)
カイは松明に照らされた岸辺に駆け寄り、皮手袋を外して片手を水に浸した。水は清らかで冷たく流れが速い。両手を洗ってから水を掬い、顔を洗い、口を濯ぐ。砂の感触が口の中から消えた頃合いで、今度は水を含んでゆっくりと飲み下す。
水はこの上なく甘く、喉を潤した。
マントを外して大きく振るい、体中から砂を叩き落とし、再び川面に屈み込むと、両手で勢い良く水飛沫を上げる様に、頭に何度も水を掛けた。
そうやって気が済むまで汗と砂を洗い流したら、犬がやる様に頭を振って雫を振るい落とす。
気分さっぱり、と言った表情で息を吐きだしたカイは、その直後に脱力と眩暈を感じ、その場にへたり込んだ。今まで抑え込んでいた疲れと空腹が一気に押し寄せたのだ。
きちんと休息を取ろう。
そう独り言ちて、楽な姿勢に座り直し、鞄から水入りの皮袋と昼食の包みを取り出す。
宿屋から貰った包みは麻布に蝋が塗られた物で、開いてみると、琥珀色に燻された魚の切り身と艶のある干し果実が、紙の様に薄いパンに包まれていた。
日持ちしそうなので、まずは一口分に千切って口に入れてみた。燻製魚の塩気と、ねっとりとした干し果実の蜜の様な甘さが、さっきまで死の恐怖に晒されていた心身に染み渡る。もう一口……更にもう一口。さっきよりよく噛んで、じっくりと味わい、再び川から水を掬って飲む。ついでに無くなり掛けていた皮袋の水も補充しておく。
短い休息で活力を取り戻したカイは立ち上がり、すぐ傍にある台座から松明を抜き取ると、川沿いを探索するべく歩き出した。
川岸は湿った土の上に大小の丸い石がごろごろと転がっている状態で、向こう岸も同じ様子だ。そんな地面が川から二十歩程続いた後、急に切り立った断崖絶壁となっている。不思議な事に、カイが潜って来た扉はいつの間にか消えていた。
最も、再び入ったところで地上まで戻れる様な場所では無いし、あの化け物も二度と見たくはないので、消えてしまっても惜しく無い。
(それにしても……)
動く亡者達の部屋や円柱形の巨大な吹き抜けと、今までは人の手で作られた半ば閉鎖的な場所からの脱出が続いたが、此処に来ていきなり、壮大に開けた自然の景色に出くわしてしまったので、若干調子が狂う。
(まぁ、殺風景な場所よりはいいか……)
そんな事を考えながら川上へ向かっていたが、途中で道が大岩に塞がれて進めなくなった。
カイの身長の三倍ほどもあるその大岩は、表面がつるつるとして手を掛ける所も無い為、よじ登るのは不可能だ。
先へ進むのを諦め、踵を返して川下へ向かう事にした。川下への道は緩い下り坂で、先程より幾分か進むのが楽だ。
しばらく歩いていると、遠くから騒々しい水音が絶え間無く聞こえて来た。
(あれは滝だな)
カイは前方に目を凝らした。
案の定、川と道が切断された様に途切れている。そこから川の水が勢いよく落下して、その音が響いて来るのだ。川を挟む様に切り立った二つの岩壁はそのまま続いている様だが、川と道が切れた先の空間は真っ暗闇で何も見えない。
滝になる手前の岸辺には、石で出来た柱の様な物が幾つかあり、川面には小さな舟が見える。
舳先と船尾が高く反り返った形をしているその舟は、不思議な事に、水の勢いに対して微動だにしていない。
近づいて見ると、その理由が分かった。舟が川面から宙に浮いているのだ。川の水面に比べて岸がかなり高くなっており、舟は岸より少し低い位置だが、ほぼ同じ高さにある。
更に良く見ると、舟の下から人の腕位の太さの丸い棒が二本、川の中心へと延びている。その棒を目で追って行くと、更に向こう岸まで延びている様だ。
金属で出来ているのか、刃物と同じ色をしたそれは松明の光を反射して鈍く光っている。更に近づいて見ると、鈍い二本の光は少し離れた左側にもう一組分あった。川の中心辺りにも舟が見えるので、あれを乗せているのだろうか?
川に差し渡された二本の棒が、何かに似ていると考えてから、カイはある事を思い出した。
橋桁だ。数年前にリルデンで狭い水路の上に小さな橋を渡す工事があり、手伝ったので良く覚えている。石や煉瓦製のきちんとした物ではなく、近隣住民が近道として活用する為の簡易的な物である。
二本の丸太を主桁として水路に渡し、路面になる板を張る。その板が無い主桁だけの物が正に目の前にあるこれだ。一般的な物よりも幅は狭いが、川の両岸を繋いでいるのなら、十分な橋が作れそうなものだが……。
(それなのに、何故?)
板を張らずに舟を乗せるとは、一体どう言う目的なのか?
低く屈んで下を覗き込んだカイは、更におかしな事に気付いた。舟底に車輪が付いている。……と言うか、車輪の付いた脚が船体の側面から横向きに飛び出ている。見た事も無い金具でしっかりと固定された短めの脚と、差し込まれた形で付いている車輪は、どちらも金属製でとても頑丈そうだ。
そんな物が前と後ろにそれぞれ対で二つずつ。つまり、馬車の車体部分が舟になった様な形をしているのだ。
車輪は馬車の物よりかなり小さいが分厚く、丸い溝があり、橋桁もどきの形にぴったりと嵌っている。微かに油の匂いがするのは、錆の防止と、動き易くする為だろうか。
(……これで舟を移動させるのか?)
何故、こんな仕掛けを作るのだろう? そう考えながら、カイが対岸に目を向けると、川の真ん中あたりで急に白い靄が立ち始めた。目が慣れて来たとは言え、この状況はどうにも視界が悪い。
ここから川上へ戻った所の向こう岸には松明が無数に並んでいるのだが、今立っている所の真向かいには松明の灯りが二つ見えているだけだ。向こう岸へ渡れる唯一の場所かもしれないのに、何とも不親切極まりない。
立つ位置を変えつつ根気良く凝視していると、松明の逆光で二つ……いや三つの柱があるのが分かった。こちら側にある柱と同じ物だろう。こちらよりも一つ多いが、何か意味があるのだろうか? それよりもあるのは柱だけなのか?
何かを期待して、更に目を凝らすと……
(あれは!)
灯りが照らす岩壁に、大きな扉があるではないか。あの扉から先へ進む事が出来る。
向こう岸へ渡る為に、どうすれば良いか。
カイは周囲を細かく調べる事にした。
両岸にそれぞれ岩石で出来た太い柱が建っている。こちら側にある柱は二つ。
二つとも四角い形をしており、柱の真ん中にある小さな穴から細くて丈夫な黒い縄が飛び出している。
手前の柱の縄は舟の高く反り返った舳先と船尾、それぞれの頂点に付いている金属の輪を通って、対岸の方へと伸びている。縄の張り具合から、恐らく向こう岸の柱とも繋がっているのではないか。
隣の柱から出ている縄も、向こう岸へ向かってピンと張られている。
舳先と船尾を通って両岸を繋ぐ縄。
(この縄を手繰って舟を進ませる仕組みか)
何とも奇妙な仕掛けだが、これで対岸へ渡る以外に道は無いようだ。
舟には松明を差しておく台座がある。乗り込もうとして下に目を向けた瞬間、カイは松明を落としそうになった。明るく照らされた舟底に、一体の亡骸が横たわっていたのだ。一瞬、赤い光に満ちた小径に蠢く、あの恐ろしい亡者達を思い出して身構えたが、舟底の亡骸は身じろぐ事も、何かを喋る事も無かった。
ほっとしたカイが更に良く見た所、薄汚れて裾の長い貫頭衣を着たその体は、首と両手足に枷が付けられ、底板に固定されていた。
(酷い扱い様だ)
処刑された罪人の様なその姿にカイは心を痛めた。これもあの念話の主の仕業なのだろうか?
この亡骸と共に川を渡って行くしかないが、そうなると乗り込むにも足の置き場に困る。この舟は明らかに一人乗り用で、舟底が細長く、その狭い場所を埋める様に亡骸が磔にされているのだ。
(つま先立ちでも無理だろうし……縁に立ってみるか)
左右の縁に何とか足を乗せ、縄を掴んで恐る恐る引いてみる。少しだけ前に進んだが、どうしても強い力が必要で、踏ん張りが効かない今の体勢が辛く、直ぐに降りてしまった。
(このままでは駄目だな)
亡骸は動かせないし、その体の上に足を降ろす訳にはいかない。人によっては、きっと罪人だろうし、何より死んでいるのだから気にしない、と言って踏む者もいるだろう。しかしカイには到底出来る事では無かった。
(どうしよう……)
縁に乗ったまま移動して、万が一足を滑らせてしまえば、急流に落ちて滝壺へ真っ逆さまだ。
何か足場に使えるものは無いか辺りを探してみると、柱の陰に壊れた舟の残骸を見つけた。舟は骨組みに何枚もの長い板を貼り合わせて出来た物らしく、使えそうな物が幾つか転がっている。そこから幅が広くて丈夫な板を拾い上げ、舟の両縁の上に、小さな橋の様に渡して足を乗せる事にした。
上手く体重を掛け、慎重に縄を引く。すると舟が動き始めた。片膝を突いた体勢で、縄を引きながらゆっくりと進んで行くと、前方に誰も乗ってない舟が止まっているのが見えた。カイは静か進めて行き、無人の舟の横を通り過ぎようとした。
(!?)
突然、舟が動かなくなった。止まった反動で前のめりになったカイは、慌てて舟の縁を掴み、転がり落ちるのを防いだ。
体勢を立て直したカイがいくら縄を引いても、舟がこれ以上前に進む事は無かった。
何が原因なのか全く分からない。困り果てたカイは無人の舟に目をやった。
舟が動かなくなったのは丁度川の真ん中、無人の舟の真横の位置だ。ぴったり真横に並ぶ、と言うのがあからさまに怪しい。
舟から舟へ、乗り移って川を渡れ、と言う事なのか。
舟同士の距離は自分の歩幅より少しだけ長い。なので乗り換えるには飛び移るしかない。
だが、そうなると……
立ち込める靄の中、松明を手に立ち上がったカイが覗き込むと、やはりその舟の底にも同じ様に磔にされた亡骸が横たわっていた。
(やっぱり)
飛び移ればどうしたってあの亡骸を踏んでしまうだろう。止むを得ないとするべきか……いや、どうしても嫌なものは嫌だ。合理的だろうが安全だろうが、害意の無い物の尊厳を踏みにじるのは抵抗がある。工夫をして避けられるならそうしたい。そう考えて、カイは一旦元の岸に戻る事にした。
こうした考えに基づく地道な行為は、幼い頃からカイの日常において、癖の様なものだった。
そこに目を付けたリルデンの悪餓鬼どもからは、よく嘲笑の的にされていたのもだ。まぬけ、のろま、無駄骨折り等、人を罵る言葉だけは豊富な連中だった。
罵りは時々小石や腐った食べ物と共に投げつけられたが、それでもカイは屈する事無く、時には適度に反撃しながら、自分の意思を貫き通した。その結果、周囲の大人達から意外な程きちんとした信用を得る事となり、哀れで厄介な孤児の立場から一転、真の住民としての地位を手に入れたのである。
なのでカイは己の意思を曲げない。余程間違っていない限り、良い結果をもたらすと信じている。
足場の上でくるりと船尾に向きを変え、縄を戻る方向へ引いてみる。舟は滑らかに動き出し、元の岸に戻った。再び舟の残骸の所に行き、もう一枚長めの板を拾い上げ、再び舟を対岸へ向けて動かす。二つ目の舟は最初に見た時と同じ位置に止まっている。真横に舟を止めると、カイは足場の上で長い板を持ち上げ、落とさないよう気を付けながら、隣の舟に差し渡した。
(上手く乗った!……良かった……)
川面から宙に浮いた奇妙な舟の上で、カイは安堵の溜息をついた。差し渡した板も長さの割にしっかりしている。
松明を手に取り、二艘の舟に渡した板の上を慎重に歩き、二つ目の舟の台座に松明を差す。それから一つ目の舟に乗せていた足場の板を拾い上げ、二つ目の舟の両縁に渡す。更に二艘の舟の橋代わりとなった長い板をも、滑らせる様に移動させて縁に乗せた。念の為、持って行く事にしたのだ。
二つ目の舟も、始めの舟と全く同じ造りだ。高く反り返った舳先と船尾、その先には金属の輪が付いている。元の岸にあった、もう一つの柱から出ていた黒い縄は、やはりこの二つの輪を通って向こう岸を繋いでいる。
新たな舟の足場の上で縄を引くと、これも先程と同じ様にゆっくりと前に進み始めた。喜びと軽い緊張を交互に感じながら、カイはまた縄を手繰った。今のところは上手くいっている。しかしこの先は何があるか分からない。慎重に、用心深く。カイは只管、縄を手繰り続けた。
そうやって進み続け、川の真ん中よりも対岸に近づいた所で、斜め左側にもう一艘の舟が見えた。
三つ目の舟は何故か真っ黒で、この闇と靄の中では余程近づかない限り、その存在に気付けない代物だ。この舟も水面から浮いている。乗り継いできた二艘の舟と同様に、橋桁の様な物の上に乗っているが、その二本の棒は(これも何故か真っ黒である)、対岸からこちら側に伸びている途中で下に折れ曲がり、川の中へと消えている。
カイは二つ目の舟を進め、黒い舟に近づいた。黒い舟の真横に並んだ途端、二つ目の舟も動かなくなった。
そして、やはりこの黒い舟の底にも、亡骸が磔となっており、一つ目、二つ目のと同じく、長い布の貫頭衣を纏っている。
先程と同じ手順で小さな橋を渡し、松明を移し替え、足場を乗せる。長い板も移し替えてから、松明の光を頼りに引っ張る為の縄を目で探す。
縄は今まで乗って来た舟と同じ、高く反り返った舳先に付いた輪を通っていたが、両岸を繋ぐ事無く途切れ、舟底へと垂れていた。カイは足場に両膝を突き、腕を伸ばして縄を掴んだ。縄は端が結び目となっている。
そのまま上体を起こして縄を手繰ると、黒い舟は滑らかに動き出し、前へと進んで行った。
川の流れの音と、滝の落ちる水音が響く中、黙々と縄を手繰り続けると、漸く対岸に到着した。目の前に見える岩壁には大きな両開きの扉が確かにあり、二本の松明がそれらを照らしていた。
(やっと着いた……!)
緊張が解ける中でも油断する事無く、最後の縄のひと引きをゆっくりと行い、舟を静かに岸に着ける。
何事も無くて良かったと、カイは心底ほっとした……その時。
黒い舟が接岸した瞬間、扉が突然こちらに向かって開き、突風が吹きつけて来た。
カイは咄嗟に身を屈め、舟の縁を掴んで風圧に耐えた。屈んで下を向いた事により、舟底の亡骸と目が合ってしまったが、それ以上にカイは、恐ろしい事に気付いた。伏せている自分の体が、下からの風で押されている!
舟底から風が吹き上げて来るのだ。
舟底の亡骸が風に煽られて激しく震え、纏っている衣の裾が大きく捲り上がり、その下に隠されていたものが露出した。
そこには骨のみとなった亡骸の胴体と、ボロボロに朽ちて崩れる寸前の底板があった。
『彼の者は人の心を試します』
不意にこの言葉を思い出し、カイはゾッとした。
この朽ちた板の舟底は自然に劣化した物ではなく、意図的に作られたのかもしれない。態々舟を宙に浮かせたのは、舟底が朽ちて隙間だらけでは水に浮かべる事が出来ないからだ。
余程の理由が無い限り、大概の者は舟底に足を降ろすだろう。乗ってしばらくの間は大丈夫だったかもしれない。しかし、縄を引く時にかなりの力が必要だ。何度目かの踏ん張りで確実に底が抜ける。
もしくは舟から舟へ移る時。少し離れた所へ飛び移って乗り込もうなどすれば、それだけで舟底の板は壊れるだろう。落ちて行く時に掴めるかもしれない金属の棒には油が塗ってある。
成す術なく落下して川の急流に飲まれ、流されたその先は滝……。
(一体何故……何を考えたらここまで……!?)
『……人の心を試します』
余りにも陰湿なそのやり方に、言い知れぬ恐怖を覚える。
ふと、風が弱まった。
その瞬間カイは、まるで逃げる様に舟から飛び降り、振り返る事もせず扉の中へ駆け込んで行った。




